とおるくんは眠り姫

千羽稲穂

とおるくんは眠り姫


 わたしの好きなもの。お母さんが編んでくれた三つ編み。フリルのスカート。ふんわりと香るお菓子の砂糖の甘さ。自転車のからんからと回る歯車の音。学校の溶けるくらい白い壁。誰もいない道。横断歩道の白い線。白線だけを飛び越える、着地音。普段着ている服とは違う制服の着心地。昇降口のすみきった朝の匂い。教室のがらんとした空気。理科室の独特な凍てついた雰囲気。

 そこで眠る、とおるくん。

 理科室にはイスが机の上にずらりと並んでいる。その中でたった二つだけおろしてあって、とおるくんはイスを二つ並べてその上で寝そべっていた。寝息も聞こえない。寝返りもうたない。とおるくんは死んでいるみたいに、眠りこけていた。

 わたしがここにとおるくんがいるのを知ったのは、秋の初め頃。まだ朝が明るかった。わたしはいつも通り朝早くに登校したら、教室に黒いランドセルが置いてあるのを見つけた。そこはとおるくんの席。でも、とおるくんの姿はなく、自分の好奇心に勝てず学校中を探し回ったのだ。さすがに男の子のトイレには入るのは無理だったけれど。各教室、図書室、家庭科室、ありとあらゆるところを探し、見つけたのは理科室だった。

 いつも理科室に入るのは怖かった。人体模型に、わたしには使えない液体が並んでいて、薬品の匂いが鼻をつく。独特な空気に、やられてもしかしてここに居続けていると、わたしの体に悪いんじゃないかと思えてくる。でもイスが二個下げられているのを見て、ここしかないと思った。

 そのとおり、とおるくんはイスを二個並べて眠っていた。

 今日もまたとおるくんは朝早くきて、理科室で眠っている。

 冬の凍てつく空気を吸い込んで。カーテンの端から覗く外は暗く、東の淵に朝が焼けつくような日差しをここぞとばかりに理科室に手を伸ばしてくる。とおるくんの頬に焦げ付く日差しが撫でている。

「おはよ、とおるくん」

 わたしが机の上にランドセルを置きながら言っても、とおるくんはぴくりとも動かない。瞼は固く閉ざされている。

 とおるくんの肌は淡く白く光っていて、冬の空気をため込んでいるみたい。このまま冬眠して春まで目が覚めないのかもしれない。唇はまっさおで血の気がなく、ぽっかりと口が開かれ白い形の良い歯が粒粒と並んでいる。瞼は固く閉め切っていて、天国の門くらい開かれない。髪は秋から切っていないのかちょっぴり長くなっている。髪先が朝の橙の粒を灯して、一点一点光っている。

 わたしがこうして眺めていることなんてとおるくんは知らないんだろうな。


 普段のとおるくんは、誰かとしゃべっていてもそっけない笑いをする男の子。体育の授業のマラソンではいつだって最後に走りきる。わたしは女子と男子両方で走っているのに女子よりも遅いとおるくんを冷たい目で追っていた。

 なにしてるんだか、とおるくん。

 授業中のとおるくんは、教科書を立てて舟漕ぎをしているし。はっと目を覚ましたら、背筋を伸ばすんだけど、すぐに猫背ぎみになっていく。曲がった背中を見て、わたしは後ろの席から眠ってるな、と勘づく。そして起こしもせずに、机だけ後ろに引く。先生は気づくときもあれば気づかないときもある。気づいたときは、ぱんぱんと手をとおるくんのそばで叩いてあげる。とおるくんは、首をあげて「えへへ」と情けなく笑うんだ。

「ちゃんと聞いてなきゃいけないよ」

 わたしはとおるくんから後ろにプリントを手渡されたとき耳打ちしてあげた。

「眠くってつい」

 照れたように笑うとおるくんは、またにへらぁ、とほどけた笑いを見せる。

 恥ずかしくないんだろうか。

 でも、昼のとおるくんはちゃんと先生が手を叩くと起きるんだよね。

 とおるくんは、とてもとても情けない。

 給食の配膳をしていると、わたしがお味噌汁をついだそばから受け取ることを忘れて、お茶わんを床に落としてしまうし。結局わたしと一緒になって床をふくことになってしまった。同じ班員だから、雑巾を持って給食食べる前にとおるくんとふくことになるなんて思ってもみなかった。みんなが見ている中でみじめに床をふくと、とおるくんは「ぼくのせいでごめん」と謝ってくる。

「あみちゃんのせいじゃないのに」

 そうだよ、と言いたくなるけど、それじゃあわたしがよけいみじめになっちゃうから、

「これくらいどうってことないよ。でも今度はぼーっとしてないでお茶碗ちゃんと受け取ってね」

 二人一緒におみそしるをふいて、お茶わんを洗ってあげてついであげた。

 掃除の時間は雑巾と箒で遊ぶ男の子が多い中、とおるくんはぼーっとしていることが多かった。わたしは、とおるくんや他の男の子に「ちゃんと掃除しなよ」とトゲトゲした言葉を向けてしまう。掃除は一向に進まない。そうこうしていると、他の女子たちから、「いつもあみちゃん、とおるくんに怒ってるよね」と言われてしまう。

「とおるくんばっかり怒ってるんじゃないよ。それにいっつも、とおるくんぼーっとしてるんだもの」

 言い訳かもしれないけれど。


 早朝のとおるくんを眺めることはわたしにとっての大切なことの一つになっていた。とおるくんはわたしが何をしても気づかない。

「おはよ、とおるくん」

 挨拶をしても。

 ランドセルから宿題を取り出して漢字ドリルをしても。

 先生がやったようにぱんぱん、と手を叩いても。

 とおるくんの瞼は開かない。いっさい動かないとおるくんが面白くて、ついつい眺めてしまう。カーテンを開けて夜みたいな朝の空気を取り込むと、理科室の電灯が白く降りかかる。ためしに人体実験みたいに、とおるくんをオペしてもいいかもしれない。両手を上げて、「メス」と看護師さんに手をだす真似をする。くすくす笑っていると、ついつい魔が差してしまう。

 本当に死んでいるみたいで。

 死んでいるのなら、何してもわからないよね。

 このあいだ、おみそ汁を一緒にふいてあげたんだし。

 ひょろりと長くて、肉付きもそこそこのとおるくん。制服のズボンは短くて、足首がでていた。生気がなくて陶器みたいにすべすべしている。そんなとぼけたようなとおるくんの寝顔に、ひと差し指で。

 つんつん。

 つついてしまう。

 とおるくんの頬はめっぽう硬くて宝石みたいだった。

 なんの変化も見せないとおるくんに、今度は両手で頬を。

 ふみふみ。

 つまみあげる。

 横に引っ張ったり、縦にしたり。

 言いなりになっているとおるくんを見て、オペ室でもなく、宝石でもなく、わたしだけの人形のように感じてしまう。つまんだ感触はぬいぐるみよりも弾力があり固いけれど、マシュマロのようにとろけそうなほど柔らかかった。手を離すと、とおるくんの頬はまっかに腫れた。

 わたしは、面白くって三つ編みをはためかせて、その場でくるくる踊るように笑った。

 視界に入った窓の向こうの夜明けにいったん立ち止まって、ふふっと息を吐く。理科室の薬品まじりの空気を吸って、眠っているとおるくんに向き直る。なぜか高揚感でいっぱいで、目の前のとおるくんに、どきどきして収まらなくなる。

 とおるくんのまつ毛が長くてきらきらと輝いているし、頬はまっかに色づいている。ぴくりとも動かないそれはまっさらなシーツの上にくるまる、尊い魂のよう。夜明けの日差しで祈りを捧げたくなるほど火照っていた。

「わたしの好きなもの」

 とおるくんの横顔に明け方の日が撫でた。

「お母さんが編んでくれた三つ編み」

 長い三つ編み一つ一つの網目をなぞっていく。

「フリルのスカート」

 三つ編みを払いのけてスカートのしわを伸ばす。

「ふんわりと香るお菓子の砂糖の甘さ」

 すっと背を伸ばす。

「自転車のからんからと回る歯車の音」

 うわばきできゅっきゅっと歩いていく。

「学校の溶けるくらい白い壁」

 理科室の壁をさらりと触れて、

「誰もいない道」

 とおるくんの前まで歩いて、

「横断歩道の白い線。白線だけを飛び越える、着地音」

 とおるくんの顔を覗き込む。

「普段着ている服とは違う制服の着心地」

 背が伸びてきたとおるくんに想いをはせる。

「昇降口のすみきった朝の匂い」

 一緒におみそ汁をふいたこと。

「教室のがらんとした空気」

 ぼーっとしているとおるくん。

「理科室の独特な凍てついた雰囲気」

 女子よりも走りが遅くって。

 授業中も寝ていて。

 情けなく笑うとおるくん。

 そんなとおるくんが、今まさにここで死体のように寝ている。

 遠くからお日様が眠っているとおるくんをまぶしさでくらくらするくらい照らした。

 わたしは瞬きして、

 一呼吸置いて、


「ここで眠る、とおるくん」


 どうせ聞いていない。

 わたしだけの秘密だ。

 わたしは自分の胸をなでて、どきどきを落ち着けた。

 ランドセルに宿題を戻し、ランドセルを閉めた。洗濯したばかりの給食頭巾一式はいった給食袋をランドセルの横っちょにあるフックにかけて、うんしょっとしょいこんだ。理科室をいつも通りに後にする。建付けの悪い扉をがらがらと横に引いて、教室に戻った。


 今日の掃除当番は私たちの班が水拭きをする番だった。わたしはぼーっとしているとおるくんを急かして、水バケツを運んでいた。相も変わらずとおるくんは、ふらふらしていて、寝ぼけ眼になっている。わたしはそんなとおるくんを見上げて、「ちゃんと歩こ」と注意する。

「ごめんごめん、最近、寝ても寝ても寝たりなくて」

 ぼさぼさ頭のとおるくんは、またにへらぁと笑っていた。

「僕どうしちゃったんだろう。足がむず痒いんだよなあ」

「それ、セイチョウツウっていうんだよ」

 わたしは、とおるくんに知ったかぶる。

「あみちゃんって物知りだよね」

「そんなわけない」

 知らないことの方が多すぎて、あのときとおるくんに対してどきどきした意味とか、いまだに分からない。

 わたしは教室の扉を、考えごとをしながら開けた。

 と、途端にわたしに向けて超特急で雑巾ボールが迫ってきた。

 よけなきゃ。

 後ろに一歩引く。

 どん。

 背後のとおるくんにぶつかる。

 とおるくんは驚いてバケツを放り投げてしまう。

 宙に浮くバケツ。

 中から大量の水。

 わたしの頭にすっぽり収まるまで、あと何秒?

 考えるまでもなく、わたしは頭の先から水をかぶってしまった。

「あみちゃん、ごめん」

 とおるくんの声がバケツ越しに伝わってくる。

 わたしは泣きそうになりながら、バケツを頭からとって、叩きつけた。視界の先には、掃除中に遊んでいる男子たちの姿。今すぐ殺したくなるのを押さえて「ちゃんと掃除しなよ」と大声でののしり、とおるくんも何もかも押しのけて走り出した。廊下を抜けて、理科室へ駆け込みひっくひっくと嗚咽もらして縮こまっているとこで騒ぎを聞きつけた保健室の先生に無事捕獲された。


 保健室でわたしは三つ編みをほどいて、体操服に着替えていた。泣きはらした瞼は重く、まだ頬は火照っていた。せっかくお母さんに編んでもらった三つ編みは、水でぬれた髪をかわかすためにほどくしかなかった。

 保健室の先生はいつまでもいていいからね、と声をかけてでていってしまったし、わたしは一人でベッドにくるまり、さきほどの出来事を思い出して泣いていた。

 何度となくとおるくんの声が聞こえた。

 ──あみちゃん、ごめん。

「ごめんっていうならバケツから手を離すなよぉ」

「ほんと、そうだよな」

 ベッドの脇にとおるくんが座っていた。

「代わりに僕が三つ編み直すよ」

「とおるくんにできるの?」

「できる」

 わたしは長い髪をとおるくんに向けた。とおるくんは慣れた手つきで髪に手を通し、二つに分けた。一方の髪をよけながら、一つ一つ丁寧に編みこんでいく。網目が一つできるごとに、下へ下へ伝い、滑らかな三つ編みが完成した。お母さんよりもきつく結っているわけではなく、やんわりと優しく。

「僕さ、妹がいるんだ。いつも三つ編みしてって言われるんだ。だから三つ編みだけは得意」と、照れくさそうにするとおるくん。

 もう一方の三つ編みも結っていくと、完成品をきれいに撫でていき「百点満点」と朗らかに点数を付けた。

 わたしもとおるくんの三つ編みに手をつけると、「うん、千点満点」とお返しに点数をあげる。

「ありがと」

「ごめん」

 お互い頭を下げてるのが、おかしくて。

 とおるくんってやっぱり情けないよなって改めて思う。

「大切な三つ編みを、こう、その……ほんと、ごめん」

「もう別にいいよ」

 と、笑ったはいいものの、わたしはどこかつっかえるところがあり、頭をひねってしまった。

「あれ? とおるくんに、三つ編みが大切だなんて言ったっけ」

 あ、ととおるくんが口を開けて、しどろもどろになる。口をもごもごと動かして、立ち上がってしまう。そろそろと足を忍び足抜き足にして、わたしから去ろうとする。わたしは、すかさずとおるくんの手をとった。冷や汗まみれのとおるくんの手と、徐々に赤くなるわたしの手が重なった。

「わたしの好きなもの」

 澄んだわたしの声が、胸のどきどきに紛れて消えていく。

「お母さんが編んでくれた三つ編み」

 とおるくんがそれを言ったとき、

 わたしの顔はかっと熱くなった。

 思わず手を放してしまい、とおるくんはそそくさと保健室を抜け出す。

 呆けるわたしの胸のどきどきは痛みを通りこして、むくむくと体から熱を発散させる。きっとこれはセイチョウツウ。セイチョウツウなんだ。

 わたしはとおるくんが編んでくれた三つ編みを、そうしてそっと好きなものに入れる。


 わたしの好きなもの。お母さんが編んでくれた三つ編み。フリルのスカート。ふんわりと香るお菓子の砂糖の甘さ。自転車のからんからと回る歯車の音。学校の溶けるくらい白い壁。誰もいない道。横断歩道の白い線。白線だけを飛び越える、着地音。普段着ている服とは違う制服の着心地。昇降口のすみきった朝の匂い。教室のがらんとした空気。理科室の独特な凍てついた雰囲気。そこで眠る、とおるくん。

 とおるくんが編んでくれた、三つ編み。

 早朝の理科室にランドセルを置いて、今日も寝ているとおるくんに顔をよせる。

「おはよ、とおるくん」

 寝ているとおるくんは神秘的で死体みたいに微動だにしない。わたしはとおるくんの頬をつまんで、つついて。

 そして、

 耳打ちする。

「本当は起きてるんでしょ」

 とおるくんの瞼がぴくっと動いた。

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