我慢出来ない!

 コーナーリングスピードに、未だ温まり切れていない千迅のマシンの後輪はグリップしきれず、一瞬だがズルッと滑る挙動を見せた。


(あっぶな―――い!)


 一瞬そう思った千迅だったが、それでも彼女は勢いに任せて見事にマシンを立て直すと、そのままスロットルを開けて加速し、並走していたライダーを置き去りにしていった。


 勢いに乗る……という事は、つまりこういう事である。

 ヒヤリもののシーンに直面しても、それをノリと勢いでどうにかしてしまう、出来てしまう。

 もっともそれは、そう長く続く訳ではないのだが。





「あっぶないなぁ、一ノ瀬の奴は。勢いだけで走ってるわね」


 その光景を彼女たちの傍らで見ていた菊池美里は、やや呆れながらにため息交じりで呟いた。

 未だレースは序盤も序盤。どこにも無理をする必要などないのだ。

 ここで転倒の愚を犯してしまっては、それこそ言い訳のしようさえない。


「……どうする、千晶? 一ノ瀬に、警告でも出しておく?」


 そして彼女は、隣で同じ様に事の成り行きを見ていた本田千晶に助言を求めたのだった。


 本田千晶はこの第一自動二輪倶楽部のスプリントレースでのレギュラーである。

 秋から始まる全国高校対抗選手権大会……いわゆるインターハイに向けて、自身も含めた練習に従事しなければならない立場だ。

 更には国内B級ライセンスを持ち、「日本GP250」に何度か参戦しているプロレーサーでもあるのだ。

 本当ならば、1年生の練習風景を見る余裕などないほど、彼女は忙しい立場であろう。

 それでもここに現れたのは、それは彼女がこの部の部長であるからに他ならない。

 各学年にはチームリーダーがおり、それぞれ纏め役として機能している。……基本的には。

 だから本来ならば、千晶があれこれと細かく見回る必要などなく、大まかな指示を与えるだけで良い筈なのだ。

 それでも彼女は部の長として、こうして時折それぞれの練習模様を確認に来ていた。そして今日は、たまたま1年の練習を見学に来ていたという次第だった。


 千迅と紅音の走りを大型モニターで確認しながら、千晶は少し考える素振りを見せ。


「……もう少し様子を見ましょう。一ノ瀬さんが、先ほど私の言った事を覚えていれば良いんだけど……。忘れている様でしたら、その時は……ね? それに……」


 美里に向けて、そう答えたのだった。





 乗りに乗っているのだろう、千迅は1週目にも拘らず、目の前のライダーを射程圏に収めたならば躊躇なく攻撃アタックを開始していた。

 この戦術には危険もあれど、それなりにメリットもある。

 早い段階で混戦を抜け出せば、それだけ順位とリードにアドバンテージを取る事が出来るのだ。

 周回を重ねてタイヤも温まり、程よくガソリンを消費して軽くなれば、コンディションが整うのはどのマシンも同じ事。中盤にベストパフォーマンスを披露出来る各車を捉えて追い抜くには、圧倒的なタイム差がなければ中々に難しい事であった。

 そして前を行くマシンを抜くとなれば、それなりに自車へ負担を掛ける事となる。

 独走状態で走っているならばともかく、最後まで接近戦ドッグ・ファイトを繰り広げる様なシチュエーションとなれば、その時に掛けた負担がネックとなって来るのだ。


(……ここっ!)


 もっとも、千迅にはその様な戦術論など無く、ただ走らせる事が楽しいという想いからのアタックに他ならないのだが。


(……もうっ!)


 そして、そのとばっちりを受けるのは……後続の紅音だった。

 千迅が1台抜く度に、紅音もそれに追随する為に前のバイクを抜かさなければならない。

 千迅の技術で抜けるならば自分も追い抜く事が出来るという自負があるのがまだ救いなのだが、それでも彼女も多少の無理をしているのは否めない。


 そもそも、この様に早い段階で……しかも、各車がまだ今の順位に落ち着いていない混戦状態で、無理をして抜く必要性を紅音は感じていなかった。

 自車のコンディションも然る事ながら、他の選手のマシンだって万全ではないのだ。もしも相手がコントロールミスでもしようものなら、その煽りを受けてこちらも貰い事故……というケースだって珍しくない。


(だけど……ここで置いて行かれる訳にはいかない!)


 紅音が一人で走っているならばともかく、これはチーム戦でもある。

 美里……ピットより指示がない以上、とにかく千迅に離されたままの位置取りと言うのは、今後の作戦立案にも都合が悪いのだ。……何よりも。


(私があなたに離されるなんて……思わないでね!)


 この負けん気の強さで、紅音も千迅に勝るとも劣らない強引な仕掛けを行い、また1台のマシンを抜き去っていたのだった。

 そして前を行く千迅はと言えば、紅音とは別の、その更に後方より立ち上る仄暗く重い気配などには気づかず、ただ嬉々として前だけを見つめて走り続けていた。





 そして、レースは3周を消化し、順位も随分と落ち着きを見せていた。

 このレースは、全部で15周。実際のレースはもう少し長丁場なのだが、ネット対戦では半分以下の場合が多く、このタッグ・レースもこれくらいの周回がポピュラーである。

 そして、ここから各チームの作戦が表面化して来るのも確かだ。

 マシンのコンディションを鑑みて仕掛けてくるチームや、終盤に追い込みをかけるチーム等など。そしてその為に、理想的な順位にポジショニングする必要があり、一部で動きがあるのも中盤に掛けてのこのタイミングであった。

 何よりも、ラップタイムに差がある場合は、順位の入れ替えもこの時に自然と行われる。

 そして5周目に至る頃には、落ち着いたと言える膠着状態でレースが消化されていったのだった。

 現在、千迅と紅音の順位は5位、6位。チーム順位では3位の位置だ。十分に、トップを狙える位置にあった。

 このまま終盤までマシンの負荷を抑えてタイヤを温存し、ラストスパートまで我慢するというのがオーソドックスな戦略であろうが。


『……紅音ちゃん、仕掛けるね!』


 じわりじわりと前を行くマシンと差を詰めていた7周目。

 痺れを切らせたのか、千迅が紅音にそう告げると、早速前を行くマシンに肉薄する構えを見せた。


『……もう』


 それを紅音は、やや諦念した様な溜息と共に呟きで答えたのだった。

 本当ならばここは後数周を抑えて走る処だが、今日の千迅は気分的に乗っており、それと共にマシンにも乗れている。今ここで彼女の調子を損なう様な発言を、紅音は嫌ったのだ。

 千迅のフォローをと考えている訳では無いが、何よりも紅音も負けたくはない……TOPでゴールしたいのだ。

 それならば、やや早い仕掛けと言うのも、作戦としては悪くないと考えた結果だった。


『一ノ瀬さん、私の言った事……忘れないでね?』


 その時、2人のインカムのスピーカーからは美里ではなく、千晶の声が流れた。熱のこもるレース中にあって、それはなんとも涼やかであり……聞く者の耳朶を刺激する声音であった。

 スピーカー越しの声であるにも関わらず、そこにはしっかりとした存在感がある。


『は……はい! 覚えてます!』


 その声色に気圧されたのか、千迅の声は裏返り、どこか焦りさえ感じられた。

 千晶にそう指摘されるまで、千迅は彼女に言われた事をもう失念していたのだ。慌てふためいてそう答えたのも仕方がなかった。


『……何の事?』


 そして、そんな2人のやり取りを聞いた紅音は、思わず思った事を口にしていたのだった。

 もっとも、わざわざ千迅にだけ話しをした千晶から、その問い掛けに対する答えが返ってくる訳もなく。


『あ……あはは』


 千迅からは、どこか乾いた笑いが齎されるだけだった。

 紅音としては、なんとももどかしい……答えを知りたい千晶と千迅の問答であったが、当然ながら今はそんな事を詮索している場合ではない。

 紅音の探る様な雰囲気を振り払うが如く、千迅は再び前方に意識を集中し、その気配を感じ取った紅音もそれまでのどこか緩んだ空気を引き締めたのだった。





「……さぁ、本当の勝負はこれからなんだけど。あの子達、気付いてるのかしら?」


 再び前を行くライダーを追い出した千迅と、その後ろをピッタリと追走する紅音の様子をモニターで見つめながら、千晶がそう呟くと。


「……お!? ……なるほど、この子達の事ね?」


 千晶の漏らした言葉の真意に気付いた美里が、面白そうにメインモニター上部に表示されたサブモニターを見つめたのだった。

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