よっつ。不安、想う心

 彼女。と、心の中で呟く。

 土曜日。私が秋くんの彼女になったその日は車に乗っていても買い物をしていても、あの人の彼女になれたという事実が嬉しくて、けれど急に恥ずかしくなって、心の中はとても騒がしかった。

 それと同時に不安がずっと渦を巻いていた。私をいつ呑み込もうか好機を伺っているように。

《家に帰ったらちゃんと寝るんだよ。無理させちゃってごめん》

 秋くんからメッセージが入る。

《秋くんもだよ》と返したら《これから仕事だから、終わったら寝るよ。笑》と送られてきた。その8分後に《全然寝てないけど、そんなの気にならないくらい嬉しいから大丈夫》と追加で送られてきた。

「夜、電話できるかな」

 ぽつりと呟いて、今朝まで会っていたのにもう会いたくなっている自分がいることに気づく。

 今が一番楽しい時だ。大事にしたいな。

《夜、電話したいな。時間あるかな?》

《大丈夫だよ》夕方、秋くんから返信がきた。私も返信しようと文字を打ち込もうとした刹那、秋くんからの着信が入る。

「秋くん?お仕事お疲れ様」

「ありがとう。ちゃんと寝れた?」

 今朝ぶりの秋くんの声に自然と笑みが溢れた。

「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

「よかった。あのさ、菜乃花ちゃん、ちょっと提案があるんだけど、」

「うん?」

「名前、呼び捨てで呼んでもいいかな」

「全然大丈夫だよ」

 ふふっと笑ってしまった。なんだか中学生の初々しい会話をしているようで。

「じゃあ、私も呼び捨てで呼んでもいい?」

「勿論。なんでも好きなように呼んで」

 私は秋くんのことを「秋」と呼び捨てに、秋くんは私を「菜乃花」と呼び捨てにすることになった。

「菜乃花、おやすみ」

「あ、秋く……秋も、おやすみ」

 秋はぎこちない呼び方に、ふっと笑ってから「ちゃんと寝るんだよ」と念を押して電話を切った。

 私は幸せな気持ちで満たされていた。

だから朝起きて、コテで耳を火傷しても、

「……いっ、たっ」

 お風呂で足の毛の処理をしている最中、剃刀で肌を切ってしまった時も、

「……っ!」

 仰向けになりながらスマホを見ていたら眠くなってしまい、スマホが顔に落下して唇が内出血してしまった時も、

「……っ!い、っ、」

 ——私は変にのぼせていたわけで。

 いつもだったらもっと落ち込んでいるはずなのに、心へのダメージは皆無だった。特に出勤前のコテの火傷。いつもならそれだけで今日一日、上手くいかないように思えてしまうのに、その日は、ほわほわとしてずっと夢見心地だった。

「……不安とか言ってたくせに相当浮かれてるな、私」

 鏡で下唇の内出血を見つめながら人差し指で触れてみる。腫れているし、しばらくリップはつけないでおこう。

 秋の彼女じゃない私だったら唇がこんなふうになった時、「なんてついてないんだろう。どうして私はいつもこうなんだろう」と、明日も会社に行かなければならない怠さと共に思ったことだろう。

 だけど今は、気持ち全てが秋に向かっている。言わば、唇の傷なんて見ているようで見ていない。ピントが秋にだけ合っているような状態だった。

「……危ないかな」

 自分の部屋で傷薬を探していた手を止め、ぽつりと呟く。

 浮かれ過ぎている自覚はある。何かに足元を掬われてしまったら、どうしよう。

これが恋の魔法か。なんて浮かれた頭で思ったことは、やっぱり浮かれていた。

「菜乃花ちゃん、今週の金曜日、よかったら家に来る?夕方帰ってもいいし泊まりでも大丈夫なんだけど、どうかな?」

 仕事が終わり、帰ろうとしていたら秋から電話がかかってきた。

「え!行きたい!」

 口に出してハッとする。唇に触れて、「ああ……」と鏡の中の赤黒さを思い出して落胆した。

金曜日までには治るかな。少しは良くなるだろうけど、完治はしない気がする。

あの時の私、本当に馬鹿。やり直したい。

「秋、あのね、唇が……。」

「唇?」

 秋に怪我をしてしまったことを話すと「大丈夫?今度からは気をつけようね」と心配そうな声色で言われた。

 金曜日は泊まることになった。前日になっても私の唇は赤黒く、とてもお泊まりデートに行く彼女の唇には見えなかった。

「マンションの場所、わかりづらいから、近くの薬局の駐車場で待ち合わせしよっか」

 金曜日の会社終わり、秋から電話がかかってきて指示通りにナビで検索をした。

 駐車場に着いてからもう一度電話をかけると「着いた?」と聞かれた。

「うん。でも、秋の車どれだろ?私、道路に近い方に停めたんだけど」

「あ、ライトついてる車かな。俺、今発進させるね」

 その言葉の後、すぐにライトのついた車を見つけた。ノロノロと出口へ向かっていく車を見つめていると、中から秋が手を振っているのに気がつく。

 私は笑いながら秋の後ろに車でついて行った。

「ここ左ね。ゆっくり行こっか」

 電話を繋いだまま、助手席にスマホを置いてスピーカーにする。住宅街へ入っていくと、桜が何本も咲いている道に出た。もう少しで満開かなと思い、ということは今が丁度満開っていうことか、と思った。はらはらと花弁が落ちてくる。

空は夜になったばかりで淡く、水彩絵の具で描かれたように柔らかい。

街灯に桜が照らされて、その場所だけ時がゆっくり進んでいるかのように感じた。

「桜、綺麗だね」

「ね。こんな場所があるなんて知らなかった。普段こっち通らないんだ」

「え!そうなの?」

「わかりやすい道で案内しようと思って検索した道だから、実は俺もあんまり詳しくなくて」

 なんだか恥ずかしいね、と秋が笑う。

 今まで何度も思ったけど秋は優しい。私のことを考えて行動してくれる。嬉しいな。

 桜道を通り過ぎ、ゆっくり秋について行った。「あの白いアパート」と案内されたアパートは綺麗で、まだ年数が経っていないように見えた。駐車場に車を停め、秋に案内されるがまま中へと入って行く。秋の部屋は一階の角部屋だった。

「今日はラフな格好なんだね、初めて見た」

その言葉は車から降りた時に言おうとしたことだった。緊張に喉が震えてしまい、秋が部屋の鍵を開けた直後にやっと言えた、私からできた会話だった。

「仕事終わって着替えたんだ」

 秋は黒のTシャツにスキニーを履いて、髪もワックスをつけていないサラサラの状態だった。見たことのない秋にちょっとだけ緊張してしまう。やっぱりかっこいい。

「どうぞ?」

「お邪魔します」

 そろ、と家の中に入る。

中は広かった。しかも、きっちり整頓がされていて埃が見当たらない。

「菜乃花が来るから入念に掃除した」

「すごく綺麗」

「そう言ってもらえて良かった」

 秋は安心した表情でソファーに体を沈めると「おいで」と私に手招きをする。

 近づいた私を緩やかに引っ張ると、秋は私の唇にそっと触れた。

微かな痛みを感じて顔を顰めると、秋は熱を含んだ掠れた声で「……痛そ」と囁いて、「痛いよ」と言おうとした私の声ごと唇で塞いだ。

触れるだけのキスだけでは物足りなくて、けれど与えられる痛みがいつもよりキスの余韻を引き立て、溺れてしまいそうな感覚になり、急いで唇を離す。

「私ってドMなのかな。そうだったらどうしよう」

 もう一度キスをしようとした秋の腕を掴んで真剣に言うと、秋は動きを止めて笑った。

「そんな深刻そうな顔しないでよ、菜乃花」

 可笑しそうに笑う秋の肩が震えていて、そんなに笑わなくてもいいのに!と思うものの、私もつられて笑ってしまった。

「まあ、菜乃花がドMだったとしても、受け止める準備は万端ですよ?」

 私の顔を覗き込んで、艶やかな微笑を浮かべる秋。見惚れて声が出せなくなる。

顔を赤らめる私の眉間には皺が寄っているし、目だって、秋を直視できないな、なんて思っているから力が入って萎んでいるだろうし、とにかく酷い顔をしているであろうことは容易に想像できた。

 秋の手が私の後頭部へまわり、びくりと反応すると、困ったように微笑んで、ゆっくりと顔を近づける。秋は丁寧なキスをいくつも私に落とした。

扇情的な気持ちに浮かされ、何もかも忘れ去りたいのに現実にしがみついていたい矛盾した気持ちもあって、私は理性的な私を見失いたくなくて、必死に秋のシャツを握っていた。

「……菜乃花、会いたかった」

 唇が離れると、秋は私の肩に顔を埋め、きつく抱きしめた。

 会いたかった。その言葉には、会えない時間も私のことを考えていたという事実が含まれているわけで。それがたまらなく、嬉しかった。会いたいのは私だけじゃないことが、たまらなく。

「私も会いたかったよ、秋」

 秋に触れたくて、彼の髪に触れる。

私は頭を撫でられるのが好きだから、自分が嬉しいことを秋にもしてみる。秋も嬉しいかな、どうだろう。

「わっ!?あ、秋!?」

「ベッド、行くよ」

 秋は私の膝裏と背中に手をまわして抱き上げた。所謂、女子が憧れるお姫様抱っこで。

 母が「女の子はいくつになってもお姫様になりたいんだよ」と言っていたのをふと思い出す。

 自分はお姫様にはなれないのだと思い込んでいた。

 いつだって優しさに溢れ、歌だって歌えて、何より美貌を持っている彼女たち。

 私は、彼女たちのいるその舞台にすら立てないのだ。彼女たちを羨む意地悪なお姉様役にすらなれないほどに自己主張が弱く、きっとお城の舞踏会に行くのなんてもってのほか。だからこそ、誰かに私を見つけてほしかった。

 誰だって「選んで」ほしい。この人だけの特別になりたいと、そう思ってしまう。

 秋は、ゆっくりと私をベッドへ下ろしてくれた。

手を伸ばして秋の頬に触れる。見つめていると、秋の瞼がだんだん閉じられ、距離が近くなっていく。

余裕のない強いキス。必死に息を吸おうとする私の唇を秋が奪っていく。こうして何度も深いキスを交わすたびに、私のことを秋が全部、全部、わかってくれたらいいのに。

「……ごめん。優しく、するから」

 息を欲する私から体を離して、秋は自分を落ち着かせるように俯き、小さく息を吐き出した。

 優しくできないほど私に必死な秋が愛おしくて、抱きしめてもらおうと両手を伸ばすと、秋は余裕のない顔で「ん?」と囁いて、私の髪を撫でてから抱きしめてくれた。

 秋は私の手を握り、肌にそっと触れる。私は、彼から与えられる全てのものを感じていたくて目を瞑った。

 触れる指先、息遣い、熱っぽい目、唇から流れ出す言葉にできない感情たち。大好きな人のことを深く知りたくなってしまう。彼の唯一になりたいが故に——。



 朝、目が覚めて秋の胸にすり寄ると「おはよう」と柔らかい声が聞こえてきた。

「秋、起きてたの?」

「うん、菜乃花より先に目が覚めて」

「そっかあ」

秋の部屋は日当たりがよく、明るい光に包まれていた。裸に触れるシーツが気持ちいい。秋の熱と私の熱が混ざりあって温かい。

「ん、体、大丈夫?」

「うん、大丈夫。最後まで出来て良かった」

 布団が動く音、秋が私を緩く抱きしめる。

「菜乃花、ありがとう」

ぽんぽん、と秋が頭を撫でてくれた。「こちらこそ」と言って、今度は私が秋を抱きしめた。



 ずっと、付き合いたての幸せはいつまで続くんだっけな、と考えていた。けれど、その答えは案外すぐにわかってしまうことになる。

「……もう二週間も秋と会ってない」

 自分の部屋で俯きながら、スマホをベッドに投げて溜め息を吐き出す。

 秋と会える時間は少なかった。多くて一週間に一度、それも夜の10時から朝の7時頃まで。秋はそれ以外、ずっと仕事をしていた。

 秋は経営コンサルタント以外にも通販サイトの運営をしており、常に忙しかった。

 個人で事業をやっている彼氏とは、こんなにも会えないものなんだと初めて知った。

 秋が私の恋人になったあの日、彼が言っていたことを思い出す。

『その人の時に起きた問題とはまた別の問題が起こることだってあるかもしれないよ』

 普通にデートをして、普通にお泊まりをして、休日はずっと一緒で。そういう私にとっての「今までの」当たり前は、当たり前じゃなかった。

 恋愛においての楽しい時期は一瞬で終わりを告げたわけで。

《秋、今週は会えそう?》

《ごめん、今週も立て込んでいて難しそう》

 会える時間は楽しくて幸せだけれど、会えない時間の長い苦痛を一人でどうにかするのは大変だった。

 メッセージをやり取りする頻度も劇的に少なくなり、電話もほとんどできない。

 会える時間が少ない所為で、どこかに出かけたりなんて到底できそうにもなかった。

「今日、来る?夜ばかり呼んで本当ごめん」

 なんて急に電話がくることもたまにあった。私は「ううん、そんなこと」と首を横に振って夜遅く秋に会いに行った。

「そんなに忙しいの、秋さん。体とか心配だね」

「うん、そうなの。もう少し会いたいって思うけど、本当にずっと仕事してるみたいだから心配で」

 由紀ちゃんとの電話。奥の方で由紀ちゃんの彼氏である颯(はやて)くんの声がたまに聞こえてきたりして、いいなあと何度も思った。

「菜乃花は大丈夫なの?そんなに会えなくてストレス溜めてない?」

「寂しいけど、仕方ないよ」

 電話越しに笑ってみせると、由紀ちゃんは暗い声で「そうだよね」と言っただけだった。

 妹に彼氏ができたことを報告すると、

「そんなに忙しくて、しかも夜だけしか呼ばないって最低じゃない?こっちのことなめてるでしょ」

と、強い性格を遠慮なく前に出して、私の胸に突き刺さる言葉を口にした。その通りだと思っているからこそ強く突き刺さる。

「でも元彼と違って、ずっと穏やかだし優しいよ」

「だって全然会ってないんでしょ?それで優しくなかったら、もう終わってるよ。あたしならもっとイケメンでいろんなところに連れて行ってくれる優しい人を選ぶ。デートにも行けてないなんて信じられない。なんで別れないのか不思議だよ。そもそも経営コンサルって胡散臭くない?騙されてるんじゃないの?」

 はっきりとした口調で言われ、少しだけ目が熱くなった。

 私だって本当は秋と一緒に出かけたい。もっと会いたい。

 妹——紗良(さら)は私の二つ下で、誰にでも大きな声ではっきり物を言う子だ。友達だって私と違って多いし、誰とでも臆せず話ができる。

 姉妹でどうしてこうも違うのかわからないほどに正反対の性格をしているけれど、紗良は意地悪で私に言っているんじゃないことは、よくわかっている。だって私のことが大好きだから。

地方から出ない私とは違って、紗良は都会で一人暮らしをしている。だから、こっちに帰ってきた時は私と頻繁に出かけたがるし、話したがる。

 さっきの言葉だって私の幸せを思って言ってくれているんだ。それはよくわかっているけれど、今の私にはあまりにも強すぎる言葉だった。

『菜乃花ちゃんとなら、何処に行っても楽しいだろうな』

 伏し目がちに秋が言ったこと。私だって同じことを思っている。

《どうして、こんなに会えないの?》

 メッセージを送ってからひどく後悔した。仕事が忙しいのはわかっているのに、それでも会いたくなって、責めるような言い方をしてしまった。

 スマホがリンッと小さく鳴り、通知を知らせる。

《ごめん》

「……っ、だめ、泣かない」

 ベッドに仰向けになり、瞼に手の甲をくっつけて息を吐き出す。

 謝るだけ。次いつ会えるのかは言ってくれない。

 菜乃花、と私の名前を呼ぶ秋の柔らかい笑顔が彷彿する。

 ——でも、もしこのまま別れたら、思い出が少ないからダメージもきっと少ないはず。

 秋と別れたら、を考えてみる。秋はもう私の隣にいなくて、それで……。

 目を開けて、ぼんやり瞬きをする。夜はすっかり明けていた。いつの間にか眠っていた。気怠い体を起こして息を吐き出す。

「……なんで昨日、あんなこと思ったんだろ」

 呟いた後、丁度7時のアラームが鳴った。

《土曜日の夕方、時間あいてる?夕飯、一緒に食べよう》

 深夜に通知がきていた。

秋の文字を指先でなぞりながら、もう少し頑張ろうと自分を奮い立たせる。せっかく見つけた、久しぶりの恋。また人を好きになれたんだから。

《うん、大丈夫。私が夕飯作るよ》

《本当に?すごく嬉しい。じゃあ、スーパー一緒に行こうか》

 三週間ぶりの秋に会った時、胸が苦しくなった。秋はいつもと変わらなかった。私だけが不安でいっぱいみたいだった。情緒不安定だと思われるのが嫌で、気付かれないようにしなきゃ、と思った。

「買い出し行こうか」

 秋は眉を下げて私の頭を撫でた。なんだか上手く笑えない。もしかしたら、作り笑いだってバレたかな。

秋は助手席に私を乗せてスーパーに向かった。運転しながら私の右手に左手を絡ませる。私は緩く秋の手を握った。

……好きだから、嬉しくなってしまう。

自分の感情はよくわかる。好きで好きで、仕方がない。だからこそ、秋にも同じくらいの愛を求めてしまう。

秋がどれくらい私のことを好きでいてくれているかなんて、私にはわからない。だから行動や、表情や声や仕草でわからせてくれないと嫌だ。

——なんて、思ってしまう私は良い彼女じゃないんだろうな。でも、良い彼女ってどんな人のことをいうんだろう。

「今日は何を作ってくれるの?」

 赤信号で車が停止する。秋は驚くほどに安全運転だ。法定速度で急ブレーキなんて絶対に踏まない。

「バターチキンカレー作ろうと思ってるの」

「すごい楽しみ。何か手伝えることがあれば言ってね」

「うん、ありがとう」

 私はやっぱり上手く笑えなかった。でも、どうしようもなかった。

秋は時折、心配そうな顔をしながら気遣うように会話を続けてくれた。

 駐車場に着いて車から降りると、秋が「はい」と当たり前のように手を差し出してきた。手を伸ばすとそのまま恋人繋ぎをされて、私は横を歩く秋の肩に頭を擦り寄せた。

 秋の匂いを感じて、小さく息を吐き出す。

……言わなきゃ。

「秋、香水つけてるの?」

「うん?つけてないよ。柔軟剤の匂いかな?あ、それとも臭い!?」

「ううん、臭くないよ。そんなに慌てないで」

 秋と笑い合う。

 ——言わなきゃ。

不安は言わないと、増幅していくことをよく知っているじゃないか。

「ほら、先入りな?」

「ありがとう」

 買い物を終えて秋のアパートまで戻ってきた。秋は先に私を玄関に入れてくれた。靴を脱ぎ、秋から買った物を受け取ろうと手を伸ばす。けれど、秋は玄関の床にそれらを置いた。

「あ、私、冷蔵庫まで持って行っちゃうね」

「菜乃花」

 秋に呼ばれて動きを止める。秋は真っ直ぐに私を見つめていた。

 やっぱり秋は気づいていた。

「あ、秋……。」

 待って。まだ、心の準備ができてない。でもさっき言わなきゃ、って何度も思ったのに。でも、まだ怖い……逃げ出したい。

「菜乃花、おいで」

私を呼ぶ声は弱くて力なかった。

「……行け、ない」

 だって私が不安を言ってしまって、それでもし別れることになったら?

そんな彼氏なら別れて正解だ、っていう一般論はわかっているつもりだけれど、私は目の前のこの人を手放したくない。

 一歩、後ずさる。

 脳裏に、黒いシャツがちらつく。腕を強く引かれ、視界が真っ暗になったあの瞬間が、感覚が、這い上がってくる。耳の奥が痛くなる声が降りかかる恐怖。

『お前はいなくなったほうがいいんだよ』

 唇を噛んで俯いた。まただ。また、思い出してしまった。

 こんな私が、秋に会えなくて不安で、もっと会いたくて、同じくらいかそれ以上の愛を欲する私なんかが、この人の彼女でいていいの?それで秋は幸せなの?

「菜乃花、そんな顔しないで」

 秋の崩れてしまいそうな声に顔を上げる。

秋の顔には、なかった。眉間の深い皺も、鋭く嫌悪に満ちた瞳も、歪んだ唇も。ただただ私のことを心配している顔を見たら、息ができた。

「菜乃花、一回、抱きしめさせて」

 私の返答を待たず、秋は玄関の段差分、低いまま私を抱きしめた。ぽす、と秋の肩のあたりに顔がぶつかる。

 秋はたまに私を強く抱きしめる。でも今日のは全然力が入っていなくて、秋は恐る恐る私を抱きしめていた。

 ……足りない。

秋の背中に手を回すと、やっと、ちゃんと抱きしめてくれた。

「何か俺に話がある?」

「……っ、」

 言える?と、秋がぽんぽん背中をさすって促してくれる。けれど、声は掠れて音にもならなかった。何を言おうとしたのか、私自身もわからない。

 う、と、小さく声を出して、思わず秋の肩に顔をぐりぐり、うずめた。

 私達、上手くいかないんじゃないのかな。

 だって私が、秋と会えない寂しさにもう負けてるもん。

 本当はもっと会いたいし、もっと愛してほしい。

 別れたほうがお互いのためなのかな。だってこのままだと私がだめになっちゃいそうだよ。

「……あ、きっ」

「……ん?」

 絞り出した声を、秋が掬い取ってくれる。

 何をどう伝えたらいいのか、わからない。

「別れ、たくない……。」

 情けない声が秋に届いた瞬間、秋は私を勢いよく引き離して目を丸くした。

「俺から別れ話をするわけないでしょ?菜乃花」

 ポロッと溜めていた涙が片目から落ちていく。泣きたくなかったのに、泣いてしまった。

「っ、菜乃花、ごめん、泣かないで」

 秋が慌てて私を引き寄せ、頭を撫で始める。鼻水が垂れてしまいそうで、何度も鼻をすすった。

「本当はもっと会いたい。なのに、会えない」

「うん、ごめん。仕事ばかりで」

 秋は一生懸命、私を慰めてくれたけれど「菜乃花との時間を作るから」とは言ってくれなかった。私と仕事どっちが大事?なんてことは聞かない。どっちも大事にしたいことはよくわかっているから。でも、その言葉を欲してしまう。私は秋の時間が欲しい。

「今は正直、仕事を頑張りたいんだ。我慢してもらってばかりで本当にごめん。俺の身勝手なんだよ、菜乃花。ごめん」

 秋は苦しそうな顔をして、私に何度も謝った。

「……ティッシュ、ほしい」

 鼻をすすって秋から体を離し、小さく声を出す。秋は慌てた様子で「ちょっと待ってね」と廊下を走って行った。

私はその場に座り込んで、ぼうっとしてしまった。

 結局は私が我慢しないと駄目なんだ。仕事が忙しい人を好きになってしまったのだから仕方がない。別れたくないのなら、会えなくても大丈夫な女にならないといけない。それができないのなら別れるしかないんだと思う。

 会えないことが辛くて寂しい私の不安が取り除かれることはない。現状は変わらないからだ。自分の気持ちをどうにかして変えて、秋に「私は大丈夫だから」と言えるような心持ちでいないといけない。「仕事が忙しいこと」は解決ができないから、私が私自身をどうにかしないといけないんだ。

「はい」

 ティッシュ箱ごと玄関まで持ってきて、秋は一枚ティッシュを出して私に渡した。それをすぐに使い切るともう一枚くれる。

 秋は鼻をかみおわった私のティッシュを全部受け取ると、「大丈夫?」と心配そうな顔をして私の髪を撫でる。

「……ご飯、」

 ずっ、と鼻を啜る。

「ん?」

「ご飯、作る」

「作れる?無理しなくても」

 秋の声がひどく優しい。

「……作る」

 大丈夫?と、秋はまた私の頭を撫でて、そのまま頬に触れた。

 私の不安は、忙しくない秋が存在しなければ、きっと消えない。

「うん、大丈夫。食材、キッチンに持っていくね」

「あ、持っていくから」

 秋は立ち上がってレジ袋を掴もうとした。

 私は秋の裾を掴んで、「ん」と小さく声を出す。

 もっと会いたいという素直な気持ちを口にしても、秋は申し訳ない気持ちになって謝ってくる。謝ってほしいわけじゃない。だから、会えている時はせめてできるだけ、時間いっぱい甘えていたい。そう思った。

「ん?どうしたの」

「ん」

 床に座ったまま手を伸ばすと、秋は腰を屈めてお好きにどうぞ、と体を差し出してくる。

「違うよ。抱きしめて」

「え?あ、っ、そういう」

 何かの小説に「終わりがあるからこそ燃え上がるような恋ができたのかもしれない」と書いてあった、気がする。

 秋は私をふわりと抱きしめた。

 レジ袋から「食後に」と買ってきたオレンジがバランスを失ったのか、床に転がっていくのを見て、私は思わず秋の肩に顔を埋めた。

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