第5話 二条瞳子

 麻里子からもらったお守りを身につけて半月ほど、志野はあの忌まわしい怪物の姿も突然降りかかる白い靄の世界も気味の悪い囁きも聞こえなくなっていた。それが自分に目隠しをしているため、というのは麻里子が言っていた通りなのかも知れないとわかってはいたが、だからといってあの日聞いた話を、どう信じればいいのか志野は分かりかねていた。

 たとえコタローというモウリョウを見たり、阪上燐の話を聞いたとはいえ、どうしても現実の話として頭が理解してくれないのだ。麻里子にもらったノートも読めば読むほど謎が膨らんできて、どうしたものかと途方にくれてしまう。

 ましてや誰も知らないところで日夜、人と化物がTVや小説のまがいの戦いを続けてきたなど、志野には本当に絵空事にしか思えない。そんなことをする自分の姿も想像できない。しかし今、身の回りで起こる奇怪な出来事は紛れもない現実だし、さも当然に見たり感じたりすることが普通になっている現実は否定出来ない。ではどうすれば良いというのだろう。

 もう一度『月光館』で麻里子に会って、と思うのだが何かと理由をつけて避けているというのが今の志野である。しかし、そんな状態であってもあの青い龍が遠いところから、自分を見ている気がしてならないのは間違いないと志野は心のどこかで思っていた。

「もう、何だかなあ…」

 昼休みの屋上に一人で隅田川の向こう岸にそびえ立つ業平橋電波塔をぼんやりと眺めながら、志野は今日何度目かのため息をついていた。

「どうかした」と声をかけてきたのは陸上部の先輩、浅岡美奈だった。

「あ、美奈先輩」

「かなり深刻そうな顔してたよ、志野」と言われるからには、そうなのだろう。

「何だか飛び降りでもしそうな雰囲気だったから、思わず声をかけちゃったよ」

「ま、まさか」と志野は苦笑してはぐらかすが、そんな気分も一理あると思えばまた嘘ではないかもと思う。

「何かあるなら相談のるけどね。都大会も近いし」

 美奈はこの間の交流試合の成績不振を気にしていると志野は思った。部長としては当然である。

「まあ、そんなにたいしたことじゃないんですけど・・・」と志野は言いかけた時だった。

 どくんという心臓の鼓動がはっきりと志野の耳に届く。

『え、何・・・』と同時に体の奥に突き刺ささるような力を感じる。この感触はあの時と、モウリョウの青龍を見たときと同じだった。

 挙動不審な態度に驚く美奈のことは構わず、青龍がどこかにいるのかと周囲の様子を見回した志野は、何気に隅田川の方に目をやる。

「え、まさか・・・」

 川の上空に何か、いや確かに人らしきものが浮かんでいるのを志野は目にした。

 これから何が起きるのだろう。志野には言葉に出来ない不安が沸々とあふれ出てくるのを抑えることが出来なかった。

  

「あいも変わらず江戸の街はごちゃごちゃして、騒々しくて、薄汚いわな」

 我邪衆で四凶の一人、キュウキの二条瞳子は隅田川の厩橋上空に浮かび、眼下の街を忌み嫌うような視線でにらみつけた。

 どこまでも続く混沌とした界隈に無粋な建物の群れ。そこに巣食う人間たちの勝手な覇気の渦には反吐の出る思いがした。

 突然、川の上空に現れた学生服姿の少女に気がついた人が指を刺し、慌てふためいた様子を見せているが気にもしない。覇力と四凶四獣の力を思うがままに使える者にとっては、造作もない所業である。

「さて、どないしようか」

 瞳子は一度本所方面に目をやり、また蔵前側に戻す。目下のところ、用事があるのはこっちなので仕方がない。

「黄短冊!」と叫んだ瞳子は上着の内ポケットから右手で黄色く細長い紙切れを取り出す。どこから取り出したのか左手に持つ細筆で、その黄色い短冊に読むことも出来ぬ不可解な文字を走り書きすると、これまたどこにあったのか弓矢を手にし、黄短冊を矢に結び付けて弓にあてがい隅田川の水面のとある場所を狙って撃ち込んだ。

  ばしっ、という水面に突き刺さる音と共に、何か硬いものに命中した手ごたえを瞳子は得ていた。

「そうそう、お前はそこでもう少し大人しくしておいで」

 水の中で甲殻類を思わせる巨大な生き物がちらと姿を見せる。使う時が来たら使えばいい。そのための仕込みは済ませたということである。

 フフと笑う瞳子は次に茶色の短冊を取り出す。数秒考える素振りを見せてから、先ほどと同じように意味不明の文字を走り書く。

「女子は蟲が嫌い。もっともうちも好きじゃないけどな」短冊の前後ろを見返してからニヤリと笑い、瞳子は蔵前方面へ向けてそれを結びつけた矢を放った。またも命中した感触を得た瞳子は少々上機嫌で三枚目の青い短冊を取り出す。

「ここにはどのくらいが相応しいやら・・・」三度、解読不明な文字を書き上げ、同じように矢に結ぶ。

「式術、中結界!」と叫び構えた弓を上空に向かって放つ。

 ぱっと空に散った矢がみるみるうちに瞳子を中心にして傘状のドームを広げていく。やがて地上に達したそれは大きなお椀を空から被せたような形で、彼女が目標とした街の一帯を取り込んでいった。

「これでよし、と」満足そうな表情を浮かべ、瞳子は笑う。

「さあ~て、ほんまに青龍はでてくるんか…」瞳子は変わりだした街を見下ろしながら目的の場所に向け、空を滑るように動き出した。

  

 その一時間ほど前。

 麻里子は月光館のカウンター席で昼食後、そのみの入れてくれたコーヒーを飲もうとカップを手にした時だった。

 ここしばらくお目にかかったことのないほどの強力無比で邪悪な覇力が、唐突に麻里子の五感に響き渡った。もはやそれは体に稲妻が走ったと言えるほどの衝撃に近い。

「おそのさん?」

「麻里子さんも感じたわよね」

 そのみがそう言うのならば、もはや間違いはないだろうと麻里子は思った。これほどに恐ろしいほどの力を秘めた覇力が、こうもあっさりとこの近辺に降ってくるなど普通では考えられない。昔ほどではないにせよ、江戸いや東京はそれなりに色々な手段で結界を張り巡らし、まさかの事態に備えているのである。

 と、不意にカウンターの上に置かれていた麻里子の携帯端末が鳴った。

「うん、私。・・・そうよ燐。そっちでも感じたのね。・・・ああ悪いけどすぐに月光館へ、あ、いや待って、志野の所へ行ってくれないかな。多分、この時間なら学校だと思う。・・・そう、彼女が一番危ない。・・・よろしく現地で会いましょう」

 電話を切った麻里子は、譲之介の番号を検索してはたと気がつく。

「あ、譲之介は遠野だっけ、坊主は信州のどっかうろうろしてるんだろうし、真衛門は上方じゃない」

 麻里子は志野を見張っているコタローを除けば、燐、おそのさんだけしか東京にはいないことに今更のように悟った。

「ヤバイ、本当にヤバイ。すぐに出ないと」そう叫んだ麻里子は慌しく席を立ち、ふっと眼前のそのみに目をやる。すると彼女はまるで体が氷ついてしまったかのように、表情を強張らせて口も半開きに店の入り口を凝視していた。

「どうしたの、おそのさん」と言う麻里子が首を傾げそのみの視線の先に見た人物は、決してここにいられるはずもない、まさに想定外というべき男の姿だった。

「朽木・・・相馬・・・」一言ひとことその名前を確かめるように口にした麻里子は、同時に例えようのない怒りと憎悪が湧き上がってくるのを抑え切れなかった。

「久しいなあ、佐伯の麻里姫。最後にあったのは百年くらいは前か。変わらないねぇ、お前も・・・」端から相手を小馬鹿にしたような態度と口調で相馬は言った。

「お前、何故ここにいる。何故ここにいられる・・・」

 冷静を保とうと麻里子は言葉を選んでいるが、実のところは相手を瞬殺してしまいたいくらいの苛立ちが心の中に渦巻いていた。

「フフン、それは二つの事について聞いているわけか?」相馬はニヤリと笑う。

「まず後のほうに答えるなら、この程度の結界など四凶死獣にとって何の問題もないということだ。これで本当に何百年もかけて積み上げてきた堅牢な結界と呼べるのか?笑わせるな。ならば今のいろは組の力など昔にも到底及ばないということになるな」

 心底人を馬鹿にした口調で相馬は答えた。

「最初の方は、言わずもがなだろう麻里姫。お前も察しているはずだ」

恐ろしく人間離れした冷たい視線を浴びせ、相馬は麻里子をにらんだ。

 相馬が言う麻里子が察していること。つまりは志野と青龍のことである。

「だったらふざけたちょっかいを出してくるのは止めてもらいたいものね。四神瑞獣たる青龍の問題にお前ら我邪が関われる道理はない。さっさと九尾姫が仕切る洛中へ尻尾を巻いて帰ったらどう」

 どうやっても麻里子の怒りは収まりそうもない。いや話を続けるにつれてより過激になっていきそうな感じがしなくもない。

「そうはいくまい。瑞獣の青龍と青龍を呼び起こさせるほどの覇力を持つ小娘。モウリョウを従える者でなくとも、この力は魅力的だ。ならば我が手中に収めたいと思うのは当然だろう」

「何を馬鹿なことを。出来ると思うのか」と麻里子は怒鳴った。

「たとえ瑞獣といえど復活したてでは、この時代の勝手は解らず今だ右往左往の状態。小娘に至っては契ることもなく、成り行きを理解できず慌てふためく存在でしかない。まさに赤子の手を捻るよりたやすいというのは、こういうことだろう」

 歯を見せニヤつく相馬は余裕たっぷりに薄笑い、麻里子を見下した。

「あたしがここにいて、お前の好き勝手にさせるというのなら、思い違いも甚だしいぞ、相馬」

 麻里子は左手に力を込め、相馬を威嚇する。

「いやいやどうして麻里姫よ、お前がここでこの俺と一戦交えたいというなら受けて立つが、東京の半分を吹き飛ばす覚悟はあるんだろうな」

 状況を正確に読んでいるのか、相馬は何の気負いもなく麻里子に言い放った。

「こっちは二人、あんたは一人。分が悪いのはそっちだぞ。三分あれば済むわ、せいぜい月光館が消滅するくらいの被害であんたを完全に消し飛ばす」

「いつもながら大した自信だな麻里姫。その見上げた根性は褒めてやるが、三分もあれば瞳子の手で青龍と小娘はもう片付いているはず。無駄なことはせず、ここで俺のコーヒータイムに付き合うんだな。この件が済めば今回は大人しく退散してやるよ」

 またも鼻で笑い、相馬は麻里子をからかう。

「なるほど、そういうことか。二条瞳子を刺客に送り、自分は私を抑えるための置石というわか」

「そう、そういうことだ。お前が出てくれば厄介だが、口で何を吼えるにしても東京の半分を吹き飛ばす犠牲には乗れないことなど最初からわかっていることさ」

 隠す素振りを見せることもせず、相馬は肯定する。

「忌々しい、」と麻里子は相馬を罵った。

「フフン、分かったなら座ったらどうだ。茶飲み話に付き合え。そのみ、とびきり美味いキリマンジャロをくれ。ああ、麻里姫にもな。俺がおごるとしよう」

 不敵な笑いを満面に浮かべ、朽木相馬はゆっくりと椅子に腰掛けた。

  

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