むっつ。飲み会、それぞれの思うところ

***


S I D E 杉本


 金曜日の飲み会。俺は幹事だから仕切ったり注文したり、面倒臭いと思っていたけど、前原さんの隣に座れたからいいか、と内心嬉しくて仕方なかった。

 けれど、今日はいつもの前原さんとは違った。

「前原さん、水!水飲んでください!」

「ううん、いらないよー」

「いや!駄目!飲んで!」

 無理矢理、水が入ったコップを口元に持っていく。

 いつもならお酒は飲んでも二杯の前原さんが、今日はその倍は飲んでいる。顔は紅潮し、目はトロンとなっている。

「やだ。お酒がいい」

 二口、水を飲んですぐテーブルに置いてしまう。そして、頬を膨らませて拗ねたように言った。

 なんだ、この可愛い生き物は。

「前原ちゃん、今日は結構酔ってるね。酔うとそんな甘えた感じになるんだ?」

 前に座っていた男の先輩が手を伸ばして前原さんの頭に触れようとする。

「駄目っすよ、先輩。セクハラ」

「えー可愛い後輩を愛でるだけじゃん」

「駄目っす」

 俺が手を払いのけると「ケチー」と先輩が唇を尖らせる。いや、だって触らせたくねえし。

「そうですよ、先輩。セクハラですよー。ねー?杉本くん?」

 前原さんは俺に同意を求めて小首を傾けた。

 胸の奥がぎゅうっとなって苦しい。まじでなんだよ、この可愛い生き物は。

「なあ、ていうか前原、彼氏とは最近どうよ。なんか、彼氏できたって風の噂で聞いたんだけど。気に食わねー」

 先輩は枝豆を食べながら、躊躇なくその話題を出す。

 前原さんは自覚がないようだけど、男性社員からの人気が高い。優しい雰囲気に、可愛らしい容姿。狙っている独身男性は多い。

「いや……別れました」

 前原さんは体を縮こませて、小さな声で言った。

 俺はフリーズして、その言葉を反芻する。

 別れた?彼氏と?

「だから、元気なかったんすか?」

 深く、こくり、と前原さんは頷いてお酒を飲み込んでいく。

 この一週間、前原さんの様子がおかしかった。そういうことか。

それなら俺にもチャンスがあるかもしれない。不謹慎だけれど、嬉しくなってしまう。

 前原さんはまたお酒を口に運び始めて、どんどん飲み込んでいった。驚いて、咄嗟にお酒を奪う。

「ちょっ、もう駄目っす!これ以上は飲み過ぎ!」

「ええー嫌だ!杉本くん、返してよ!」

 涙目で訴えてくる前原さんを可愛いと思いつつ、お酒を遠くへ置こうとした刹那、前原さんがコップを奪おうと手を伸ばしてきて。

「っ!?」

 俺は反応が遅れてしまった。

「わっ!」

 コップから半分ほどのお酒が前原さんのワイシャツにかかってしまった。インナーが透けてしまっている。

「す、すみません!」

 おしぼりで拭こうとして、手を止める。胸の当たりだったからだ。俺は前原さんにおしぼりを渡して小さく深呼吸をする。

「あーあ。前原、俺の上着貸そうか?」

 と、先輩がスーツの上着を渡してくる。俺はそこまで気が回らなくて、ハッとした。

「先輩、俺が!」

「いえいえ、大丈夫ですよー。インナーが透けてるだけですし」

 前原さんはニコニコと笑いながら、何ともないというように少しだけ拭いておしぼりを置いてしまう。

 この人はこういうほっとけないところがある。

 ……前原さんが俺のこと、好きになってくれたらいいのに。

「つーかさあ、なんで別れたの?」

 先輩はズカズカと踏み込んでいく。俺には勇気がなくて聞けなかったことを。

 前原さんは視線を落として、「えっと」と言いにくそうにしていた。ここで「まあ、そんなことはいいじゃないっすか」と助け舟を出しそうになるが、理由は俺だって聞きたい。

「彼が忙しくて、すれ違ってしまって……。」

「あー忙しくてね。あるあるだよな」

 先輩は焼き鳥を食べ始める。わかるわーと頷く先輩はすでに結婚していて、結婚指輪だって嵌めている。

「……う、」

「前原さん?」

 先輩のジョッキをガッと前原さんは奪い取ると、ごくごく飲んでいく。

 まさかそんな行動に出るなんて思ってもいなくて、俺はワンテンポ反応が遅れてしまい、ジョッキを奪い取った時には既に半分、お酒がなくなっていた。

「あははっ!前原、荒れてんなぁ」

 先輩はケラケラと楽しそうに笑っている。

「前原さん、帰りましょう。流石に酔いすぎですよ!」

「えーんんーそうかなあ?」

 ふふ、と前原さんは笑っている。いつもの飲み会の前原さんは飲み過ぎた人を介抱する側なのに。明らかに今日はおかしい。彼氏と別れたダメージが大きいんだな。

「前原さん、車の代行、呼びますか?」

「ううん!いらないー」

「え?じゃあ、どうやって帰るんすか?あ、お母さんとかにお迎え頼みます?」

「ううん!秋呼ぶの!」

「秋?誰っすか?」

「別れた彼氏だよ」

「は?」

「電話しちゃおー」

 ニコニコ笑いながら前原さんはスマホをタップしていく。

別れた彼氏を呼ぶ?なんで?

 訳がわからなくなっている俺を横目に、先輩は更に笑って「面白くなりそうじゃん。呼んじゃえー」なんて言っている。

「前原さん!別れたんすよ!別れたんだから、電話なんてしないでしょ!」

 スマホを抑え込もうと手を伸ばすと、既に電話をかけている画面になっていた。前原さんはきょとん、としている。

 電話を切ろうとした刹那、『はい』と男の声が聞こえた。通話画面になっていた。

「あ!秋だー」

『菜乃花?どうした?』

 音量が大きいのか、落ち着いた男の声が俺のところまで聞こえてくる。

 秋という元彼が電話に出た時の前原さんの顔といったら。

「あのね、今ね、飲み会でね」

 ふわふわとした前原さんの声は俺や先輩と話す時よりもあどけない。顔を綻ばせて本当に嬉しそうに笑っている。

『——』

「ん?酔ってないよ」

 ふふっと笑う前原さん。相手の声は周りの笑い声で聞こえなかった。

「前原さん、貸して」

「え?杉本くん、え、やだ!返してよ!」

 スマホをするりと取り上げて、泣き出しそうな顔の前原さんを見ないように後ろを向いて耳に当てる。

「もしもし」

『はい……誰ですか?』

「前原さんの後輩の杉本といいます」

『ああ、貴方が』

「前原さん、酔って間違えてかけてしまったみたいで。切りますね」

『菜乃花に代わってください』

 冷たい声に苛立ってしまう。

もう別れただろ。ほっとけよ。

 視界に先輩の手が入ってくる。顔を上げると、いつの間にか隣に先輩がいて、「電話貸して」と俺からスマホを取って耳に当てた。

「どうも、前原の上司です。前原、だいぶ酔っていて、できれば迎えにきてくれませんか。場所は——」

 俺は先輩とアイコンタクトをして、ぶんぶん首を横に振るが、先輩は微笑むだけ。

 電話を切った後、先輩は俺の頭を強く撫でた。

「おっまえ、わかりやすいな」

「先輩!なんで元彼なんて呼ぶんすか!」

 ハハッと先輩は笑って、「そんなの面白そうだからに決まってんだろ」と言う。じとり、とした目を向けると、先輩は俺の背中を叩いて「まあまあ」とやっぱり笑った。

「でもまあ、前原があんなになるのなんて珍しいだろ。せっかくあいつが勇気出して電話したんだ。背中押してあげないとな」

「は?酔ってたからでしょ」

「お前はまだまだだな、可愛いやつめ!」

 先輩は俺の頭をまた強く撫でると前原さんの元へ戻っていった。

 俺も、もやもやした気持ちのまま前原さんのところに戻ると。

「秋が来てくれるって言ったんですか、先輩」

「うん、来るってよ。前原もかっわいいやつだな」

「……う、わ、私、どんな顔して会えば」

 ぽんぽん、と前原さんの頭を撫でて先輩は今にも泣き出してしまいそうな前原さんを宥めている。

 あんな顔……。別れたくせに。好きなの、丸わかりだ。

「おーそうだ、前原。俺の上着羽織っとけー」

「え?大丈夫ですよ、本当に。インナーだけが透けているだけなので!」

「まあまあ、羽織っとけって」

 よくわからない、という顔をしている前原さん。先輩が考えていることは、なんとなくわかる。

 俺は深く溜め息を吐き出して、後ろ髪をくしゃりと握る。苛ついてしまう。

「菜乃花!」

 暫くすると、スーツの男がやってきた。焦った顔をして、前原さんを見つけると安心してホッとしたような顔をする。

 前原さんに「秋」と呼ばれたその男は、色白ですらっとしていた。目鼻立ちがくっきりとしており、黒髪は綺麗にセットされている。スーツがしっくり似合い、大人の男という感じだ。

確か、こいつは前原さんの7つ上だと聞いた気がする。その所為だろうか、できる男の雰囲気をひしひしと感じてしまう。これは俺の先入観だ、と自分に言い聞かせるが「敵わない」とも思ってしまう自分がいる。

「瀬崎秋臣と申します。菜乃花を引き取りに来ました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

 こいつ、瀬崎秋臣っていうのか。だから前原さんは秋って。羨ましい……俺も名字じゃなくて下の名前で呼んでほしい。

 苛々は募っていくばかりだ。

「いえいえ!俺らも前原の彼氏さんに会ってみたかったので、むしろよかったですよ。な、杉本」

「……俺に振らないでくださいよ」

 先輩はニコニコとして俺に目を向けてくる。小さな声で答えると、瀬崎からやけに視線を感じた。

「……なんすか」

 そんなに見るなよ、と不機嫌が伝わるようにわざと低い声を出すと、瀬崎は「あ、いや」とすぐに目を逸らした。

「……秋、帰っちゃう?」

 前原さんが両手を広げて瀬崎がこちらへ来るように促している。可愛い声を出して、寂しそうに瞳を揺らしながら。

「菜乃花、こんなに酔って。帰るよ」

「帰っちゃうの?嫌だ。もっと一緒にいる」

「何言ってんの。一緒に帰るんだってば」

「一緒?本当に一緒?」

 瀬崎は前原さんの髪をゆっくりと撫で、優しい声で「一緒だよ」と愛おしそうに前原さんを見つめていた。

「すみません、この上着は」

「あ、俺のです。前原、ここに酒こぼしまして」

 瀬崎は先輩に上着を返すと、前原さんの透けたワイシャツに目を丸くしてから、こめかみを抑えて深く溜め息を吐き出した。

「菜乃花、立って。帰ろう」

「わっ、あ、秋!?」

 瀬崎は自分の上着を前原さんにかけると、半ば強制的に立ち上がらせ、前原さんの腰を支えたまま歩き出す。

「では、失礼します。ああ、菜乃花の会費は大丈夫ですか?」

「ええ、もう貰ってるんで。じゃあ、前原、お疲れ様!」

 先輩は前原さんに手を振った。前原さんは「お疲れ様です」と会釈をして瀬崎に身を任せていた。

 俺は居ても立っても居られなくなって、二人の後を追ってしまう。

 別れたのに、あんな、彼氏ヅラされて。

「あの!」

 居酒屋から出て、瀬崎と前原さんを呼び止める。

「杉本くん、どうしたの?」

 瀬崎は助手席に前原さんを乗せるところだった。瀬崎は俺の顔を見るとあからさまに鬱陶しいという目をしてすぐに前原さんへ向き直る。

「菜乃花、先に乗っていて」

「え、でも」

「いい子だから。ね?」

「……う、うん。杉本くん、お疲れ様」

 俺に小さく手を振って前原さんが助手席に乗ると、瀬崎が扉を閉めた。

「で?何か話があるのかな?」

 挑発的な目は、明らかに俺を敵視しているのが見て取れる。

 確かにこいつは大人の男だ。つまり、おじさんだ。若さなら負けてない。俺は瀬崎を睨みつけ、大きく息を吸った。

「前原さんとは別れたんすよね?それなら、どうして迎えになんて来るんだよ。未練っすか?情けないな」

「……はぁ、君みたいな奴に菜乃花をやるのは勿体無いな」

 瀬崎は溜め息を吐き出して腕を組むと車に寄りかかり、余裕のある笑みを浮かべて俺を見る。

「好きで仕方ないって顔してる。でも、それだけだ。青臭い餓鬼だな」

「く、口悪っ!」

 さっきの優男はどこにいったんだ!とつっこみたくなってしまう。なんだよ、こいつこそ前原さんのことが好きで堪らないって顔してるくせに。

「前原さんはもうお前の物じゃないんだ。口出すなよ!」

 俺の言葉を聞いた瀬崎は鼻で笑い、俺に近づく、と。

「物なんて随分嫌な言い方だな。菜乃花は誰の物でもない。強いて言うのなら菜乃花自身の物だ。これ以上、君と話しても仕方がないね」

 そう言って瀬崎は車に乗り込み、発進させた。俺の方なんて一瞬も見ずに。

「気に食わないヤローだ」

 俺は心底、あいつが嫌いだ。



***


S I D E 秋


 また溜め息を吐き出す。助手席の菜乃花は寝息をたてて窓に寄りかかり眠ってしまっていた。

 別れたはずの菜乃花が電話をかけてきたと思えば、甘ったるい声でひどく酔っていて。

 入っていた仕事をキャンセルして迎えに来てしまった。そうしたら、後輩くん、もとい、杉本には会うし、菜乃花はお酒をワイシャツにこぼして男の上着を羽織っているし。

「どこまで無防備なんだよ」

 安心した顔をして眠っている彼女にはもっと危機管理能力が必要だ。俺と会ってまもない時にだって眠りそうになっていたし、杉本との食事だってそうだ。

「はぁ……。」

 赤信号で車を止める。菜乃花の髪を撫で、耳にかけた。目が腫れている。

泣いたんだろうな。俺と付き合ってから、泣かせてばかりだった。我慢も……。

 菜乃花は我慢をしてしまう性格だから、早く離れなきゃいけないと思っていた。もっと早く離れるべきだったのに、俺が離れたくなくて、こんなにも別れを切り出すのが、別れるようにするのが、遅くなってしまった。

 忙しい俺よりも杉本のような会社員で土日が休みで、もっとそばにいてやれる男の方がいいに決まっている。

 離れがたくてどうしようもなくて、俺の心の弱さから「好きな人ができた」なんて嘘までついて。

 それなのに、いざ杉本を目の前にしたら渡したくないなんて独占欲が湧いてきて。本当にどうしようもない男だな、俺は。

「ん、んんっ……秋?」

 舌足らずに菜乃花が俺の名前を呼ぶ。

「起きた?今、菜乃花の家に向かってるから」

「……秋のお家じゃないの?」

 菜乃花が俺の左手に触れ、手を繋ぎたがる。俺は緩く、菜乃花と指を絡ませた。

「俺の家は駄目」

「どうして?秋のお家行きたい」

「菜乃花は次の恋に進まないと」

 俺だって本当はこのまま菜乃花を連れ去ってしまいたい。でも、どうしても俺とじゃなくて別の人と付き合った方が幸せだと思ってしまう。

 それなのに、いろんな男に嫉妬して、菜乃花のそばにいたい自分がいる。けれど、そんな感情は理性でどうにかしないといけないんだ。菜乃花の幸せを思うなら。

「じゃあ、秋の好きな人がどんな人か教えて。そしたら諦める」

「そんなの聞いてどうするの」

「諦める材料にするの」

「うーん、菜乃花、」

「駄目。最後の我が儘くらい聞いてよ!車停めて!」

 頬を膨らませる菜乃花。こうなったらどうしようもないんだよな、と俺はコンビニの駐車場に車を停めた。

「……う、」

 俺と恋人繋ぎしたまま、ぽろぽろと涙を流す菜乃花。本当に泣かせてばかりだな。

「……だめ?」

「ん?」

「……その人じゃなきゃ、だめ?」

 菜乃花が鼻水を啜る。菜乃花は自分の膝を見つめたまま、必死に声を出している。

「き、きっとね、私の方が、秋のこと好きだよ。それでも、だめ?わ、私じゃ、だめ?」

「……菜乃花、」

 菜乃花は羽織っている俺の上着を左手で握ると、そのまま背中を丸めて小さくなってしまう。

 好きな人をこんなにも苦しめていることが情けない。

 現状は変わらない。仕事は忙しいまま。この状況のまま菜乃花と付き合えば、菜乃花は寂しい思いをする。また泣かせてしまう。もしかしたら今以上に泣かせてしまうかもしれないし、今、俺と別れなければ良い人と出会うタイミングを逃してしまうかもしれない。

 それなのに。

「菜乃花、こっちおいで」

 俺は恋人繋ぎをした手をゆっくりと引っ張り、こちらへ引き寄せて、後頭部をゆっくりと撫でた。何度も、撫でた。

「あ、秋じゃなくてもね、男の人はいっぱい、いるよ。秋じゃなきゃ駄目なんてことは、ないの、きっと」

「うん、わかってる」

「だ、だけど、私は、秋がいいの。いっぱいいる人の中で、秋が、いいのっ」

「これからも寂しい思いをさせてしまうし、きっと泣かせてしまう。もっと他にいい人がいるよ、菜乃花」

「秋の、わからずや!嫌だよ。他の人が秋の彼女になるなんて!」

 菜乃花を少しだけ強く抱きしめた。間のサイドブレーキが邪魔で、満足に抱きしめられない。名残惜しい。できることなら、ずっと隣にいてほしいと思ってしまう。

「……菜乃花と別れたら、一生独身な気がするな」

「……え?」

「好きな人ができたなんて嘘だ。本当にごめん、菜乃花。そういう理由をつけないと俺自身が離れられなかったんだ。菜乃花のためには別れるのが一番だと思った。弱くてごめん」

菜乃花は俺のワイシャツに鼻水をつけて、きょとんとした顔をしている。俺は「ほら、鼻水」とティッシュを鼻に当てた。

「秋、ひどい」

「うん、本当だ。ごめんね」

「ひどい。そんな嘘、ひどい」

「菜乃花、ごめんね」

「……っ、わ、私の幸せは私が決める。別れる選択肢しかないって勝手に決めないでよ」

「……うん」

 俺は頷いて、ぽんぽんと菜乃花の頭を撫でた。

 それでも、考えてしまう。

「でも俺はやっぱり、他の人との方が幸せになれるって、この先も思ってしまうと思う」

 菜乃花は目に涙を溜めて、納得いかないというように眉間に皺を寄せた。

「秋は、本当はどうしたいの?」

 本当は。

 俺はずっと菜乃花の隣にいたい。でも、現実的に考えて仕事ばかりをしている俺が菜乃花を縛り付けてしまうのは駄目だ。

 仕事の方が大事なんてことはないけど、今は頑張りどきで休日を作るのが難しい。俺の能力不足だ。

「……っ、」

 菜乃花に好きだという権利が俺にはあるのか?彼女らしい扱いすらできない俺に。

「……秋?」

 菜乃花の目に溜まっていた涙がする、と落ちていく。菜乃花は俺を見上げ、不安そうに顔を強張らせていた。

「この忙しい状況がいつまで続くのか俺にもわからないんだ。有り難いことにいろんなところから仕事を頂いていて、できれば全部引き受けたい。だから、」

「本当は、別れたいってこと?」

 小さな菜乃花の声を聞いた途端、感情が一気に上がってくる。

「そ、」

 そんなことない!と、言ってしまいそうになった刹那、コンビニの自動ドアが開き、客の来訪を知らせる明るい音楽が耳に入ってきて、なんとか唇をグッと閉じた。

「……菜乃花の幸せを考えるのなら、別れるのが一番だと思う」

 仕事を優先したいと菜乃花に告げて、それでも付き合っていて欲しいなんて都合が良すぎる。

 これが後先考えない恋愛だったのなら、俺は何の迷いもなく菜乃花に好きだと伝えて、隣にいて、と抱き締めていただろう。

 でも、年齢が年齢だ。結婚だって考える。俺は菜乃花の結婚相手に相応しくない。これ以上、菜乃花の貴重な二十代の時間を奪うわけにはいかない。

「私が忙しくてもいいって言っても、秋は別れた方がいいって言うの?」

「……うん、ごめん」

「かえ、る」

「え?」

「降りる!」

「え、菜乃花!?」

 菜乃花は勢いよく車のドアを開けて降りようとしている。俺は咄嗟に菜乃花の手を引っ張った。

「酔ってるでしょ!送るって!」

「酔ってない!もう酔いなんて醒めてる!」

「危ないって!戻って!」

 菜乃花は俺の手から逃れようと必死で暴れている。車のドアが半開きになって、コンビニからちょうど出てきた若い男性たちがこちらを怪訝そうに伺っているのが雰囲気でわかった。

「菜乃花!」

 菜乃花の手を離して、もしあの若い男たちに菜乃花が声をかけられてしまったらと思うと余裕がなくなって、強く彼女の名前を呼んでしまった。

 びくり、と菜乃花は体を震わせて動きを止めた。ゆっくり振り返った菜乃花の顔は涙でいっぱいだった。髪の毛がいくつか頬に張り付いてしまっている。

 傷つけた。

 自分で感じて心の中で声に出したその言葉が、胸に鋭く突き刺さる。

 いや、今までだって何度も傷つけていた。それなのに、今やっと自覚した。俺は大切な人を傷つけた。これは未来のために必要な傷なのか?

 少なくとも「良い恋人」は彼女にこんな顔をさせないだろう。

 杉本なら——。

 あんな、あんな若さと勢いだけの、男に。

「……秋、そんな顔しないで」

 菜乃花が嗚咽をこぼしながら、恐る恐る俺の頬に手を近づけて、そっと撫でる。

 今、自分がどんな顔をしているのかわからない。でも、菜乃花は悲しそうに眉を下げている。

「秋も辛いんだね。ごめんね、私……。」

 菜乃花は俯いて、膝の上で自分の手をぎゅっと強く握っている。

「こんな顔で実家に帰れないから、今日は秋のところに泊まらせて?」

「……でも、」

「最後にするから。ね、お願い」

 へらり、と菜乃花は笑った。

 乱暴に手のひらで自分の涙を拭って、鼻を何度も啜っている。ハッとしたように半ドアを締め直すとシートベルトを締めた。

 俯いて静かになった菜乃花の表情は髪で見えない。

 ——最後。

「……わかった」

 俺は車を発進させた。

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