ROCKS 外伝 ~朋和~

石田1967

ROCK´S 外伝 ~朋和~

夜風が冷たい。

 ひんやりとする十一月。

 しかし昼間は、まだクーラーをつけなくてはならない暑さを感じる。

 だが、夕方も6時を過ぎると途端に温度差が激しくなる。

 雑踏の中。

 花菱朋和(はなびしともかず)はバイト先へと走っていた。

 バイト先『居酒屋ばいんど』には6時から入る事になっているのに、今はもう6時を5分ほど過ぎていた。

 やばい。

 店長に怒られる。

 朋和は自分の置かれた立場を呪う。

 自分が追い込んだ立場とはいえ、窮屈すぎる立場が苦しい。

 着メロのベートーベンの運命が鳴る。

 朋和は走りながら携帯電話を取り出し誰からかかってきたのかを確認する。バンドメンバーの桶川(おけがわ)だった。

「朋和か?」

「何?オケ!急いでるんやけど」

 荒く息を吐き出しながら、鬱陶しそうに言う。

「・・・・・・・・死んだ」

 信号機の盲目の障害者に対してのメロディが高らかに鳴っている。

「何て?音が大きいから聞こえない!」

「死んだ!」

ようやく耳に届いた単語。

「な・・・誰?誰がや?」

 街の雑踏と、思考の混乱が見事にユニゾン。

「小鳩(こばと)」

 短く区切られた言葉が朋和の意識を切断する。

 朋和を包んでいた喧騒が色とノイズをかき消していく。

「小鳩が・・・・?」

 息は荒いが立ち止まった自分の思考が麻痺して冷えていくのを感じた。

 体中の血液が全部地面に零れ落ちていく、いや、伝い落ちてゆく感覚。

「小鳩・・・・・・・・・・・・・・」



 通夜は、朋和の住んでるアパートから駅二つ向こうにある大きな葬祭場だった。

 最近、出来た大手の葬祭場チェーンのひとつだった。

 ひっそりしたものをイメージしていたのだが、思いの外、大勢の人々が居る事に困惑してしまう。

 そして・・・・・軽い嫉妬さえした。

 不謹慎ではあるが、こう考える。もし自分が死んだとして、ここまで人が集まってくれるのかどうか?という事と、こんなに大きな葬祭場でやれるという金の力とにだ。

 自分でも、大幅にズレた倫理観だと思う。

 今は、そんな事を言っている場合ではないことも重々承知だ。しかし尻の穴の狭い自分は、そんな馬鹿なことを考える。

 意識がおかしいのだ。

 麻痺している。

 朋和はふらふらと入口傍まで来て、ご大層な看板に献花された名前をじっと見詰めた。


 八重小鳩


 信じられなかった。

 桶川の電話をもらっても、そして今の葬祭場で名前を見ても納得していない。

 ぼうっとしてしまう。

 ドッキリなのでは?という呆気らかんとした気持ちが残っている。

 しかし、その事が事実なのは直ぐに判った。

 入っていきなり真正面の最上段に小鳩の写真が飾られていた。

 その写真には見覚えがある。

 そう、

 今のバンドのいいスチール写真がないから、桶川が連れて来た友達のカメラマンが一日自分らに密着して撮ったものだ。

 あの時はライブ当日の朝から付き従ってくれ様々な良いショットが撮れた。

 その中でも圧倒的に良かった一枚だ。

 普段、笑顔を前面に出さない小鳩が笑っている写真だ。

 バンドメンバーの澤口(ドラム)が、リハーサル時にジャージで太鼓を叩いていた。

 で、それが一段落してドラムセットから降りようとした時、ダルダルに履いていたジャージの裾を自分で無意識に踏んでしまいすっ転び落ちた。それだけではない。転んで気が付いた時にはジャージが膝まで脱げていた。桃色のブリーフが露になった滑稽な様。

 その場に居た全員が笑い転げた。

「やめろっ!撮るなっ!!」

「撮れ撮れ!」

 決定的瞬間を収めたカメラは、そのままグルリと皆の笑い顔を撮った。

………その時の写真だった……


 ガヤガヤとした喧騒。

 吐き気がした。

 しかし、歩みは止まらない。

 朋和は受付に名前を書き、ふらふらとお焼香の列に加わった。

 何だこれは?

 恐怖のような疎外感が朋和を包む。

 すえた線香の匂いが部屋に充満している。

 最後に小鳩に会ったのはいつの事か?

 そうだ。5日前のスタジオ練習だ。

 そして、明日も同じスタジオで練習する予定だった。

 だから今日、無理にバイトを入れたのだ。

 本来、明日のローテーションだったのを友達と入れ替わって貰っていたのだ。

 だが、

 今は目の前の棺桶の中に…居るらしい…?

 朋和は、やりきれない想いで爆発しそうになる。

 小鳩に一番近かったはずの自分達が蚊帳の外で、知らぬ間に水面下でこのような大勢の人々が小鳩一人の為に集まってきている。

 違和感と、嫉妬心と、羨望、閉塞感、羞恥感、猜疑心、それらが一気に昇ってくる。

 時折、後ろ側で笑い声が弾けている。

 久し振りに出会ったのだろうか?

 惨め。

 悔しい。

 小鳩の事をよく知りもしない連中が、何かの繋がりからか顔を出すだけの実のない葬祭。

 怒り。

 朋和は両手を握り締めた。

 ぎゅうっと、力強く。

 強く、強く、強く、強く!強く!!

 血の気が引くくらい手が真っ白になっていく。自然に眉間に皺がよる。

 やがて………

 朋和の番が巡ってきた。

 小鳩の笑顔。

 満面の笑顔。

 眩暈がした。

 現実感のない自分。

 小さな小鉢に盛られた粉に手を伸ばした。

 粉ではなく縁に当たった指の痛み。

 ようやく粉を一つまみした朋和は奥の火が灯っている場所にふりかけた。


 朋和は焼香した後、帰るに帰れない気持ちを持て余したまま入口を外れた場所に突っ立て居た。

 すると、道の奥からバンドメンバーがまとめて3人やってきた。

 リーダーでギターの桶川。

 ドラムの澤口。

 キーボードの笹溝。

 3人は示し合わせたように喪服だった。

 自分だけが私服だ。

 電話をもらった時点で、頭が朦朧として着替えるという観念が消失していた。

 それほど朋和にとって小鳩の存在は大きかったのだ。

「おう、先に来てたのか?」桶川がトーンをおとしつつも抜けた声で聞いてくる。

 朋和は無言で首を縦に振る。

「えらいことになったなぁ…」澤口はネクタイもろくに締められないのか、斜めに傾いたネクタイを苦しそうに少し緩めた。

「何処で事故ったん?」小鳩と同い年の二十一歳の笹溝は、桃色の頬を更に桃色に染めている。

「円河(まるかわ)町の手前らしい」

 朋和は後ろで噂話のように話していた情報のパズルを組み合わせ話す。

「ああ、あそこか!」

「小鳩の帰り道だもんねぇ!」

 虚しい。

 言葉の空回りだ。

「ほなちょっと行って来るわ」

「後でな」

 3人は、とりあえず朋和を残して葬儀場の中へと入っていった。

 残された朋和は、ぼんやりと小鳩を思い出していた。

 夜風が冷たくなりだした十一月であった。



「朋和…くんだっけ?」

「ん?」

 ライブ後のホール。

 ローディも雇わないアマチュア・レベルのバンドマンは自分達で機材の後片付けをする。

 そんな閑散としたホール内で白いレースの服を着た少女は、汗まみれの朋和に話しかけてきたのである。

「だ……誰だっけ?」

 持ち上げたはずのアンプチューナーを床に置いて彼女をマジマジと眺めた。

 見覚えはない。

「私よ。小鳩」

 言われてハッとなる。

 そうだ。

 思い出した。

 彼女だ!

 朋和は2日前に彼女のライブ…正確には彼女の歌を聞いていた。


 南ホイール。

 大阪の難波近辺に点在するライブハウス十五店舗とFMラジオがタッグを組み巻き起こすライブイベントだ。参加バンド数二百四十以上。そのイベントが3日間続く。それで一日券を持っていると、どのライブハウスに行って、どのバンドを観てもいい。それが小さいホールであろうとデカいホールであろうとだ。ショーケース的なお試しライブ…と、いってもいい。これで気に入ったのなら改めてワンマンを観に行くという図式が出来上がるからだ。だからインディーズや売れていないバンドから、ある程度名前の売れているバンド達はこぞってこのイベントに参加する。

 こんなに大人数に触れられる、実力を見せられる宣伝など他にないからである。

 ……で、

 朋和はそのイベントに観に行っていた(本当は参加したかったが依頼はなかった)。

 朋和はお目当てのバンドを観に行ってたのだが、そのハコは既に収容人数以上の人間が席巻し入場が無理だったのだ。

 仕方なく移動しようとしたのだが、動くに動けない状況が生じた。

 ただでさえ小さな雑居ビルの6階にある小さなライブハウス。階段から入場するという方法は簡単に糞詰まりの状態になる。出るに出れない立ち往生の時間が1時間ほどあった。

 その時である。

 その日には発表されていなかったバンドの飛び入り参加のライブがライブ会場のドアを開け放たれたまま行われた。

 ぎゅうぎゅうの寿司詰め状態のまま流れてきたその声は嘘みたいに澄んでいた。

 しかし……

 この中で一体何人が、その事実に気が付いただろうか?

 皆、かすれるような声の中に響く凛とした部分。熱気溢れる狭い階段内で朋和は天使の声のように感じた。

 やがて動き始めた人並み。

 後方に向かって動き出した流れを朋和は逆行した。もっとこの声に触れたい。

 その願望、欲望が朋和を突き動かす。

 やがて朋和はその入口に辿り着いた。

 何と、奇跡的に入口の受付の人間が居ない。

 多分、人手が少なく、便所にでも行ってるのかも知れない。朋和はそのまま中に入った。

 狭いハコだった。

 満タンに入っても五十人も入れないような小さなハコ。

 そのライブハウスに今、客は四十少し切るぐらいか。朋和は舞台へと視線を移していた。

 白いレースのひらひらしたカーディガンをはおった少女は目を閉じて歌っている。

 ゾクゾクした。

 が、

 違和感が…朋和を包んでいる。

 何?

 その違和感を他の客も感じているらしくノリが少しづつ熱が薄れていくのが分かった。

 何故だ?

 不思議な感覚。

 気が付けば客が一人、一人と出口に向かっていく。

 ライブは盛り上がっているはずなのに、上滑りな感覚がどんどんと大きくなってきている。苦しいような感覚。

 急斜面を転がり落ちる雪玉がどんどん大きく転がって大きくなるような………

 おかしい。


 不協和音。

 そうだ。

 声にオケがのっていないのだ。

 声の力が大きすぎてバンドがついていっていなのが丸分かりなのだ。

 そのバランスの悪さが不快となって人の心にあり得ないシコリを残すのだ。

 気が付けば、客がまばらになって十人にも満たない数にまで激減した。

 おまけに、そのバンドがその日の最終組だったので客は早々に引き上げる格好となっていた。いつでも誰でもが出入り自由というルールが災いした最悪の結果であった。

 だが、

 朋和は拍手を送った。

 一人だけで。

 まばらな拍手も朋和に続く。

 だが、本物の拍手は朋和だけだった。


 それから1ヵ月後、朋和はバンドを辞めた。

 音楽性の違いから仲間であるはずのギターを殴ったのだ。

「テンポ取りずれぇんだよ!てめぇは!」

「なんやとォ?お前のギターソロだって間延びし過ぎて自己満すぎて気色わりィんだよゥッ!!!」

 反対にボコボコにされた朋和は、血だらけのままスタジオの廊下に出た。

 そこで小鳩に出会った。

 小鳩は不思議そうに朋和を見た後、ハンカチを差し出した。

 朋和は鬱陶しそうに手を振り払って外に出た。小鳩はその時、貸しスタジオに朋和の名前を聞いていたらしい。


「ああ…あの時の……」

 朋和はその後、バンドを1回替わった。

 今のバンドは不本意だが、とりあえずベースを弾ける場所が欲しかった。ドラムがリーダーで自分が欲しい音とは違うが合わせられないこともない。自分を抑え、次の場所が見付かるまでの止まり木にしようと思ってのバンドだった。

 そのライブに、あの小鳩が見にきていたのである。

「ふふ…」

 小鳩は意味ありげに笑う。

 一方、朋和は困惑気味だ。

「俺の名前…何で知ってるの?」

「ルチャで聞いたの」

 ルチャとは朋和が練習でよく使うスタジオだ。安いが機材が揃っている。貧乏バンドにはありがたいスタジオでいつも予約で埋まっている。

「ああ、そうなんだ…」

 ヤバイ。

 こんな女の子と話すのは苦手だ…と、痛烈に感じる朋和。会話が続かない。

「実は…運命感じちゃってるンだな私」

 クリクリした瞳で朋和に言う。

 朋和は、ハッとした。

「うん。俺もあのバンドじゃ駄目だと思う」

「は?」

「よければバンド集めて作りたいと思ってるんだ」

 そう、

 南ホイールで見たあのバンドじゃ小鳩のボーカルは全く生きない。死んでいるとさえ言っていい。ならばどうするか?知れた事。新しい小鳩に合うバンドを作ればいいのだ。朋和はどうすれば小鳩が生きるのかあの後、何度か頭の中でシュミレーションしていたのである。

「え?」

 小鳩は朋和の言葉の意味がスグには理解できなかったが……やがて理解できた。

そして笑う。

 朋和は笑われる意味が分からない。

「な…何で笑うの?」

「あー、可笑しい。朋和くんって天然?」

「何が天然なんだよ!」

 少しムッとして問い返す。

「逆ナンだったんだよ、今の」

 え…?

 途端に朋和の顔が真っ赤に染まった。

 それを見て更に小鳩が笑った。



それから後、朋和は知り合いの中で小鳩に合う音色を出せるメンバーを集めて『ORANGE』を作った。

 ボーカル 小鳩

 ベース  朋和

 ギター  桶川

 ドラム  澤口

 キーボード笹溝

 この5人で出す音は、ほぼ朋和の思い描いていた色に近い音色が出ていた。

 これなら小鳩の声のいい部分を抽出できるだろうと思えた。小鳩の声は日本人にしては、繊細すぎた。しかも音程を美しくなぞりながら時折、上のパートに触れるような歌い方を得意としていた。だからこそ、バンド自体の音がシッカリしていなければ空中分解をしてしまうのだ。

「私、今までで一番歌いやすいよ。ありがとう朋和くん!!」

 嬉しそうに小鳩が朋和に言ったのが印象的だった。



 結局、照れてハッキリしない朋和は小鳩とは付き合わなかった。

 が、

 朋和の中では常に小鳩が一番だった。

 優先順位で一番だ。

 しかし、それが【愛】に変貌する事はなかった。

 いや、

 一度だけあった。

 小鳩は滅多に自分の家族のことを語ったりはしなかった。

 しなかったが一度だけ自分に兄が居る事を話したことがあった。

 兄の名前は【八重大空】。

 小鳩は兄が好きだったと、へべれけで語った。足元も覚束ないライブ打ち上げの帰り道。夜の線路沿いの道であった。

 時折、電車がけたたましく吼えながら横を通り過ぎる。

 小鳩は言った。

「兄が好きだったの」

 対向車線の電車のライトが朋和の目を射る。

「兄は優しい」

 一瞬、視界がホワイトアウトする。

「兄は誰にでも優しい」

 だが、すぐに夜目に慣れる。

「兄は私だから優しいというのではなかったのよ」

 レールとレールの隙間を甲高い金属音が火花と共に弾ける。

「だから今はキライ」

 そういった後、小鳩は笑って

「朋和は私のコト好き?」

 ずばり、と聞いてきた。

 勿論、好きだ。と、言葉に出せない朋和。

 その代りに視線がウロウロとしている。

「ふふ、知ってるモン」

 そう言って朋和の頬にキスをした。

 顔全体に血が昇って、苦しくなる。

 小鳩は笑った。



 あの時の笑顔は朋和にバンドの充実感をもたらしただけでなく、夢も与えた。

 もしかしたら………

 このバンドは一生、続けられるのではないか?

 そんな淡い幻想が朋和の行動を後押しした。

 朋和はデモテープを音楽会社に送ったり、オーディションにも積極的に参加するよう心掛けた。

 年齢から考えて最も年上である桶川がリーダーになってもらってはいたが、実質上バンドのリーダーは朋和であった。

 バンド結成から、方向性、ライブのブッキング、スケジュール調整から物販手配、CD製作に至るまでを網羅している。

 しかし朋和は、全く苦にはならなかった。

 何故なら、そのひとつひとつの作業が小鳩のライブでの昇華へ繋がっていると考えていたからだ。

 そして……何と来月の中にあるレコード会社の人と会う手筈になっていた。

 それもこれも、朋和の地道な作業の成果であった。

 だが、

 そのかすかな希望も…今はもうない。

 レコード会社の人間達が興味を覚えたのは小鳩の声だけだからである。

 言葉尻は悪いが、朋和達程度のミュージシャンは吐いて捨てるほど居る。奴らが賞品として手元に置いておきたい駒は『小鳩』の声だけなのだ。

 だから……

 まだ連絡はしてないが、次またデモテープでも送って下さい、それで終わりだろう。

 容易に想像はつく。

 それほどまでに…小鳩の声は強烈だった。




「どうすんだ、これから?」

 桶川が開口一番、朋和に尋ねてきた。

「よしなよ、今は」

 女性らしい気遣いの笹溝。

「今日はとりあえず…帰ろう」

 澤口は、疲れた表情で吐き捨てた。

 カチン!ときた。

「解散だ」

「朋和くん!」

 笹溝が眉間に皺を寄せる。

「ああ、そうだな」

 澤口が吐き捨てた。

「ちょっと待てよ、冷静になれよ」

 桶川が朋和と澤口の間に割って入る。

 しかし、背が一番低い桶川は、無様に二人の頂の下でわめいている。

「冷静も何も……小鳩が居なけりゃ意味ないだろうがよ!」

 一番の核心、一番触れられたくないデリケートな部分。

「だけど………」

 桶川が朋和に視線を向ける。

「小鳩の為に集まった。でも小鳩が死んだんだ。解散するのは当然だ」

 違う。

 言いたい事は、そんな事ではない。

 だが、突いて出る言葉は止まらない。

「小鳩が居ないのに意味ないだろう」

「そうだな、じゃ」

 そう言って澤口は後ろを振り向きもしない。

 人並みに消えていく。

 残った桶川と笹溝は、バツが悪そうに朋和を見詰めている。

「今までありがとな」

 それだけ言って朋和は駆け出した。

「朋和」

 後方で自分を呼ぶ声が聞こえたが振り返れなかった。

 走った。朋和は走った。あてなどない。ただ、今この場所に居たくはないだけであった。

 小鳩の居ない世界。

 俺は…

 俺は、これから一体どうすればいいのだ?

 流れゆく火曜日。

 自分が、今まで積み上げてきたものは、もうない。今ここに瓦解したのだ。崩れ去ったのだ。何もなくなったのだ。

 もう、

 もういい。

 何もかも……もういい。

 足元のふくらはぎから伝わるアスファルトの感触すらが鬱陶しい。

 自分は、もう死んだのだ。

 自分がこの世の中で生きていけたのは、小鳩が居てくれたからなのだ。

 今更、

 今更ながら小鳩の存在の大きさが朋和を覆い隠した。

 あの声、

 あの笑顔、

 もう帰らない。

 小鳩。

 朋和は走り続ける。

 だが、

 すぐに走るという行為すらが嫌悪の対象になる。何故、自分が走らなければならないのか?しかも早鐘を打つ心臓。苦しい。息をする事すらが苦しい。何故だ?馬鹿馬鹿しい。今のこの苦しさは徒労だ。意味のない徒労。

 目を閉じる。

 めまいがする。

 ぐらり、ぐらりと身体が前後に揺らめく。

 苦しみに伴う嫌悪は、何物の尺度でも測れるものではない。

 目を強く閉じる。

 閉じる。


        消えろ!


 消えろ!



 消えてしまえ!


 世の中全てを全否定する。



 気が付けば………

 朋和が初めて小鳩と出会ったライブハウスの前に居た。

 あの日、あの時、この場所で朋和は小鳩と出会った。それは、偶然。そして別れたのは必然?呆然とする自分。

 気分の悪くなる螺旋。

 ループする悪意。

 思わずビル下の階段に座り込む。

 頭を下げ狭い自分の世界だけに閉じこもる。

 小鳩が居ない世界。

 明日からの生活。

 所持金五千七百三十二円。




         もう…


終わりだ


   もう…


        何も要らない


 もう…


     息をするのも……


        生きているのも……


  何がどうなのか


    もう…どうでもよかった…



 と、

 その時である。

 朋和の耳に、かすかな何かが届く。

 ハッとする。

 ぞくり!とした。

 目を見開き、頭を上げた。

 何処だ?

 周りを見渡し、やがて頭上だと気付く。

 心臓が早鐘を打つ。

 何だ、これは?

 日々との喧騒と、足音が、そのかすかな何かを霧散させる。

 目を瞑り、神経を尖らせる。


 静かに、


   静かに……




 あそこだ



 朋和は立ち上がり、階段を駆け上がる。

 2階、3階、4階…そして5階。

 ドアは閉まっている。

しかし、

 その何かは、ここから放たれていた。

 入口の貼り紙。


『RR(アグル)』


 朋和は、そのドアを開けた。

 途端に朋和は、その場所にへたり込む事になる。

 突き刺さる、というのは、このようなコトなのだと改めて知る。

 しかし、

 それだけではない。

 人間の感情が、コレほどまでにあからさまに、コレほどまでに……鮮烈に心に刻み込まれる声があるとは………

 興奮してきた。

 何だこれは?

 腕が震える。

 いや、

 腕ではなかった。

 身体が、身体全体が、オコリにかかったように震えていた。

 しゃがれた声。

 まるで咽喉をムリヤリ潰された鳥のような、

 まるでデリケートな部分にヤスリをかけられた女のように、

 まるで軽やかに水面を滑る天使のように、

 まるでナチスのゲバルトが行った粛清のように、

 まるで爪先立ちの恋のように、

 まるでハリケーンに巻き込まれる家畜のように、

 まるで……



 ステージに必死で目を向ける朋和。

 その目に飛び込んできたもの。


 一人の少年だった。


 年の頃は、十三歳…くらいであろうか?

 服はクラッシュのジーンズの上下。

 前髪が垂れて目が隠れてしまっている。

 見えない。

 誰だ?

 おまけに、

 左手の甲には、薔薇の花が一輪咲いていた。

 毒々しい程の赤い刺青。

 しかし、

 その声は、すざまじく朋和の胸に突き刺さった。

 尖って、しゃがれてて、老婆のような声であり、若々しい金切り声のようでもある。

 ぶるり!

 震えた。

 怖い。

 朋和の身体を走る悪寒。

 舞台にはそのボーカルの少年を入れて4人。

 ギターが一人。

 そしてツインドラム、つまりドラムが二人。

 計4人で奏でている。

 そのどのパートも恐ろしいレベルであった。

 そして少年が、がなるスピードに着いていっている。

 それが朋和の恐怖心を加速させた。

 ふと、周りを見渡す。

 客が居ない。

 何故?

 けたたましく鳴り響くギターのリフ。

 地を轟かせるツインのスネア。


 そして、


 神経に直接響く……天使の歌声。

頭を振った。

 ありえない。

 自分は、どうかしてる。

 怖い。

 思わず後ずさる。

 おかしい。

 あれほどの熱が急速にしぼんでいく。

 赤い薔薇が迫ってくるようだった。

 朋和は怯えるように走り出していた。

 客が居ない訳ではなかった。

 朋和が一番前にまで出張っていたからに過ぎなかった。

 しかし、

 その時の朋和には気が付く余裕がなかった。


 この日、朋和は新しい扉を開けた。

 開けてしまったのだ。

 その扉の向こう側に朋和が行けるのには、まだ時間が必要だった。

 だが、

 朋和は出会ってしまった。



 少年の名は逆瀬俊。



 朋和は、まだ闇の中だ。

 その闇が晴れるには倶風が必要だった。

 朋和の倫理観や価値観、喪失感、虚脱感、全てを吹き飛ばす倶風が。

 その風が、そこまで来ているのにも関わらず朋和は逃げた。爪先でナイフの上に立つような恐怖に逃げたのだ。

 しばらく走っても、朋和の記憶には、あの少年の声が残っていた。

 死んでしまった小鳩を思っているのに、それを強く押し潰さんばかりの勢いで朋和を苦しめる。

 街中で叫ぶ朋和。

 横を電車が滑り込んでくる。

 叫ぶ。

 言葉にならない声。

 声にならない言葉。

 小鳩、小鳩、小鳩、小鳩。

 長い荷物車両が、けたたましく流れてゆく。

 流れゆく火曜日。

 朋和は、行くあてのない言葉を宙に放つ事しか出来ない自分を嘆く。

 流れゆく時間。

 一体、

 どうすればいいのか?

 息が白いのに、自然に額に汗が流れた。


「小鳩……」


 長い長い荷物車両が走り抜けた。

 脱力感が朋和を包む。

 一瞬の静寂。




 空に鋭い月が浮かぶ。




 朋和を笑うように、




 ぽっかりと、




 静かに浮かんでいた。




           THE END

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