「20」家族の幸福なひと時

「はぁ……」

 俺は大きく溜め息を吐くと、ソファーの背凭れに体重を預けた。


「お疲れ様です、太蔵さん」

 クスクスと笑みを浮かべ、隣りでそう俺を労ってくれたのは妻だ。


 あの後も目に入ったものをおねだりする娘に散々振り回された後、電話のあった妻と合流をした。

 三人でしばらく買い物をした後、俺達はこうして家に帰って来た。

 ソファーに腰掛けるとドッと疲れが押し寄せてきた。


「有難うございますね。お陰様で、私もゆっくりできました」

「あ、あぁ……」

 感謝の言葉を述べる妻に対して、呆然とした俺は上の空で返事をした。

 旧友たちとお茶会があったらしく、どうやらその間、俺が娘の面倒を見ることになったらしい。

 子育て経験のない俺にとっては、いくら短時間であろうとも難易度が高かった。

 常に気が張って必要以上に疲れてしまった気がする。


「ねぇ、太蔵さん……」

 隣りに座った妻からそう呼び掛けられる。


 こう何度も呼び掛けられるので分かったが、どうやらそれが俺の名前であるらしい。

 思い返せば『お父さん』やら『あなた』やらと呼称されてきたが、妻から名前で呼ばれることは初めてだ。

 自分自身の名前とはいえ、慣れていないので反応が遅れてしまう。


 俺は妻の顔を見た。

 以前出会ったよりも一段と若い。髪も長く、顔の皺も少ない。年齢も格段に若返っていた。


 次いで、妻の膝に顔を埋める小さな存在に目を向ける。目を瞑り、スヤスヤと寝息を立てる娘──。

 この子も同様だ。写真の娘よりも随分と幼く小柄に見えた。

 しかも──生きている。

 きちんと呼吸をし、スヤスヤと穏やかな表情で眠りについている。


──感慨深いものがあった。


 妻はそんな娘を愛おしそうに妻は頭を撫でている。


「何かあったんですか? 太蔵さんの顔、とても悲しげですよ」

 どうやら、妻に心を見透かされてしまったらしい。

 顔に出ていたようだ。


 こうして穏やかな時間を過ごしている内に、娘を失ったショックがフラッシュバックしてきていた。不甲斐ない自分に嫌気が差し、自責の念に捕らわれていた。


「すまない……俺は……」

 様々な思いが込み上げて来て、俺は声を震わせてしまった。


 全てを洗いざらい話せば楽になるだろうか──。

──だが、口から出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。


「いや、何でもない。気のせいだろう」

 今、俺の目の前に居る妻たちには俺がいくら未来で失態をおかしたとしても何ら関係はない。

 平穏で穏やかな日常を、俺のおかしな言葉で壊したくない。──そう思ってしまった。


「本当に、大丈夫なんですか?」

「あぁ……」

「そうですか。なら、良いんですが……」

 妻は納得していなさそうではあったが、俺に話す気はなかったのでそれ以上は深入りして来なかった。

「あっ、そうだわ!」

 代わりに、何事かを思い立ったらしい。

 不意に俺の手を取ると、自分の方に引き寄せた。


「この子のことを見てあげて下さいよ。心配事なんて、さっぱり消えてしまいますから」

 そう言いながら俺の手を引き寄せ、娘の頭に置いた。

 二人で一緒に娘の髪をなぞるように撫でた。


 娘の表情が、よりいっそう穏やかになっているように見えた。


 俺は心がホッコリと温かくなるのを感じた。


「ほーら、消えたみたい」

 俺の表情が綻んだのを見て、妻がクスリと笑った。

「やっぱり、何か心配事があったみたいですね」

 見透かしたように妻が言う。


「大丈夫ですよ。貴方に何かがあれば、私とこの子が力になりますから。だって、私たち、家族でしょう? 辛い時は、一緒に乗り越えていきましょうよ」

 妻の優しい言葉が胸に刺さり、自然と目からポロポロと涙が溢れた。


「俺は……俺は……」

 もう過ぎたこととはいえ、娘を助けることができなかった。この出来事が未来にどう影響するのかは分からなかったが、俺は非力な自分を悔いたものである。

 抑え込んでいた感情が決壊したことで涙がとめどなく流れた。

 そんな俺を、妻はそっと抱きしめてくれた。


「大丈夫です、隠さなくなって」

 妻の手が俺を宥めるように優しく頭に触れた。


「すまない……俺は……」

 泣いて、泣いて泣いて──。

 涙で視界が埋まってしまう。


 徐々に、手の中で感じていた温もりが薄れていく。

 それでも泣き倒した俺は、周りの状況の変化に気が付くことができなかった。


 そして、次に目を開いた俺の前に居たのは──妻だった。

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