3-5


『いつも……、いつもこうだ。オモいビトのため、ココロをオニにしてクゲンをテイせばケムたがられ、キづけば、どこのウマのホネともシらぬヤロウに、ジュンジョウをウバわれて』


 得も言われぬ圧力。底冷えするような悪寒が僕の全身を巡る。眼下の明智も顔を青くしていて、彼女の震えが僕の身体に伝った。


『ナゼだ、ナゼいつもこうなる。ボクのことなんて、ダレもアイしてはくれないのか』


 頭から両手を離した北条がユラリ全身を傾かせ、ニヤリ口角を吊り上げて。


『ツラい。ツラいなあ。ミジメでブザマでコッケイで。アワレなるコイのドウケ、それがボク』


 やばい。ヤバイヤバイヤバイヤバイ。


 何がやばいのかはわからないが、とにかくヤバイ。脳が全身に緊急避難を命じる。……だけど僕は動けなかった。北条のあまりにも不気味な雰囲気に恐怖してしまい、足に力が入らない。


『アア、そうか』北条は薄ら笑っている。

 真っ赤に充血した彼の眼が、焦点の合わない二つの眼球が。

 ギョロリ。僕たち二人を捉えて。


『どうせテにハイらないのであれば、クってしまえばいいんだな』


 唐突に地面が揺れた。ゴゴゴゴッ、ゴゴゴゴッ。地中を喰らうような轟音が足音から。


「……う、うわっ――」よろけた明智が僕の全身にしがみつき、バランスを崩した二人が地面に倒れ込む。振動が下半身を伝って僕の脳を揺らした。


 なんだ。何が起こっている? 正体不明の不安感。そして。

 以前にも感じた、捕食の予感。


 突如、土くれのグラウンドが吹き上がった。耳をつんざくような衝撃音と共に、僕たち二人の視界が阻まれる。「――ぐっ……」僕は思わず片手で顔を隠して、両眼を瞑って。


 やがて砂煙の霧が晴れていく。薄く目を開いた僕の視界に映ったのは、巨大な影のシルエット。人の子の背丈など比較にならないほどの図体を有した『ソレ』の姿が徐々に輪郭を。


 『ソレ』は手足を持っていなかった。ウネウネと一本軸の胴体をうねらせて、ミミズのような恰好を為していた。

 『ソレ』には目がなかった。しかし頭部と思われる箇所に巨大な口があった。線の細い触手のようなものが口の周りから生えており、無節操に蠢いている。

 『ソレ』の全身は紅色の鱗で覆われていた。腹とおぼしき部位は生肉のような薄ピンク色だった。ありていに言うと――


「――ギャーッ! キモッ! キモすぎっ! な、な、な、なんだよコレーッ!?」


 地面にへたりこんでいた明智が大声でわめき、そのまま後ろに後ずさる。

 遅れて僕は理解した。……やはり北条は心魔に憑かれていたんだ。そして。

 目の前にいるバケモノは、彼の心魔が具現化した姿。


 心魔は、自身が消失することに対して抵抗を示すという。『視える人間』に狩られることを恐れ、容赦なく捕食する性質を持つという。つまりだ。


『どうし、ようかな。アタマからいこうか。アシからイタダこうか。ユビのイッポンイッポン、ナめツくすことにしようか』


 僕たちはこのままだと喰われる。瞳を持たないバケモノの眼光が僕たちを捉えた気がした。

 僕は条件反射で身体を動かしていた。隣でへたりこんでいる明智に飛びついて、彼女の頭を両腕で抱きかかえる。ぎゅうっと握りしめる。何かに抗うように両腕に力を込める。


「――わぷっ!?」顔を覆われた明智の吐息が漏れて、僕の胸のあたりを暖かく濡らした。


 そんなことをしても無駄だというのに。巨大な大口の前では、そんな行為は意味を為さないというのに。何故だか僕はそうせざる得なかったんだ。


 バケモノの咆哮と共に、肉の塊が地を這うような轟音が背後ろから。バケモノがいよいよ僕たちに喰らいかかろうとしているのだろう。僕は思わず両眼を瞑った。

 終わりかな。そう思った。そう、思ったんだけど。


 僕は忘れていた。死を目前にして、とある事実が頭の隅に追いやられていた。

 僕には、僕たちには、あまりにも頼りになる用心棒がついていることを。


「ハッ」


 短い発声と共に、虚空を斬り裂くような音が流れる。続いて『ゲッ』とバケモノの呻き声も。


 上体を起こした僕が恐る恐る目を開け、振り返ると、いつかの夜と同じ光景。

 一本の刀を構えた式部が、右手を大きく振り切った恰好を為す彼女が、威風堂々たる様で凛と立っている。バケモノの胴体は二つに割られ、その頭部が空中に吹き飛んでいた。


 式部が心魔を斬ったという事実を、僕は一呼吸遅れて把握する。


 やがてドシン、地響きと共にバケモノの頭部が地面に落下した。切り離された胴体は力なく垂れて、そのままやはり地面に横たわる。バケモノの目の前でユラユラ身体を揺らしていた北条の頭が、ガクリと垂れた。


 倒した……、のか?

 僕はヨロヨロと立ち上がり、式部に近づいた。

 彼女はゆっくりとこちらに振り返り、「済まない」そう前置きながら。


「怪我はないかな。寸前まで様子を見てたら、いささか参上が遅くなってしまってね」


 刀を構えている右腕を下ろしながら、式部がふぅっと息を吐く。彼女の狐面を眺めていたら、凝り固まっていた僕の全身が少しずつほだされていく感覚があった。僕の神経が、平静の到来を理解しはじめる。


「すっ……、スゲーッ!」地べたにへたりこんでいた明智が興奮した声を漏らした。

 バネが弾けるように立ち上がった彼女が僕たちの元に駆け寄る。


「式部、お前メッチャ強いんだなー! シュンサツじゃねーか!」


「え、あ、や、それ程でも」スゲースゲーを連呼して飛び跳ねる明智に、照れたように後ろ髪を掻いている式部。命の危機を乗り越えた直後だというのに存外のん気な光景だ。僕たちの周囲には未だ、巨大ミミズのようなバケモノが横たわっているというのに。……それにしてもグロテスクだな。心魔って、抱く感情の種類によって姿かたちが影響を受けたりするのだろうか。この見てくれは、あまりにも醜い――


「あれ?」


 ふいに声をあげたのは僕。間の抜けた発声に式部と明智の視線が集まった。


「いや、さ」僕は口を開きながら、同時に記憶の糸を辿っていた。僕は式部に目を向けて。


「僕と式部が初めて出会った夜。あの時僕たちの前に現れた心魔……、人面鳥のバケモノを式部が倒した時はさ、すぐに体が溶けて、なくなっちゃったような気がするんだけど」


 式部がはたと動きを止める。お面の裏側から僕をジッと見つめている気がした。隠された彼女の表情を窺い知ることを僕はできない。でも、間を縫うような彼女の沈黙は、僕の不安感を煽るには充分に効果的だった。


 地面に転がるバケモノの頭部に目を向けた式部が、堰を切ったような声を。


「――離れてッ!」彼女はこちらを見ぬまま、片手で僕の身体を突き飛ばした。


 虚を突かれた僕は疑問符を漏らす暇すら与えられず、再び地面に尻もちをつく。状況を呑み込めていないのは明智も一緒らしい。彼女は「えっ、えっ?」と戸惑うように視線をさまよわせており、でも僕の視線は彼女が立つ場所の先……、のそり動いた『ソレ』の姿に、釘付けになっていた。


 頭部だけになったバケモノ。息絶えたはずの物ノ怪。――の、口の周り。

 無数の触手が蠢き始め、式部に向かって一直線に伸びた。隙を突かれた彼女の四肢に巻きつき、彼女の五体を空中へと持ち上げる。


「――グッ……!」式部がうめき声をあげた。全身を締め付けられているらしい。


「――式部ッ!?」僕は焦ったようにその名前を呼んだ。腰を上げて彼女に近づこうとするも、遥か上空に浮かんでしまった式部の元にたどり着けるワケがない。僕は歯噛みするように彼女を眺めることしかできなった。


『グフ、グフフフフ』


 ノイズ音が再び。

 二つに割られたバケモノのかたわれ、大口を持つ方がのそのそと身体を起こす。斬られた切断面からは緑色の液体がボタボタと溢れている。バケモノの動きに呼応するように、先ほどまで愕然と頭を垂らしていた北条もユラリ顔を上げて、憎々しくニヤついた。


『キミたちは、ナニをオドロいているのだ? ミミズはカラダをハンブンにちぎられても、シなないだろう? セイブツのジュギョウを、マジメにキいていなかったのかな?』


 ウネウネウネウネ。北条がせせら笑うたびにバケモノの全身も気味悪く揺れた。


 空中で拘束された式部はもがくように身体を動かしている。右手で掴んだ刀を使って、絡む触手を斬り飛ばそうと試みているのだろう。だけど自由が効かず、彼女は無慈悲に身体を縛り上げられるばかり。


「ど、どうしようヤギラ! シキベが触手プレイみたいになってんぞッ!?」


 ――いや言い方ッ!? ……と漫才に興じている場合ではない。唯一の戦力である式部が囚われてしまった。誰がどの頭で考えてもこの状況はまずいんだ。


 バケモノの頭部があんぐりと大口を開けた。そのままゆっくり、ゆっくりと捕捉した式部を自身に近づけていく。馳走を喰らう寸前の時間さえ、奴は愉しんでいるように見えた。


 僕は脳みそをフルスロットルで高速回転させる。現状を打破するアイディアが、何かないか。

 心魔を消滅させることができるのは、心魔だけ。……つまり、例え僕が重火器の類を所持していたとしても、バケモノに傷一つ付けることができない。僕が身を挺してバケモノに体当たりをしかけたところで、捕食の順番が替わるだけだろう。


 打つ手が、ないじゃないか。焦燥が恐怖に成り代わり、やがて絶望へと変容していく。


 視界の中。式部が必死にもがいている。抗っている。でもその様は僕の心を虚しくするだけだった。自らの無力を痛感し、やり切れない気持ちで胸が燃えそうになっていた。……クソッ。何か、何か手は――


 そんな折だった。明智が弾かれたように駆け出す。


「ちくしょーっ! テメーッ! ホージョーッ!」


 彼女は跳躍した。宙を舞い、小柄な全身を水平方向に傾ける。そのまま、力学的エネルギーに身を委ねて、気味悪くニヤニヤした笑みを浮かべている北条に向かって。

 ドロップキックをかます。


『ガハッ!?』


 力学的エネルギーに則られた北条の身体が吹き飛んだ。明智の全身もべしゃりと地面に落ちる。しかし彼女はすぐさま立ち上がり、「この変態ヤローがッ! シキベを離せ!」ぶっ飛ばされて地面に転がる北条に向かってワンワンと喚いていた。


 ……あ、なるほど。彼女の奇行がようやく腑に落ちる。


 どうやら明智は心魔の性質をちゃんと理解していない。彼女はおそらく、北条が心魔のバケモノを操って式部を拘束している――と勘違いしているんだろう。でもその実は逆。具現化した心魔は意志を持ち、むしろ北条の身体を乗っ取っているんだ。……つまり、北条の方に攻撃をしかけたところで、バケモノの方には何の影響もない。僕はそう思っていた。そう、思っていたんだけど。


『ヌッ……、ミ、ミエ――』


 バケモノの様子がおかしい。奴は挙動不審に身体をくねらせ始めている。まさに今、バケモノの大口に放り込まれようとしていた式部の身体が、空中でピタリと止まった。式部の五体に纏わりついていた触手もまた、行き処を失ったように慌ただしくうごめいている。


 ……もしかしてあのバケモノ、北条の――

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