エピソード 3ー6

「雨宮様っ!」


 私が手を伸ばすのと同時、雨宮様は腰の軍刀を抜き放った。陽を反射した光の残像が弧を描き、放たれた矢を弾き飛ばした。

 特務第八大隊の面々が殺気立つが、雨宮様は「手を出すな!」と繰り返した。


「もう一度言うぞ、我らに交戦の意志はない」

「ふざけるな。先に攻撃を仕掛けてきたのはおまえ達だろう!」

「なんのことだ?」

「我らの里に奇襲を仕掛けておきながら、今更とぼけるのか!?」


 話が噛み合っていない。

 だけど、私達の中では心当たりのある話だ。「雨宮様、もしかしたら……」と私が呟けば、雨宮様もまた「一足遅かったようだ」と答えた。

 おそらく『新しき血の盟約』が、この里への襲撃を早めたのだ。


「とにかく、里を襲撃した貴様らは許さん」


 部隊の隊長とおぼしき赤髪の鬼が右手を上げる。

 同時に、周囲を囲んでいる鬼達が腰の刀に手を掛ける。隊長の手が振り下ろされた瞬間、彼らは一斉に襲いかかってくるだろう。そうなっては交戦は避けられない。

 そう思った瞬間、私は雨宮様のまえに両手を広げて飛び出していた。


「……娘、どういうつもりだ?」


 赤髪の鬼が私を睨みつけた。その瞬間、彼の横で弓を構えていた鬼達の照準が私に向けられる。彼らの番える矢が放たれれば、私とて無事では済まないだろう。

 怖くないといえば嘘になる。

 だけど、私は引き下がれない。


「話を聞いてください。私達に交戦の意志はありません」

「聞くことはなにもない。ここは戦場になる。死にたくなければ下がっていろ」

「話を聞いていただくまで下がりません!」


 話し合いは平行線で、このままにらみ合いが続く――と思ったのだけれど、その硬直は長くは続かなかった。雨宮様が私を庇うように引き寄せたからだ。


「レティシア、無茶はよせ!」

「いいえ、蓮くんを救うためなら、このくらいの無茶はなんてことありません!」

「だとしても、おまえが一人で背負うことではないはずだ」


 雨宮様とのやりとりも平行線になろうとする。だけどそこに、鬼の一人が「蓮というのは、もしやあの少年のことか?」と声を上げた。私はすぐに視線をの鬼へと向ける。


「蓮くんを知っているのですか?」

「そういうおまえはなぜ知っている?」

「キリツグさんから聞きました」

「キリツグのことを知っている、だと? おまえ達はまさか、先日の……」

「――そうだ」


 雨宮様が私を庇うようにまえに立った。


「山中にある地下の研究所を捜索していた部隊だ。あのときは不幸な行き違いがあったが、我らの目的は帝都の安寧。人間に害意のない者と戦うつもりはない」


 鬼のあいだにざわめきが広がった。

 これは賭けだ。雨宮様は不幸な行き違いと言ったけれど、交戦したのは事実だ。彼らが特務第八大隊に敵意を抱いていても仕方ない。

 そうして彼らの判断を見守っていると、鬼の一人が声を上げた。


「イズミ、俺は少し前から奴らを見張っていたんだが、狩人と接触した際……」


 イズミと呼ばれた赤髪の鬼に対し、その鬼がなにか耳打ちをする。聞こえた部分から想像するに、私達があの狩人のおじさんと話していたところも見られていたみたいだ。

 変なことは言っていないはずだけど……と見守っていると、イズミは小さく頷いた。


「そこの娘、名はなんと言う?」

「レティシアです」

「……そうか。ではレティシアに問う。いま、隠れ里を襲撃している者達との関係は?」

「やはり、既に襲撃されているのですね」


 その答えに、イズミが険しい表情を浮かべた。


「失礼しました。関係と言えば、敵対関係にあります。私達がここに来たもう一つの目的は、あなた達を狙っている者がいると警告するためでした」

「……その言葉を信じろと?」

「それが難しいことは分かります。ですが、その襲撃者はおそらく、蓮くんを実験の被験者にした、高倉という男の背後にいる者達。つまり、私の敵です」

「……そうか。キリツグから聞いた話と一致するな」


 イズミが思案顔で黙り込む。

 それを見た他の鬼が「おい、こいつらの言葉を信じるのか?」と疑問を呈した。


「ある程度は、な。だが、怪しいのも事実だ」

「――ならば、襲撃者達の撃退を手伝ってやろう」


 不意に雨宮様がそう言って周囲の注目を集める。


「おまえ達は‘いま、襲撃している者達’と言った。つまりは交戦中なのだろう? その部隊は俺達にとっても敵だ。おまえ達の信頼を得るために撃退してやろう」

「……そう言って、我らを奇襲しないという保証が何処にある?」

「不安なら見張っておけばいい。我らは襲撃者達の背後を突く。その位置ならば、我らが裏切ったとしても、おまえ達が不意を突かれることはないはずだ」


 鬼と襲撃者達の間に割って入るのではなく、襲撃者達の背後から襲いかかる。鬼と戦う意志がないと示すと同時に、鬼からの奇襲を防ぐ理由もあるのだろう。

 互いに信頼を得ていない状況で出来る最善策に思えた。


「いいだろう。だが、勝手をされては困る。俺がおまえ達の部隊に同行させてもらう」

「見張りという訳か。好きにするといい」


 こうして、イズミが決断を下す。ただ、「という訳だ。おまえ達は本陣に戻って状況を説明しろ」というイズミの命令には、他の鬼達が「危険すぎる!」と反論した。


「もう決めたことだ。おまえらは命令に従え!」

「……わぁったよ。イズミ……死ぬなよ」

「ああ、俺はまだ死なねぇよ」


 そんなやりとりを経て、他の鬼達が撤退していく。それも、何度か心配そうに振り返りながら。その姿は……仲間思いの人間となんら変わりない。

 彼らは、本当に私の知っている魔族とは違うのかもしれない。そんなことを思いながら後ろ姿を見守っていると、仲間を見送ったイズミが振り返った。


「さて、それじゃ――おまえ達が敵ではないと証明してもらうぜ?」



「あれが襲撃者の陣だ」


 イズミに案内された森の中。遠くに見える開けた場所に、小隊規模の部隊が陣取っているのが見える。それを双眼鏡で眺めていた雨宮様がイズミに問い掛けた。


「三十人前後と言ったところだな。だが、あれですべてではないのだろう?」

「ああ、里に襲撃中の部隊とは別だ」

「ならば後詰めか。背後からの奇襲を警戒した部隊かもしれないな。……紅蓮、アーネスト、周囲を警戒している偵察兵を探し出せ」

「ああ、任せておけ」

「了解しました」


 二人は心得ていると、少数の隊員を引き連れて森の中に入っていった。


「……なにをしている? 見張りなど無視して奇襲すればいいだろう?」

「そうはいかない。連中は無線を持っているし、狙撃兵も配置しているはずだからな」

「無線とはなんだ? 狙撃は……あぁ、あの小銃とかいう厄介な飛び道具か」

「無線とは――」


 雨宮様が無線を説明すれば、イズミは理解したと引き下がる。

 それを見ていた私は小さな疑問を抱いた。


「鬼は無線や小銃を使用しないのですか?」

「無線は初めて聞いた。銃は人間から奪った物を使用しているが、自分達で作ってはいない」

「あぁ、そういう……」


 だから、無線や銃に対する警戒心が薄い、ということ。そう考えれば、身体能力で勝る鬼が苦戦していることにも納得がいく。戦術面で不利を強いられているのだろう。


 警告は間に合わなかったけれど、もう少し遅れていたら、彼らが、蓮くんがどうなっていたか分からない。最悪の事態を避けられてよかったと安堵する。

 でも、まだだ。

 本当に安堵するのは蓮くんを助けてからだ――と、私は気持ちを引き締めた。


 それからほどなく、紅蓮さんやアーネストくんから、狙撃兵を始末したという報告が届いた。それを機に、雨宮様の部隊が突撃を開始する。

 奇襲を予想していたのか、すぐに応戦を開始しようとする組織の者達。だが、本来は自分達の味方であるはずの狙撃兵がいる位置から、紅蓮さんやアーネストくんの部隊が狙撃。

 それによって、敵の部隊はあっという間に総崩れとなった。

 一人、また一人と投降を始め、ほどなくして奇襲作戦は完勝に終わる。


「まさか、我らが苦戦した相手に、ここまで一方的な戦いを繰り広げるとは……」


 イズミがぽつりと呟いた。その声色には、特務第八大隊への畏怖、あるいは警戒心が滲んでいる。それを危惧したのか、雨宮様が口を開いた。


「連中は鬼の奇襲を警戒していても、我らの警戒は警戒していなかった。それが、ここまで完勝出来た理由だ。でなければ、このように一方的にはならなかった」

「我ら鬼が脆弱だというのか?」

「いや、そうではなく――」


 雨宮様がどう説明したものかと言葉を濁した。

 それを横目に私が説明を引き継いだ。


「雨宮様が仰っているのは、戦術の違い、ということですよ。鬼は銃に対する対応が不十分ですし、無線を使った情報戦にも慣れていないのでしょう?」

「ああ、なるほど、そういうことか」


 理解してもらえてなによりだ。

 でもそれより重要なのは、これからどうするのか、ということだ。


「隠れ里へ襲撃している連中は健在なのですよね? いまならそちらの背後も取れると思いますが、援軍は必要ではありませんか?」

「いや、その必要はない」

「……ここまでしたのに、まだ私達が信用できないと?」


 少し責めるように視線を向ければ、イズミは首を横に振った。


「そうではない。少なくとも、俺はおまえ達を信用に値すると判断した。だが、里の者達はまだその事実を知らぬ。おまえ達が里に侵入すればいらぬ誤解を招くことになる」

「……たしかに、そうかもしれませんね。ですが、大丈夫なのですか?」


 援軍なしで勝てるのかと問えば、彼はもう終わったと空を見上げた。釣られて木々の隙間から空を見上げれば、遠くの空に狼煙が上がっている。


「あれは勝利の知らせだ」

「……そう、ですか」


 なんだか拍子抜けだ。

 でも、これで蓮くんともう一度会うことが出来る。


「それではイズミ。貴方にあらためてお願いです。蓮くんに会わせてください」

「……いいだろう。だが、全員での訪問は遠慮願おう」


 イズミが雨宮様に向かって言い放つ。


「むろんそのつもりだ。数名くらいなら問題ないな?」

「ダメだ。大所帯で行けばそれだけ周囲の目が厳しくなる。それに、キリツグから聞いているのはそちらの娘だけだ。他は遠慮願おう」

「レティシア一人にそのような危険な真似をさせられるか! どうしてもというのなら、せめて俺も連れて行け。それが飲める最低条件だ」

「……いいだろう。なら、二人だけ連れて行く」


 こうして、私と雨宮様が交渉役として隠れ里を訪れることになったのだが――


「イズミ、戦闘は終わったのではなかったのですか?」

「そのはずだが……」

「なら、なぜ里の中から悲鳴が聞こえてくるのですか!」


 私が叫んだとおり、辺りではいまだに剣戟と悲鳴が響き渡っていた。それも、悲鳴が聞こえるのは里の中――つまりは、敵が内部に潜入しているということだ。


「俺にもなにがなにやら分からん。ひとまず、誰かに状況を――っ!」


 再び聞こえた悲鳴に、イズミが走り出す。

 当然、私達のことは置いてきぼりだ。状況が分からないのに隠れ里を駆け回るのは危険だけど、私達の潔白を証明してくれるイズミと離れるのはもっと危険だ。

 雨宮様と頷きあい、即座にイズミの後を追い掛ける。そうして角を曲がれば、男の子に襲いかかる妖魔達の姿があった。

 イズミは一体の妖魔と交戦中で、もう一体の妖魔が男の子に迫っている。


「――雨宮様!」


 彼が答えてくれると信じ、私は男の子を抱きしめて身を投げ出す。妖魔の放った一撃が、寸前まで男の子のいた地面を抉った。

 間一髪の回避。男の子を庇って地面に身を投げた私に次の一手は躱せない。トドメを刺そうと、妖魔が追撃を放とうとするけれど――それは叶わない。

 雨宮様が一撃の下に妖魔を切り伏せたから。


「あまり無茶をするなと言っているだろう」

「無茶ではありません。雨宮様がなんとかしてくださると信じていましたから」

「……まったく」


 溜め息を吐いた雨宮様は、いまだ交戦中であるイズミの援護に向かう。それを横目に子供へと視線を向けた。男の子はびっくりしていたけれど、次の瞬間には笑みを浮かべた。


「ありがとう。ええっと……人間のお姉ちゃん?」


 人間の――と言われて気付く。男の子には小さな角があった。

 そっか……この男の子は鬼なんだ。

 こんなに小さくて、無邪気な顔をした鬼……


 私の中で、鬼という存在その者が悪だという概念が崩れていく。


「お姉ちゃん?」

「なんでもないよ。それより怪我はなかった?」

「うん。僕は大丈夫――」

「リンヤ、無事か!」


 焦った男性の声が響き、鬼のおじさんが駆け寄ってくる。


「怪我はないので安心してください。ところで、この子のお父さんですか?」

「ああ、そうだ……って、人間だと!?」


 鬼のおじさんは目を見張って、リンヤと呼ばれた男の子を自分の方に引き寄せた。そうして、私に険しい表情を浮かべてくる。


「なぜ人間がこの里にいる!?」

「待って、お父さん。この人間のお姉ちゃんがボクを助けてくれたんだよ!」

「……なに? そう、なのか……?」


 困惑した顔で私を見つめる。鬼のおじさんがどういう気持ちかはよく分かる。私が彼らに対して向けている感情と同じだと思うから。


「その娘の安全は俺が保証しよう。それに、彼女が身を挺して庇っていなければ、その子は無事では済まなかったはずだ」


 そう言ったのはイズミだ。雨宮様とともに妖魔を撃破したあと、こちらの状況に気付いて駆けつけてくれたみたいだ。


「これは……イズミ様。この女性の安全を保証するというのは?」

「訳あって俺と行動をともにしている客人だ。それより、一体なにがあったのだ?」

「そ、そうでした。襲撃者達です! 捕虜にした襲撃者の一部が妖魔化したんです! そして、その騒ぎに乗じて逃げた者達が親方様の屋敷へ!」

「なんだと!?」


 イズミが顔色を変える。


「レティシア、すまないが状況が変わった」

「そのようですね。ですが、帰れとは仰らないでください」

「……どういう意味だ?」

「乗りかかった船ですから。それに、蓮くんと会うまでは帰れません」


 そう言って彼の顔を見つめる。

 断られることも考えたけれど、彼はわずかな沈黙の後に頷いた。それから男の子とその父親に安全な場所へ避難するように言い付け、「こっちだ」と叫んで走り出した。



 たどり着いたのは、隠れ里の中心付近にあるお屋敷。イズミの後を追い掛けて屋敷の中に踏み込めば、そこには異様な光景が広がっていた。

 廊下のあちこちで鬼と鬼が戦っているのだ。


「なんだこれは……どうなっている?」

「鬼の中に、敵に寝返った者がいたのでしょうか?」

「そんなことはあり得ぬ!」


 雨宮様との会話にイズミが割って入る。気持ちは分かるけど、他に考えられる理由は――と戦闘を俯瞰した私は、その中にいるキリツグに気付いた。


「――キリツグ!」

「む? 貴様はあのときの? ……そうか、イズミが連れてきたのか」


 キリツグは私とイズミを見比べてそう言った。

 それを横目にイズミが声を上げる。


「キリツグ、これはどういうことだ! なぜ同胞と戦っている!」

「襲撃者の仕業だ! 奴らになんらかの薬物を打たれた同胞達が理性を失っている」


 言われて見れば、たしかにキリツグに襲い掛かっている鬼は正気じゃない。それに、足元に倒れている鬼達の大半は、目に見えた怪我を負っていない。

 それを理解した瞬間、理性を失っている鬼の無力化に協力しようとする。

 だけど――


「イズミ、おまえはそいつらを連れて姫様の下へ行け! 襲撃犯の狙いは姫様だ!」

「――っ。分かった、ここは任せた!」


 イズミはすれ違い様に正気を失っている鬼の一人を無力化し、廊下の奥へと突っ込んだ。私達もその後に続き、そこかしこで戦闘がおこなわれている廊下を強引に駆け抜けていく。


 ほどなく、廊下の突き当たりにある大部屋にたどり着いた。

 襲撃者とおぼしき人間達と、理性を失っている鬼。それに斬り伏せられた鬼が数名。その奥には、怯える女の子と、その子を庇うように立ちはだかる男の子の姿。

 その男の子を目にした瞬間、私は部屋に躍り込んだ。


「――蓮くん!」

「……え、お姉ちゃん?」


 蓮くんが私に気付いてほっとした顔をする。その反応に私は目を見張った。蓮くんには、私が嘘つきの悪女だと思われていると思っていたから。

 もしかしたら、最悪の状況でマシな相手を見て安堵しただけかもしれない。でも、だとしても、いまからやり直すことは出来るはずだと聖剣を敵につきだした。


「あなた達は袋のネズミよ! なにを企んでいたのか知らないけど投降なさい!」

「そうだな。おまえ達には聞きたいことがある」

「よくも我らの里で好き放題してくれたな」


 雨宮様が私の隣で威圧すれば、反対側に立ったイズミが啖呵を切る。


「くっ、なぜここにはぐれ大隊の連中がいるんだ!」


 襲撃者の一人が叫ぶと、それを切っ掛けに襲撃者達に動揺が広がった。

 ……というかあの男、見覚えがあるわ。


「貴方、高倉の小隊にいた男ね。もう諦めなさい!」

「くっ、よくも邪魔をしてくれたな! だが、このまま終わってたまるか!」


 男は叫ぶやいなや蓮くんに駆け寄った。


「待ちなさい、なにをする気!?」


 私はとっさに蓮くんに向かって駈け出す。だけどそれとほぼ同時、男がポケットから取りだした注射の針を蓮くんの腕に突き刺した。


「――止めなさい! 止めてっ!」


 必死に手を伸ばすけれど間に合わない。私の振るった剣が男の腕を斬り飛ばすけれど、注射は既に蓮くんの腕に突き立てられていた。


「ぐあっ! よくもやってくれたな!」

「それはこっちのセリフよ! なにを注射したのか言いなさい!」

「はっ、決まっているだろう! 妖魔化の薬さ!」

「な、なんてことをっ! 蓮くん!」


 連中の対処は雨宮様達に任せ、私は蓮くんのもとへと駆け寄った。注射は抜け落ちているけれど、その中に収められていたであろう薬液は半分ほどがなくなっていた。

 そしてその効果か、蓮くんの瞳が赤い輝きを放っている。


「蓮くん、しっかりして、蓮くん!」

「お姉、ちゃん? ごめん、なさい」

「なにを謝っているのよ! それより、身体の調子は? 異変とかない!?」

「キリツグから聞いたんだ。お姉ちゃんに悪気はなかった、はずだ……って。だから、ごめんなさい。お姉ちゃんに、酷いことを言って、ごめん……なさい」

「違う、私が悪いのよ! ちゃんとたしかめなかった私が悪いの!」

「そんなこと、ないよ。最初にも、助けて、くれたじゃないか……」


 蓮くんは熱に浮かさたような表情で、だけどその目はどんどん赤くなっている。それに、以前見たような影が、蓮くんの腕に纏い始めた。

 ダメだ、このままじゃダメだ!


「蓮くん、これを飲んで!」


 聖水は在庫切れだけど、美琴さんが作ったご神水は一本だけ持っていた。それを蓮くんに飲ますけれど、あのときのような改善は見られない。

 それどころか、腕に纏い付いていた影が全身へと広がっていく。


「お姉ちゃん、苦しい、よ。お願い、僕を……殺し、て」

「なにバカなこと言ってるのよ! 出来る訳ないでしょ!」


 叫ぶ私に対し、蓮くんは悲しげな顔で首を横に振った。


「僕、あの研究所で見たんだ。同じように注射されて、妖魔になった人達を。……僕は、あんな風に、なりたく……ない。だから、お願い。僕を……ころ、し、て……」


 蓮くんの全身を影が纏い、妖魔化の兆候が進んでいく。

 なにか、なにか他に方法はないの!? 私の術はダメだ。蓮くんが高倉のようになってしまう。せめて、私が聖樹の雫を飲んだ後だったなら――っ!

 そうだ、あれがあった!

 私は異空間収納から聖樹の雫を取りだし、瓶の蓋を開けて蓮くんの口元へと差し出した。だけど意識が朦朧としはじめているのか、蓮くんの反応はさきほどよりも鈍い。


「飲みなさい!」


 強引に飲み口を口に含ませれば、蓮くんはゆっくりと聖樹の雫を嚥下した。これで、蓮くんの瘴気は浄化されるはず――だった。だけど、蓮くんはその表情を歪ませる。


「身体が、痛い、あくっ。う、あああああああっ」

「蓮くん!? しっかりして、蓮くん!」


 苦しむ蓮くんに呼びかけるけれど、その状況がまるで改善しない。

 どうして? 瘴気は浄化されるはずなのに!


「はははっ、なにを飲ませたのか知らぬが無駄だ!」


 蓮くんに注射を打った男が叫ぶ。私は雨宮様に取り押さえられたその男のもとへと歩み寄り、首筋に聖剣を突き付けた。


「答えなさい、蓮くんに注射したのはなに!」

「言っただろう、妖魔化させる薬だと」

「それだけじゃないはずよ!」

「ああ、そうだ。あの注射には人格を壊す成分が含まれているからな!」


 ――神経系の毒。

 それに気付いた瞬間、私は蓮くんの下へと舞い戻った。

 毒なら、私の魔術でなんとかできる。治癒の魔術と同じ原理だから、瘴気を浄化するときのように、私の魔力が蓮くんに悪影響を及ぼすことはないはずだ。


「蓮くん、絶対に助けるからね!」


 毒を消すための魔術を構成する。瘴気に侵された魔力が全身を巡って耐え難い苦痛に苛まれるけれど、私は歯を食いしばってそれに耐えて魔術を発動させた。

 蓮くんの苦痛を訴える声がひときわ大きくなった。


 それが毒を消す効果が現れている証拠だと信じ、私は更に魔力を巡らせる。

 魔封じの手枷を付けていない左腕に闇が纏わり付いた。魔物化が始まっている。このまま魔術を使い続けたら、私は戻って来られなくなるだろう。

 そんなのは、嫌だ。

 でも、蓮くんを助けられないのはもっと嫌だ!


 私は蓮くんを救うと約束したんだ! 弟を救えなかった。後輩の聖女も救えなかった。でも蓮くんは救える。ここで諦めるなんて出来る訳ない!

 お願い、間に合って!

 私は最後の力を振り絞り、術を行使し続ける。そしてついに蓮くんの表情が少しだけ安らいだ。それを目にした瞬間、私の意識は闇へと沈み始めた。

 

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