第6話 古城にて

 寿命が魔力で決まれば外見は孫や曽孫と変わらなくなる。実際祖父と父のトゥーサンと娘のイヴェットは少し年の離れた兄妹の様でしかない。優れた魔法生物作家の高祖母も、トゥーサンが最後に会った時には若々しい容姿であった。イヴェットは女の親戚と縁が薄かったから生きているなら会いたいと願っているのだが、そうした若々しい先祖達は段々と子孫と縁遠くなるものなのだそうだ。

 ブティックでの一件以来イヴェットはさらにリセをさぼり気味になっていた。

 登校しようとは思って家を出るのだ。だが、家を出れば帰るのがしんどくなる。誰もいない家に帰るその瞬間のことが心に重くのしかかって、辛くて堪らなくなって誰にも会いたくなくなる。折角出来たセルジュという友達ともだ。なら家に居ればいいのだが、一度挫けたら二度と家から出られなくなりそうで怖い。そんな八方塞がりに少女は苦しんでいた。

 勿論リセからトゥーサンに連絡はあるのだが、イヴェットを問い詰めたり責めたりせず普段のように接していた。飛び級出来る優秀な娘だったから多少の遠回りは構わないし、未成年の内に色々悩んで考える方が良いとも思えた。それは様々な犯罪者を扱って来ても思えることだった。

 それに対人間としてならば話せる気もするのだが、年頃の娘の悩みとなると、父としてどう相談に乗ってやればいいのか皆目見当もつかない。精々シュザンヌに人を間に立てて苦情を述べる程度だ。不甲斐ないが父としての精一杯だった。

 口うるさくされないだけでもイヴェットは父には感謝していた。本当に一人になりたかったからトロザの東に足を運んだ。

 空から眺望すればアルトワ・ルカスの首都トロザは市内の東側に川が流れている。地形に沿って蛇行し幾つもの支流に分かれ、大きな流れは大きく蛇行して西に向かいまた幾つもの支流に分かれて消えていくが、なかでも大きな湾曲部が市内にある。川幅も広くなっていて、大都市が形成される条件に適っていた。

 湾曲部には聖女が住まい政治を司るアエグレ宮があり、その周囲にそれぞれの色の名の聖女が府を構える小宮が点在し、総称して聖女宮と人々は呼びならわしている。

 川に抱かれるようにある聖女宮の茜府に、橋を渡って父は通勤している。川の東側は古くからある地域でさらに東には森がある。膨張し続けるトロザは南北と西に向かって広がり、東は古い街並みを保ったまま取り残されていた。

 森の手前にある四角い人工の湖があり、突き立った四角い城の廃墟が彼女の目指す場所で、そこなら一人で心行くまで泣けた。城という規模はないが形が模倣されている。

 何が哀しい訳ではない。廃墟に立てば自然と涙が流れ、流れるままに放っておくと少し心が軽くなった。涙が出ない時は静かに勉強したりしている。

 いつものように天井が崩れた広間で、育った木の根元に腰掛ける。木に身体を預けて泣いていると何時しかうつらうつらと眠りに引き込まれ、背中に感じる温かみで目覚めた。気付いて慌てて身を離す。

「目が覚めた?」

「オーレリア…」

 絶対見られたくない人間に見られてしまった。

「なんでここにいる?」

 絶対知られたくない人間に知られてしまった。

「貴女の取巻きに訊いたの」

「嘘!誰も連れて来たことない!」

「そうね。貴女の秘密の場所が知りたくてつけたことがあったんですって」

「マジ…誰よそれ…」

「彼も貴女の邪魔をする気はなくて、ただ知りたかっただけなのよ」

 苛ついた。

「あたしに何の用よ!」

 ハンカチが差出された。

「涙の痕」

 いつもは泉の冷たい水で顔を洗っていた。躊躇って結局受取った。

「先生が、バカロレアの前だし心配してらっしゃるの」

「だからって何であんたに相談するのよ」

「それは…貴女の実母(はは)は私の継母(はは)だからでしょ。少し配慮が足りない気もしたけど、私も心配だったから…。先日のこと聞いたの」

 シュザンヌは自分に都合の悪いことは言わない。話してくれたのはノーランだ。彼は母の話を鵜呑みにしてヴェシエール家を憎んでいた。もう少し大人になれば自身の目で見れるようになると思うのだが、姉としてそう願いたい。

「ムカつく。何それ?いい子ちゃんぶってる訳?」

「そんな言い方しないで。貴女が避けてたからちゃんと話したことはなかったけど、ずっと心配だったの。前から貴女が私と同じ学校になってから変わった、って聞いていたし」

 それは否定しようもない。未だに塞がらない心の傷が母に繋がる全てのモノを避けさせていた。

「一人なんだね」

 取巻きの少女達の姿はない。

「私だってそれ位の配慮はするわよ」

「怖かったでしょ?ここいらは廃墟だけじゃなく使われてない屋敷も多いから」

「そうね。でも話を逸らさないで」

 落ち着いた雰囲気で、なのに人を逃がさない。成程上に立つ人間としては良い資質だ。

「あんたに心配してもらうことなんてない⁉」

「彼女が本当にずっと貴女に会いたがってたのは事実なのよ。誕生日のプレゼントも受取ってもらえなくて、将来のことを話し合う時期に来てるのに加わらせてもらえないって」

 あの日梯子した一軒のブティックがシュザンヌの行きつけだったのだ。会話を聞いていた店員が話したらしい。

「図々しい⁉何様のつもりなの」

 感情が瞬間沸騰する。

「あの日母は死んだの⁉」

 そう告げるとオーレリアは辛そうに顔を背けて俯いた。

 ムカつく、この女は人の痛みが分かるのだ。イヴェットの痛みが分かるのだ。

 母は弟と一緒に買い物に出て、そこで何か事故に遭った。そう思い込もうとしたしそう出来ていたらもっと楽だった。しかし母は弟だけ連れて家を出た。自分は捨てられたのだ。その現実と交換出来る嘘は作れなかった。

「死んだ人間に相談なんて出来ない。あたしの人生にあの女が口を出すのは不可能よ」

 少しだけ意外だったのは、母の顔と声を聴いても分からなかったことだ。セルジュに教えられるまで、見た覚えはあるが思い出せない女性でしかなかった。とても小さな安堵だった。時間は掛かっているが確かに忘却という時薬は効いていた。改めて思い出そうとしてみても、出て行った頃の母は雰囲気しか形作れなかった。忘れられないと思い込んでいたのに。

(いつか過去に出来るかも)

 未来に希望はあったが、つい最近血の噴き出した古傷は塞がれる様子がなくイヴェットを苦しめていた。

「ごめんなさい。もう二度と貴女の前で彼女のことは口にしないわ。約束する。貴女を苦しめるつもりは毛頭ないの。ただ彼女のことは置いておいて、もうどうにもならないから。だけど私達二人の関係は違うわ、友達になりたいの」

 必ず首席を維持していたが次席のイヴェットとは僅差でしかなかった。しかも机に貼り付いて勉強している様子はまるでない。継母に似た華やかな容姿で少年達を虜にし遊んでいるようにしか見えなかった。

 負けたくない、そう思うと勉強が捗った。リセに拘ったのは継母の為ではない、オーレリア自身がライバルとしてのイヴェットと離れたくなかったのだ。家族はそれを誤解しているが、イヴェットがバカロレアに合格すれば躊躇せず彼女の専攻の魔法生物学のグランゼコール予科に移るだろう。

 嫌われているし避けられている、分かっているが気持ちは伝えておきたかった。

「どうしてさ?あんたには品行方正、育ちもいい取巻きがいるじゃない。まだ必要なの?そうね聖女候補は人脈も作っとかないとね」

「彼女達は貴女のことを誤解しているわ」

 不思議なことに、皆目の前の現実を見たいようにしか見ない。

「あらあら、何を根拠にあんたにそれが言えるのかしら?あたしのこと何も知らないのはあいつらと一緒じゃんか」

「今の貴女が苦しんでることは分かるわ」

「……要らないお世話」

「それに…弟にもノーランとも一度会ってやって欲しいの」

「何故?あ、そっか、弟が不義の子だなんてレッテル有難くないもんね。あたしと仲良くなれば少しはましになるって?」

「ノーランは私と貴女の弟じゃない」

 母のシュザンヌは新進気鋭の政務官ブーシャンドンと浮気して、ノーランは父の子ではなかった。それを知っていてトゥーサンは我が子として育てていた。イヴェットにだって弟は可愛くて愛しい大切な存在だった。

「ノーランがあたしに会いたがってるって?嘘でしょ、ブティックでだって憎しみの籠った瞳であたしを見てたわ」

 それもまたイヴェットを傷付けた。弟とは会って話したいと思っていたからコラージュで待ち伏せしたことがあった。だが憎悪の籠った瞳に出くわして逃げるようにその場を去った。母のしたことでノーランは傷付いたり苦しんだりしていない。それどころかイヴェットを敵視して憎んでいた。

 とても大切で愛した者達が次々とイヴェットを裏切っていく。

 ノーランと姉弟付き合い出来たらいいな、とそれとなくトゥーサンに話していたし喜んでくれてもいたから、ノーランの反応を素直にトゥーサンに打明けられなかった。ただ娘の態度でそれとなく察してくれたから、イヴェットはそれを言葉にしてもう一度傷付くことを免れた。

「あの子も誤解しているのよ。父や母を愛してるから、貴方達親子を…悪者にしたがっているの。いいことではないわ」

 間違っていると告げても、彼自身が矛盾に気付かねば理屈で勝つだけで心に勝てない。

「そう?あたし達を悪者にしてればあんた達親子は丸く収まって結構な話じゃない。もしかして自分が幸せだからあたしを憐れんでくれてる訳?それだけは止めてよね、死にたくなるわ。あら、丁度良さげな湖。結構深いのよここ」

「冗談でも止めて!私は真剣なのよ」

「だったらもう一度言う、あんたに心配してもらうことなんてない。あたしの悩みにあんた達は関係ない!」

「イヴェット、私達友達になれないかしら。悩みがあるなら聞くわ、何でも話してくれていいのよ、誰にも口外したりしない」

 反吐が出る程いい子だった。

「私に出来ることがあるならさせて」

「じゃあ放っておいて、全力であたしに関わらないでいて。それが一番嬉しいことよ」

「イヴェット…」

「さよなら」

 背を向けて少し歩くと自分でも分からず振返った。

「気持ちだけは受取っとくわ。ありがとう」

 何て自分はバカなんだろう。自分でも自分が信じられなかった。ここは中指立ててやるのが本当なんじゃないだろうか。「クソッたれバカ野郎」と罵倒してやれば気持ちがスカッとするんじゃないだろうか。

(ホントにバカだあたし)

 オーレリアが泣いてるんじゃないか、こんな危険なとこで泣いちゃってグズグズと暗くなるまで居るんじゃないか、そんなことが気になって、密かに隠れて彼女が出て来るのを確認する始末だ。度し難くないか?あたしは。

 彼女は俯いていたが泣いてはいなくてホッとした。

 近くに取巻きを残して来たのでもなく、見えなくなるまでずっと一人だった。

「優しいええ子ぉやんか」

「フオオォォーッ」

 誰もいないはずの背後から声を掛けられて、イヴェットは文字通り飛び上がって驚いた。その反応にヒクマトが腹を抱えて大笑いする。

「ヒイィ、ヒッヒッヒ気付いてへんとは思たけど、何ちゅー驚き方すんねんな」

 驚かされてイヴェットは真っ赤になって怒ったがヒクマトの笑いは収まらない。

「何故ここが分かったのよ!」

 誰にも秘密の場所だったはずなのに、意外に多くの人に知られてしまっているではないか。

「何でて、この場所のヒント与えたんは誰やったっけ?」

 と、問われても覚えがない。そういえばどうしてこの場所を見付けたのだったのかも覚えていない。

「覚えてへん?まああんたそれどころやない感じやったから。一人になれる場所が欲しかったやろ?」

「もしかしてヒクマトに縁のある場所?」

「ちゃうで、捜査中に偶然やわ。調べたら持ち主不明でトロザの端っこやしほっとかれててや。樫の木もええ感じに根っこ伸ばしてくれてるやん」

「ヒクマトにとっても一人になれる場所なの?」

「まあ…、うちは一人暮らしやし気ぃ紛らわす場所は他にもあるし、ホンマたまにしか来ぇへんけど」

「そっか、自分の大切な場所あたしに教えてくれたんだね」

(それがこの娘にはまだ分かる心の余地があるんや)

 ヒクマトはちょっと安心して嬉しくなった。

「もしかして折角来たのに邪魔しちゃった?もう帰るから安心してよ」

 捜査上の秘密をたくさん抱えて苦しいこともあるのだろう。邪魔したくなかった。

「うちはあんた捜しててん。トゥーサンが心配しててや。うち捜査中に怪我して、丁度ええから有給も取っててん」

 魔法で怪我は治せるし、現場では血が滾って多少のことはどうってことなくなるが、その代わり翌日や翌々日に反動がどうしてもきてしまうのだ。それでも怪我を普通に治療すれば二日や三日ではすまない。

「具合悪いのに父さんが相談したんだね。ごめんね、ホント父さんは相談出来る人少ないから」

「ちゃうやん。あんたの事情を知ってる人間やないと、いうことやん」

 何だか急に凄く重い物に乗っかられたようだった。

(ああ、重い…)

 うちの事情は説明し難いのだ。

「大丈夫だよ」

「嘘つけや、連日リセさぼってここ来とったんやろ、大丈夫やあるかいな」

 バレてるとは思ったが愉快ではない。

「この間……会いたくない人に会ったんだ。だから」

「うん、聞いてる。しんどいわな。トゥーサンには自分振った女の一人でしかないやろけど、あんたは血ぃ繋がってるし、もう昔のことです、いう訳にいかんもんな」

「解かってくれる?」

「ヒクマト姉さんかて色々人生経験積んでんねんで、分からんでか!」

「昔の男が忘れらんなくて方言が治らないって本当?」

「誰が言うたんそれ?」

「カジミール」

「一辺殺さなあかんな、あのクソガキは。新人の頃から散々うちにお世話になっとるやろに」

「ホントなの?」

「嘘に決まっとるやん。まあ立ち話も何やから、もう一回中に戻ろか?」

 イヴェットの背中を軽く叩いて促した。


 ヒクマトと一家の付き合いは長い。なんせ彼女はもう三百年近く捜査官をしていて、昇進試験を受けないから平捜査官のまま後輩のトゥーサンの部下になっていた。捜査のイロハをトゥーサンに教えたのもヒクマトだ。イヴェットの祖父や会った事のない高祖母とも面識があるという。

 悪い奴をやっつけたいのは勿論だが、それよりも弱い人を助けたい。上を目指さず地べたを這いずって、底辺の人々と目線を同じくして捜査にあたる。能力があるだけに志とは違う部署に配属されてしまったが、ヒクマトも茜の君となったヴェロニクと同じ志を抱く人物なのだ。

 彫の深いエキゾチックな顔立ちにバサバサ睫毛で黒い瞳は目力も凄かったが、優しさとは別の次元で相手の心に壁を作らせなかった。逆に男は心を覗かれたくなると以前カジミールが洩らしていたのを聞いた。カジミールとも付き合いは長いが、幼いイヴェットの記憶には新人のカジミールの姿があったから彼は順当にトゥーサンの後輩だった。

「怪我はもういいの?」

「その日の内に治ってるんやし、もういいはもういいねん、無理したら動けるんやし」

「無理しないで、その手の無理は老後に祟るって聞いたよ」

「それまで生きれたらな」

 寿命が千年だの七百年だのあると診断されてもすんなり老衰になるまで生きられる訳ではない。それどころか大抵が天寿を全う出来ずに終わる。

 能力があればそれだけ面倒なことに引っ張りだこになり命を擦り減らすからだ。

 アルトワ・ルカスの聖女達は優秀な執政官であると同時に大魔法師であることが必須とされる。だから神殿からは七百年以上の長寿の診断が下る。けれど執政官として魔力だけでなく心も身体も擦り減らす彼女達は、長くその座にいられない。

 最高位の聖女で在任の最長は三百と少し、色の名の聖女で四百年を超えたのは一人である。若い内に聖女になってもそれは変わらない。

「そうだね、若く見えてもヒクマトも普通ならおばあちゃん年齢なんだよね」

「やなこと言うねぇ。見てくれ通りうちはまだぴちぴちギャルやで」

 セクシーポーズを取る。

「あー、言葉選びで歳が分かっちゃうわ」

「なぬ!しくったか!」

「もう!ヒクマトったら」

 二人は顔を見合わせて笑った。久し振りにイヴェットは心の底から笑ったのだ。


「成る程ね。そらあんたリセ変えた方がいいわ」

 勿論それは何度も考えたのだが、自分ばかりが損をするのは悔しい。

「それじゃあまるで負けたみたいじゃん」

「人生長いんよ。ここで負けといて、未来を獲らんと」

「父さん一人になっちゃう…」

「そろそろファザコンと縁切らんと男関係で苦労すんで。可愛いで男釣れても長続きせん」

 可愛いから勝ったも同然ではなかったのか!衝撃だった。

「地方の学校で伸び伸び過ごしたらどない?うちの地元なんかお薦めやで」

 面白そうな気はするが、トゥーサンと離れるのは気が進まない。

「専攻は魔法生物科やろ?首都のグランゼコールもええけど地方でもおもろい研究出来んで」

「オーレリアが悪いんだよ」

 幼子のように口を尖らせる。

「さっきの子ぉか?」

「バカロレア取ったんだからさっさとグランゼコール予科に移ればいいじゃない?どうせあいつは行政を学ぶんだし分かれるんだし。直ぐそうなると思ってたのに、それとあの女も!」

 シュザンヌのことだ。ヒクマトはイヴェットの頭を抱き寄せて髪をクシャクシャにした。

「あんたは偉いよ。ホンマそう思う。辛かったのに今までよう我慢したな、ええ子ぉや」

 その口調が余りにも優しくて不覚にも涙が出た。

「違う!これはあれよ、思春期だからよ。何が無くても物悲しくて涙が出ちゃうの、そういう年頃なの⁉」

 慌てて否定するイヴェットにヒクマトは微笑んだ。

「うん。もう一息のとこやもんな悔しいのはよう解かる」

 頼りになる父にも誰にも訴えたりせず重い物を黙って背負い続けていたのだ。ゴール直前でのリタイアは何より辛いだろう。

「けど何事にも限界いうのがあんねん。せやから無理して自分壊すような真似したらあかん、あんた若いさかい分からんやろうから、うちが限界やて教えたげるわ。もう無理せんと肩の荷、下ろし」

「ヒ…ヒ、ヒクマト…」

 全身の水分が涙に回ったようだった。涙が溢れて溢れてついでに鼻水まで流れ出してすっごく格好悪かった。

 だが、ようやく心置きなく信頼出来る大人に解かってもらえた。苦しいのも悔しいのもどうにも出来ない感情を全部吐き出せたのだ。

「気にしぃひん、気にしぃひん。出物腫物ところ選ばずやで、出るもんは出してまい、身体に悪い」

 屈託のない笑顔に誘われてヒクマトに泣きつき彼女の服を涙と鼻水まみれにした。

 大人はどうしようもない感情を酒で流す。

 未成年のイヴェットは乙女らしく甘い物で流す。

 その夜は甘々デセールパーティーになった。

 適当に材料をしこたま確保すると、めたくそな思いをぶつけまくって小麦粉を捏ね、空気抜きと称して叩きつける。それを窯に放り込んで芯まで焼きをいれてやる。

 助っ人として呼ばれたのは半熊人のマノンだ。外見は人間だが彼女はれっきとした稀少種白熊人と人間のハーフである。鬱金府に勤める彼女は滅茶苦茶料理が上手い。マカロン用の卵白も飾り用の生クリームも高速で泡立ててくれる。

「オラオラオラオラァ、見よ熊力!」

 瞬く間にしっかり爪の立った固いメレンゲが出来上がる。

「マノンカッコいい⁉」

「次は生クリームお願いしますぅ」

「何でも持って来なさい!」

 威勢のいい答えが返る。

「イヴェット、料理は良いわよ~。このクソガァって切って混ぜて焼いてマイナスの感情ありったけぶっこんで美味しい物に変わんだから」

 父の料理が大量になる理由が解った。

 柄のデカい家系であるヴェシエール家では、家は慎ましいが窯は大きく拵えられている。

 シュー・ア・ラ・クレームにクグロフ、クレープとガレット、パン・デピス、ブリオッシュ、ガレット・ブルトンヌ、クレームブリュレと窯は休む暇がない。

 個人の好みと何より「作れる」ことが重要である。

 家中に甘い香りが充満した。生クリームと砂糖だけでなくシナモンやアニスの香辛料や洋酒の匂いが混じっている。。

 食べ切れないのでパコの家を襲撃してミラベルとレミの双子を強奪、仕事上がりのジョアンナ親子も合流した。

 噂を聞きつけてマルジョリーが訪ねると、幼い双子は満足の寝息を立て、女子トークが盛り上がりの真っ最中だった。

 トゥーサンは洗い物だらけの台所の片隅で濃い焦げ目のパンにハムと野菜とチーズを適当に挟んで夕食にしていた。大きな身体を丸めて居場所無さげにしているのが笑えた。女子会に男子は不要だ。

「女どもの甘い宴へようこそマルジョリー」

 皆に歓迎される。

「甘いの残ってる~?もう疲れちゃって甘いの食べた~い」

 連日死霊や継ぎ接ぎ達を調べていたから、明るい声には救われた気がする。

 ササッと目の前に甘い物が取分けられると持参のワインとチーズを披露した。

「やった!そろそろワインが無くなるのよ」

 未成年のイヴェットはリモナードとお茶を飲んでいる。

 広げられた宴席の献立にマルジョリーは歓声を上げた。

「ガレット焼こうか、具は何がいい?」

 本場出身のジョアンナだから作るのが上手い。ブロッコリーや豆の簡単な総菜もある。

「やだ~。甘いしょっぱい甘いしょっぱいで無限ループじゃない。デブるかも~」

「かまへんかまへん。うちら激務やねんから今夜位食べてよし!」

「よっし!」

 ディズヌフのメンバーで彼女が一番精神的に激務だった。

 何せただ調べるだけでなく証拠保全の為に同じ茜府の犯罪研究科魔法生物部のイカレた連中や、カイキリア大学のネクロマンシァン研究科の連中と遣り合わねばならなかったのだ。両者とも格好の研究材料に目の色を変えて彼女に迫ったから、彼女の精神的疲労は並ではなかった。

 助け舟を出してくれたのはダンテだ。

 彼は他の隠れ家の場所を教えてマルジョリーの負担を減らしてくれた。

「あの時何か取引されてなかった?」

 横広な木箱をダンテが受取っていたのをジョアンナは目撃していた。

「嘘かホントかペリュトンの卵だって」

「ペリュトン!ホントに?」

 魔法生物が好きなイヴェットが反応した。

「何それ?」

 海に沈んだ古代大陸に生息していたといわれる、鹿と鳥が合わさったような魔法生物だ。大陸と共に沈んだとされていた。

「ホンモンやとしたら可成り貴重なもんやん」

「本物だとしたらね。古代大陸が沈んだのは何千年も前じゃない」

「ああ、せやな」

「そんなモノ手に入れてどうすんだろ?」

 イヴェットは興味を持った。

「どうだろ?でもあいつ官舎で何かしてるらしくて、管理人に目を付けられてるわね」

 同じ官舎にジョアンナは住んでいた。

「管理人さんよくダンテの部屋の前うろついてるよ」

 娘のアデールも言い添えた。

「その件は終わったんじゃなかった?」

「ううん、またなんかやってるよ。感じるもん。他にも感じてる人がいて、恐がってるんだって」

 母に似て賢くて聡いアデールは歳以上に観察眼が鋭い。

「確かに、あいつが越して来てから官舎にもう一つ別の空間があるような感じが消えないのよね」

「あいつ…」

 マノンが呟いた。

「捕まえてちょい〆とかないと」

 熊人のバカ力でどう〆るのかは訊かない方がいいだろう。

 茜府で採用されたが紹介したのは鬱金の君だ。ダンテが何かしでかしたら彼女の敬愛する鬱金の君に類が及ぶ。

「そういうたら、鬱金の君はダンテとどないな知り合いなん?」

「あたしも知らない。ある日上機嫌で連れて来てた」

 鬱金の君も茜の君同様ダンテの才能を逃したくないと思っているのは分かる。

「何だっけ?誰かを待ってるんだけど、指定されたのがアルトワ・ルカスらしいよ」

「女の人かな?」

 何気なくイヴェットが訊ねると女達が目を細めた。

「気になる?イヴェット。訊いといたげようか~?」

「い…いらないよ。そんなんじゃない」

「せやけど確かに気にはなるね。その人来たらここを去るんや」

「そういう言動してるね」

「うっわ、どんな奴待ってるのかメッチャ気になるけど絶対紹介してもらえない」

「きっとある日突然いなくなるのよ」

(ある日、突然…)

 その言葉がイヴェットにのしかかった。

 空っぽじゃないけど空っぽに感じる誰もいない我が家。幾ら呼んでも捜しても母も弟も見付からない絶望感と孤独。

 思い出しそうになって振り払った。戻れない時間に恋々としていても何も進まない。

 発言したジョアンナはしまったと自分を叱った。皆がイヴェットの様子を息を詰めて見守ったが、何でもないように会話に戻ったので安堵した。

「出てく時には世話になった人達に菓子折持って回るように釘差しとくわ」

 冗談めかしてマノンは言うがかなり本気だろう。きっと菓子屋とお菓子を指定するに決まっている。それだけマノンのグルメは有名だ。

「せやけど、今の内教えとくな、イヴェット残念、ダンテはマノンに気があんねんな~」

 本人も含め誰もが驚いた。

「嘘!嘘!」

「あいつがおる時マノンの話題が出てん、あんたの兄貴、渋くてハンサムやん」

 マノンの兄は正真正銘の熊人でしかも稀少な白熊種だ。出稼ぎで鬱金の君の護衛騎士を臨時で勤めていた。熊人は忌まれていたからこの人選には一揉めあったが、一方で聖ルカスとの小競合いが本格化しそうで軍備が増強されている。兵士が必要なのだ。

 飽くまでも臨時とマノンはしておきたかったが、状況が兄を足止めする。

「言っとくけど、兄貴は結婚してるの、手を出したら幾らヒクマトだって友情終わるからね」

 マジな迫力で念をさす。

 男らしく渋くてハンサムな兄だったから女の方から積極的に誘われるのだ。ついつい…、で幾度かの浮気の末に家を追い出されようやく修復の兆しがみえたから壊されたくない。

「言うても究極子供が出来ひんかったらええんやろ?あんたが心配しとんのんってそれやん」

 否定したいが図星である。

「どゆこと?」

「マノンは自分みたいに熊人と人間の間で苦しむ子ぉを見たないねん」

「ああ、そっか」

 頭が優秀であるだけにイヴェットの理解は早い。

 強く狂暴で人を食べることもある熊人は亜人の中で特に忌避されていた。当人達は良くてもその子供達はどちらの世界でも集団意識や共同体に真の居場所を見付け難い。

 熊人の村で幼少期を過ごしたが人間の血が濃かったので年々居づらさが増し、結局アルトワ・ルカスの母の親類を頼って人間世界で生きることになった。すると今度は熊人の血が彼女を人間の集団から孤立させた。

 優秀で数々の美点があって鬱金府に勤めるマノンでも官舎に住めず、住居を探すのも一苦労なのだ。同僚に代理購入してもらった一軒家に家賃として購入費を返済しながら住んでいる。

 兄夫婦の別れる切れるはどんなに兄と仲が良くても、所詮は何処にでもある男女の問題に過ぎない。マノンが一番避けたいのは、兄と人間の女性との間に子供が出来てその子が自分と同じ苦しみを受けることだ。

「な、ぼっちってのは何処にでも居んねんで」

 ヒクマトはアルトワ・ルカスに移民して何代も経ち、彼女自身アルトワ・ルカス人としてのアイデンティティしか持たないのに大多数の原住民からは、容姿からしてどうしても外れてしまう。

「せやから言うて、あんただけが苦しいんやない、って切り捨てるんちゃうで。あんたの苦しみはあんたのもんや、肩代わりもでけん、けど、おんなじ苦しみを理解して共有出来るもんがおんねん。独りぼっちやないのだけは覚えといてや。いつでも話聞くで」

 女達は頼もしく頷いた。

 世界が広がった気がした。

 女子トークに華を咲かせながらイヴェットは時折マノンをまじまじと見詰めた。

 半分熊人なのにどちらかというと小柄で、知性より朗らかで面倒見の良い面が表に出ている。血色の良い肌と明るい金髪の元気溌剌とした女性である。

(こういうのが好みなんだ…)

 自分の事で手一杯なイヴェットに面倒見の良さは感じられないだろう。

 改めて自分が人にどう見えるのか考えさせられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る