柔軟剤をつけていないはずの洗濯物からジャスミンの香りがしている話

エテンジオール

第1話

母親とすれ違った時に、ふとジャスミンのような香りを感じた。


これがジャスミン茶なんかをよく飲む親だったり、ジャスミンを育てている農家だったりしたのなら、そのことは大して問題なかったのだろう。田舎の母親が、ジャスミンのいい香りを漂わせていると言うだけの話で済んだのだ。




けれど、あいにくうちの両親はどちらも普通の会社員だった。香水とかをつけるタイプであればよかったのに、むしろ人工的に匂いをつけることに、人一倍抵抗を示す人達であった。



そんな両親だから、柔軟剤に匂い付きのものを使ったと考えるのもむずかしい。私の記憶している限り、匂い付きの入浴剤を入れることもなかった。





それでは、この香りは一体どこから来たのだろうか。この芳しく、心安らぐ香りは、一体どこからきているのだろうか。





私は、両親が人工的な匂いを嫌っていることをよく知っていた。私が香水に興味を持った時に、そんなものは自然じゃないと否定された。

私が虫除けのためにハッカを撒いた時に、鼻が曲がるような、到底許すことが出来ない悪臭だと否定された。

私が匂い付きの消しゴムを買った時に、そんなものばかり欲しがるから頭が悪くなるのだと全否定された。



そんな両親が、部屋に持ち込んだ花の匂いすら許さないような両親が、大人しくそれを受け入れるはずがないのだ。いかに私にとっていい匂いだったとしても、それを受け入れるわけが無いのだ。

であれば、当然この匂いには。両親、特に母親を納得させるだけの何か理由があるはずだ。


なぜなら、私の嗅覚で認識できるものを母が把握出来ないはずがないから。



私が全くわからない、タンスの匂いをかぎわける母が、私でもはっきりわかるジャスミンをわからないはずがない。






「ねえ、お母さん。最近なんか、香水とか柔軟剤とか新しく付けたりしたかな?」


そんな生活が数日続いたある日。我慢できなくなってしまった私は直接母に尋ねてしまった。答えは欲しかったけれど、わからなかったのであればわからないで良かった話だった。


おそらく父が何か変なものを混ぜてしまったのだろう。


これだけで済む結末を、この答えを私は求めていたのだ。母が知っていながらも、具体的な要因については言葉に出来ずに困っている、そんな現実を求めていた。





「香水?……あんたねぇ、お母さんがそういうの嫌いだって言うのはよく知っているでしょ?不自然な匂いを漂わせるくらいなら、一週間風呂に入らずに悪臭漂わせた方がまだマシさね」






けれど、母から帰ってきたのは、私の感じている匂いの全てを否定するものであった。




少なくとも、母は私の感じている匂いを認知できていないのだろう。間違いなく香るジャスミンのような匂いを理解していないのだろう。


母はそんなつまらない嘘をつく人ではない。その程度の信用は、私が成長する過程でいくらでも積み重ねてきた。





なら、これは一体なんなのか。間違いなく香るこれは、一体どうしてここにあるのか。その原因を探らなくてはいけない。明らかにおかしなことがあるのに、それをそのままにするのは私の主義に反するのだ。










そこから二三日ほど調べた結果から言うと、匂いの原因は、排泄介助を受けている父親だった。母が気づくことが出来なかった理由は、あまりにもその匂い、付け加えるなら、それを濃縮した臭いに日々晒されていたからだった。



薄められて、薄められて、ようやくその強さになった、ほのかなジャスミンの香り。薄める前のものに慣れていれば、当然鼻が麻痺して微かなそれは感じられなくなるだろう。






そして、ジャスミンの匂いの正体はわかった。






薄められて、洗濯されてようやくそのくらいまで弱まった匂いの正体はわかった。






















全ての原因は、父親のパンツだった。




正確には、漏らした父親がそのままパンツを洗濯機に入れたこと、それが下痢便の成分を洗濯機中に広めてしまったことだった。




排泄物の一成分に、ジャスミンの匂いと同じ物質が含まれているらしい。きっと父はその成分の割合が多い人だったのだろう。インスタントコーヒーを薄めれば麦茶と区別がつかないような、匂い成分とその強さのマジックだった。



香しいジャスミンの名残は、父の下痢便の痕跡であった。







このことかわかった当日中に、私は実家から離れた。急用が入ったとか適当な理由をつけて、ジャスミンのかおる実家をそのままに、ジャスミンの香る洗濯物をボストンバックに詰めて、急いで自宅に戻る。



本来過ごしたはずの休暇内容とか、実家でやりたかったことなんかはもう諦めた。“こんばんはあんたの好きだったオムライスなのに”という母の言葉も、聞かなかったことにして帰り、真っ先にしたことは選択して貰った衣服を洗濯し直すことだった。念の為二度洗いして、間違いなく綺麗と言えるようにする。



一回目の洗いで匂い自体消えてくれたが、わざわざ2回洗ったのは僅かにでも糞の残滓が残っていて欲しくなかったからだ。







親が嫌いな訳では無いけれど、さすがに親の排泄物にまみれながら生活するのは嫌だった。





しばらくしてから、母からメッセージが届く。最近、ご近所さんからジャスミンを育てているのかと聞かれることが多いらしい。


匂いをつけることをいやがる母は、なんでそんなことを言われるのかと不思議そうにしていた。私には、ここで母に事情を説明する選択肢があった。





けれども、それを選ぶことが出来なかったのは、おそらく罪悪感と恐怖心からだろう。



逃げてから、メッセージが届くまでに、私には二三週間ほどそれを伝えるじかんがあった。洗濯物に、うんこが混ざっているよと教える機会があった。


それなのに伝えなかったのは、私と罪悪感だ。そして、なぜもっと早く言わなかったのかと問い詰められることを恐れたのが、私の恐怖心だった。





なんでだろうね、不思議なこともあるんだね。


そんな言葉を並べて、母の言葉を交わす。少しして、ガチャりと切られる電話。この時私にあったのは、えも知れぬ達成感であった。




両親の服から、柔軟剤をつけていないはずの洗濯物からジャスミンの香りがしていることを聞くし通せたことに対するもの。











あるいは、昔から私の好きな匂いを否定しきた母を、うんこの匂いまみれのところに追いやった復讐の味。







それからしばらく、父が死ぬまでの間、我が家はジャスミンの香りのするおうちとして、近所で密かな話題になっていたらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

柔軟剤をつけていないはずの洗濯物からジャスミンの香りがしている話 エテンジオール @jun61500002

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ