「48」人生の恩師
「本当はちゃんと俺は生きていたってことですか? 未来まで生きている? でも、そんな記憶はありませんよ!?」
頭の中がこんがらがり、つい口調が強くなってしまう。熱く、責めるようになるがミチナガ先生はそんな非礼も特に気にしていないようだ。
「ちゃんとした筋道があって、君はそれを逆行しているのだろう? 老齢期、大人時代、思春期、学生時代……誰かがレールを引かなければ、君もその上を歩くことはできない。そんなもの、誰が引くっていうのさ? できるのは……君くらいのものであろう?」
俺だけにしか出来ない──?
そう言えば──確かに、俺には過去の記憶はないが、退行したところに居る人々はみんな俺のことを認識している。娘も妻も、ハズィリーにも、俺と過ごした記憶があるようだった。
──と言うことは、一度その思い出が築かれたということになる。当然、そこには俺が居て、一緒にその記憶を築き上げたのだ。
そうして過ぎ去った記憶を、今の俺は失ってしまっているということになる。
「そんな……忘れるなんて……」
「忘れているのさ。でなければ、逆から人生を歩んでいる君が、日常に溶け込むことができ、生活できることが不自然であろう?」
「そう言えば……」
そんなこと考えもしなかったが、改めて着目してみると不自然である。
赤子同然の状態で老人として生まれたのなら言語や他人とコミュニケーションを図る手段を持ち合わせていないことになる。
それなのに、俺は最初から肉親たちが話す言葉の内容が理解できたし、疑問に思うことすらなかった。
──言われてみたら、変である。
突然、見ず知らずの外国にでも送られたとしたら、初めは言語や文明の違いに戸惑うはずであろう。
それなのに、俺は最初からこの世界に馴染んでいた。
まるで、そこで生まれ育った人間であるかのように道具を使い、場所を移動することも出来た。
『初めて』の人間がこなせる所行ではないだろう。
「う〜ん……?」
だが、いくらスタート地点以前の記憶を呼び覚まそうとしても、臨終以前の記憶が蘇ってくることはなかった。
いくら頑張ったところで、ないものはないのである。
ミチナガ先生の考察は正しいのかもしれないが、逆にこの先に何が待ち構え、次に何処に退行させられるのか俺には見当も付かなかった。
少し、自分の世界に入り込み過ぎたようだ。
俺が長考して頭を悩ませていると、堪え兼ねたミチナガ先生が口を出してきた。
「君が憶えていようとなかろうと……今君が、君のこれまで歩んできた人生を遡ってきていることは間違いないようだ。人それぞれに大切な思い出があって、それを許容できるのは自分くらいのものだからね」
──そこに他人が介入できる余地はなしか、と俺はミチナガ先生の話に納得をし掛けたものだ。
「それか……」と、付け加えるようにミチナガ先生が言う。
「その記憶自体が、君の大切なものなのかもしれないね。君は忘れた何かを思い出すため、走馬灯を見ている。それを知るために、ね……」
「忘れた何か……? 何ですか、それ?」
「さぁね? 忘れているのだから、それが何かは分かるわけがないじゃないか。君にとって大切なもの……掛け替えのないもの……むしろ、君の方に心当たりはないのかい?」
ミチナガ先生に尋ねられ、一つ、思い当たることがあった。
──忘れたものを思い出すため──。
本当は、忘れていただんて思いたくない。でも、ハズリィーのことも、こうして人生を退行していなければ知ることもなかっただろう。
『私のこと、忘れないでね……』
そう懇願するハズィリーと交した約束──その存在自体を俺はすっかり忘れていたのかもしれない。
もしかしたら、同じ様な俺にとって大切なもの──忘れてしまった大事な何かが、この先に──退行した先に待っているのかもしれない。
これは、それらを思い出す道筋なのだ──。
ミチナガ先生のお陰で大事なことに気付かされた。
「ありがとうございます、ミチナガ先生」
心の靄が晴れたような、晴れやかな気持ちになったものだ。まさか、自分自身の疑問がこんなところで解けるとは──。
俺は、ミチナガ先生に頭を下げた。
「いや、なぁに。構わないさ。それに、今言ったことが事実かどうかは分からないさ」
「それでも、ミチナガ先生のお陰でスッキリした部分があります。これまで一人で悩んで来ましたが……お陰で少し楽になりました!」
俺の言葉に、ミチナガ先生は笑みを見せてくれた。
「さいごのさいごで、人のお役に立てるというのも良いものだね」
クスクスと、ミチナガ先生は笑った。
「君はもうこれで帰りなさい。私もこれで安心していけるから」
──はい、失礼します──。
当時の無邪気な幼少期の俺であれば、そのまま部屋を後にしていたことであろう。
しかし──これまでの人生を歩んできた俺はその言葉が引っ掛かって、動くことが出来なかった。
『さいごのさいごで』──?
「それはどういう事ですか?」
尋ねながら俺の頭の中には、とある可能性が浮かんでいた。これ程まで親身になって相談に乗ってくれたミチナガ先生が、どうして後世には出て来ないのだ。
後にも困難な場面はいくつかあった。協力を仰ぐことやせめて登場してきても良さそうなものだ。
掻い摘んで場面を退行しているから、もしかしたらたまたま登場シーンがカットされているだけかもしれない。
でも──可能性として、こうも考えられないだろうか。出て来ないのではなく、出て来れなくなった──と。
最悪な事態が頭に浮かび、俺はそこから動けなくなっていた。
「やれやれだ……」
ミチナガ先生は椅子に目深に腰掛けると、暗い表情でフゥと息を吐いた。
「走馬灯を見ている君を欺くことはどうやら難しいみたいだね」
「どういうおつもりですか?」
「……オカルトなことっていうのはね……君みたいに、目を輝かせて聞いてくれる人間ばかりではないのだよ。気持ち悪がって邪険に扱われたり、中にはそれ自体に否定的で、存在すら抹消しようとする者だって居るんだ。私はそうした連中と日々、対峙しながら感じたのさ……」
ミチナガ先生は相当に思い詰めているらしく、声は震えていた。
「本当に嬉しいよ。最期に君みたいな教え子に出会えたことに……」
思い詰めた表情のミチナガ先生に何と声を掛けてあげれば良いのか分からず、口ごもってしまう。
「それが正解だ」
沈黙している俺に対し、ミチナガ先生は笑い掛けた。
「ここで君が何を言ったところで、私が生命を絶つことは決している。君ならば、それが分かるだろう?」
──分かりはしない。
実際にミチナガ先生が死んだというニュースを目にしたわけではないのだから。
しかし──死なないでくれ、なんて無責任なことも言えない。
ここから俺はさらに人生を退行していくことであろう。ミチナガ先生の行く末を側で見守ることは出来ないのだ。
例え、生命を繋ぎ止めたとして、辛いのはミチナガ先生自身なのだろう。
ここで必死に先生を説得して、踏み止まらせて何になるというのだろうか。
先生のために──?
──いや、そう言い切ることは出来ない。
俺自身の勝手な願いのために、ミチナガ先生の決意を止めてしまって良いものだろうか。
でも──それで、人の生命が助かるというのなら──。
ミチナガ先生は俺に背を向けて窓の外に目を向けた。
「さぁ、もう話は終わりだ。付き合わせてしまって悪かったね。帰りなさい。君は、君の道を進むと良い。君の思い出の中の一つとして、たまには私のことを思い出してくれたら嬉しいよ」
「ありがとうございました、先生。先生のお陰で、俺がここに居る本当の理由が分かったような気がします。先生のことは忘れませんよ」
そう──忘れない。だから、俺は再びこうしてミチナガ先生の前に姿を現したのだろう。
深々と頭を下げて、ミチナガ先生に感謝の気持ちを伝える。ミチナガ先生はニカリと笑ってくれた。
「お役に立てたというなら嬉しいよ。くれぐれも気を付けて行き給え」
俺は頷くと立ち上がり、理科準備室の扉に向かって歩いた。
扉を開け、部屋から一歩廊下へと出る。
──すると一歩を踏み出したの同時に、俺の意識は途切れた。
ミチナガ先生の姿が遥か彼方へ──遠くへと消えていく。
そして次の瞬間には──俺はどこぞやの家の中に居たのだった。
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