イーグルくんと直接出会った日から、鵜飼の口数は明らかに減っていた。

 ゲームを起動することはある。でも明らかに前ほど打ち込んでいなかった。

「決めたよ」

 ある日、ゲームの画面を閉じて鵜飼はつぶやいた。キッチンにいる僕に向けて言っているとすぐにわかった。季節外れのグラタンを試している最中だった。言いたいことは、聞く前からわかっていた。

「おめでとう」

 鵜飼が言う前に先手を打つ。虚を突かれた顔にパラパラと拍手を浴びせた。

 帰ることを決めて、翌日の朝にはもう鵜飼は支度を済ませていた。といっても持ち物は背負える程度の着替えとスマホくらいのものだ。どこかに小旅行でも行くかのような調子だった。あまりに気軽で、おかげで見送りの申し出もしやすかった。

 駅へと向かう道すがら、例のコンビニが見えてきた。営業は再開し、養生シートも残っていない。元に戻っていることに、少なからず心動いた。

「スフレ売ってるかな」

 隣を歩く鵜飼が言う。

「せっかく本物を食べさせてあげたのに?」

「コンビニのはあれで結構美味いんだよ」

 話しながら駅へと向かう。結局コンビニには入らなかったけれど、きっとスフレは売れている。あれは人気商品だから。どこかの工場で作られた、冷えたままでも楽しめるスフレのスイーツ。想像すると食べたくなってきたけれど、鵜飼の手前、その気持ちは言わなかった。

 大学一年生のときに僕はこの街にやってきた。二年間、景色は大きくは変わっていないが、牛丼屋と靴屋がまとめてパン屋になったり、潰れたと思った居酒屋がお弁当屋としてよみがえったり、細やかな変化は起きている。僕の部屋に三か月もいたのに、鵜飼はそれらの変化にいまさら驚いていた。

「外出しなかったからなあ」

 鵜飼が自分で自分を笑った。

「買出しくらい行かせればよかったな。そうすればもっと気づけたのに」

「どうかな。あんまり自信はないよ。俺、余裕なかったし」

 駅へと続く道は、終わりそうでなかなか終わらない。

 梅雨は空けていないが空は青く広がっていた。厚手の服だったら汗ばんでいただろう。いい天気だ。イーグルくんもこの街のどこかで空を見ているのだろうか。

 駅につくと鵜飼は券売機でICカードの残高を確かめた。行先は実家。僕と鵜飼の共通の故郷だ。電車で二時間の路程は旅行と呼ぶには近い。その程度の距離を鵜飼は悩み続けていた。到着の時間を埋め合わせるために、僕らは待合室へと入った。鵜飼は少し眠そうだった。寝袋に籠ったのは見ていたのだが、もしかしたら目は開いていたのかもしれない。あの寝袋を鵜飼は気に入っていたが、持っていこうとはしなかった。

「お前が来たとき、嬉しかったよ」

 僕の方から言う。鵜飼から視線を感じた。

「久しぶりだったし、そんなに友達を呼んだこともなかったから。人と暮らすってこういう感じかってわかった」

「大げさだな、なんか」

 鵜飼が鼻の先を指でかいた。ほぐれた頬がゆるやかに波打っている。

「俺はただ逃げただけだよ。助かった。あのままお前の家にいかなかったら、どこかに倒れていた。そうなってもいいと思っていたんだ。俺が俺じゃないみたいだった」

 実際、心が壊れる寸前だったのだろう。あの頃の真っ黒な鵜飼の瞳は、あまり思い出したくない。

「僕はただ場所を与えていただけだ」

 本当に鵜飼を動かしたのは、イーグルくんであり、逐一連絡していた彼の両親だろう。僕から働きかけたことはない。僕にそんな張り合いはなかった。ただ傍にいて、ゲームを貸して、スフレを焼いただけ。

「それでも、助かったんだよ。俺は」

 鵜飼が言う。重ねてまで言われてしまうと否定するのもはばかられた。

 目当ての電車が迫ってくると、改札口付近がにぎわってきた。アナウンスも流れ始めている。鵜飼が背を伸ばした。座高は僕より高い。そこは小学生のときから変わらない。

「元気で」

 鵜飼が立ち上がる。

「またな」

 手を振りあって、鵜飼が先に待合室の外に出た。ひび一つないガラスの窓から、彼がホームに行くのを見送っていた。

 大学生になって、知り合いがむやみに増えていった。彼らを友達と呼ぶことに抵抗があり、そうこうしているうちに三年生にまでなってしまった。

自分の部屋と身の回りを整理できて、勉強に必要なものとお金の当てがあれば、大学生としての毎日はとりあえず過ごすことができる。あとは来年三月の就活というものを、フライング上等でやり遂げればいい。いわゆる真っ当な社会人としての生活まで。道は途切れず続いている。

 この想像は味気ない。世界が狭く感じられる。それは僕の人生の幅だった。同じことを繰り返していれば何も起きない。しかし繰り返さなければろくなことにはならないと、そんな脅し文句をいくつも聞いた。

 その繰り返しから、鵜飼は脱走した。合わないものから全力で逃げて、空白の時間をゲームで埋めていた。ゲームは目的を与えてくれる。とりあえずの行き先を見せて、歩くリハビリをしてくれる。

 電車の発射音を聞いてから、待合室を出た。湿っぽい風が通り過ぎて行った。帰り道の最中、例のコンビニに入った。空調は既に快適に動いていた。

 棚の奥に、果たしてスフレはあった。手ごろな値段であるそれを原価で考える。当然上乗せはされているけれど、一人で食べるとしたら、コンビニで買う方が都合がいい。何より気楽だ。一つだけ良く冷えたものをミルクのたっぷり入ったコーヒーと一緒に買った。

 家まで歩くのが面倒で、途中にある公園で休んでいる最中に手を付けた。さっくりとスプーンが入っていく。柔らかさの種類が、作ったときのスフレとは違う。これは確かに、本当のスフレではないのだろう。しかしこれもスフレだ。薄く焼けた肌触りのよさそうな黄金の生地。それをひとかけらずつ口に運んでいく。割くたびに甘い香りが立ち上る。家で作るスフレとの違いを考える。確かに違いはあるが、ほんのりしたバターの香りを運んでいると、どうでも良くなった。結局僕は、そこまでこだわっていない。買ったオーブンは大切にしたいけれど、たぶんあまり大それたことはしないだろう。誰か突然濡れそぼって来たりしない限り。

 公園は平穏な空間だった。砂場で子どもが遊んでいて、お母さんたちが話し合っている。肌の浅黒いタンクトップの男性が歩道をジョギングするのが見えた。ここからは見えないどこかのたまり場で、若者たちがスマホからヒップホップを流している。弛緩した笑い声が耳に届く。空では鴉が連隊を作っている。厚い雲の合間から覗く陽射しは優しい。だが初夏とはいえ、浴び続けると汗ばんできた。

 僕も鵜飼のことは言えない。この公園の名前を僕は知らない。遊んでいる子どもの名前もジョギングしている男性がどこで暮らしているのかも知らない。ただみんな生きている人間だ。感染症も居眠り運転もこの世界のどこかには潜んでいるけれど、とりあえずここはまだ、みんな生きている。

 僕は彼に死んでほしくなかったのだ。

 スフレの最後のひとかけらが、喉の奥へと滑り落ちていく。コンビニの袋にカップを入れて、飲み物は手に持った。公園にもゴミ箱はあったけれど、なんとなく捨てずに持ち帰ることにする。そうして僕は、もうすぐ口を空けて僕らを待ち構えているという深く暗い社会に向けて、歩き出すことにした。

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