第19話

――青空が広がっていた。

 待ち合わせは、前回と同じ一流ホテルではなく、整体院の近所にある公園だった。

 男の子が、小さな四肢を動かしてジャングルジムによじ登っていた。まだそんな小さな手足では、きっとてっぺんまでは登れないだろう。

 その様子を、男の子の母親が見守っている。

 その母親の丸顔に、母のサツキの顔を重ねていた時だった。待たせたな、と声がかかると同時に、背中を叩かれた。

 三浦だった。きっちりと時間通りだった。よお、そう言って、由樹の座っているベンチの横に座った。

「大変だったな。もう怪我はいいのか?」

 三浦は、由樹の包帯を巻いた左の手を見ながら聞いてきた。由樹は手を振った。

「見かけは派手ですけど、軽い火傷です。痕も残りませんよ」

「ヨシ坊、昼飯は喰ったか?」

「もう二時ですよ。とっくに食べました。冷蔵庫の余りで作った焼き飯と味噌汁」

 由樹は、いまだに整体院に寝泊まりしている。しかし、整体院の水屋を借りて、今の食生活はコンビニ食から自炊になった。ずっと昔、父と母が新婚だった頃、祖母の雪代が、料理が苦手な若い嫁のためにと、教材用として料理ノートを書いていた。そのノートを見ながら作っている。

 診察室のベッドだが、今はちゃんと布団を敷いて寝ている。疲れも取れるようになった。

「スイートじゃないけど、人の生活に戻りました。安心して下さい」

 由樹の言葉に、三浦が笑う。

 スーツではなく、セーターとジャケット、ジーンズというラフな格好だった。昔、家にやって来たときの服装だった。

「周囲は、落ち着いたか? マスコミ対応とか、大変だっただろ」

「弁護士さんや、警察の方が随分骨を折ってくれましたし、報道する側から見ても、事件の内容や種類から、世間に見せびらかすべき事件じゃないと判断されたようです」

 少女が犯した人知を超えた猟奇事件は、被疑者死亡というシャッターによって真実から遮断された。何を書いても調べても、憶測の域を出ずに、真相は闇の中だ。

 恐らく、一生光は当たらない。

 聖光女子学院の二人の女子生徒の行方不明捜索はまだ、続いている。しかし、碧が起こした二つの殺人事件は『被疑者死亡』これで捜査は強制終了された。

「……被疑者の妹にも、まだこれからの人生がありますから」

「その子は、これからどうするんだ?」

 由樹は空を見上げた。

「アメリカのお父さんと、連絡がつきました。ついこの間、十数年ぶりに再会出来て」

「そうか」

「……何回か、会って挨拶したけど……優しそうな人です」

 小野木和夫を思い浮べる。姉妹の母と離婚し、そのままアメリカへ渡って音信不通だった藍の父親。

 事件のことを知り、日本に帰国した。酷いほど後悔していた。姉妹を母親と義理の親に任せ、父親としての責任を捨てた自分を責め抜いていた。

「湖川を、アメリカに連れて行くそうです」

 離婚して、渡米していた藍の父親は、再婚してニューヨークに住んでいた。

 今後、藍は新しい家族と暮らすという。

 今夜、藍はニューヨークに発つ。もう、日本には帰ってこないだろう。

「……それでいい、と思います」

 言葉に、本心と嘘が入り交じった。それが良いと理性では分かっている。感情はイヤだと訴える。

今回の事件で、藍は精神共に切り刻まれている。彼女も家族を失った。そして、世間に味方はいない。

 藍の場所も、いるべき理由も、日本に何一つ残っていない。

あるとすれば、世間の好奇にさらされる日々と、生きづらさだけだ。

 自分には、そこまで藍を守ってやれるだけの力はないと分かっていた。自分自身、今は世間の好奇から守られている立場なのだ。

 病室で、ぼんやりと外を見つめていた藍を思いだす。あの虚ろな眼を。

 いまだに、耳に残っているあの夜の藍の声。

――あの家にずっといたかった……

 由樹は三浦を見た。

「お借りした、銃なんですが……」

 あの廃病院で、どこかに置き去りにしてしまった。

 あの廃病院も今は全焼、黒い廃墟だ。

「ああ、返してもらわなくても要らないよ。どうだ? よく出来たモデルガンだっただろ? 装填していたのもゴム弾だ。当たったら、ちと痛いけどな」

 三浦ののほほんとした返事に、由樹は嘆息した。

 思えば、そのおかげで助かったのだ。

 ゴム弾でなかったら、碧に両足を撃ちぬかれ、嬲り殺されていたに違いない。

 そして、藍も死んでいた。

 三浦が人の悪い笑いを一瞬浮かべたが、それはすぐ消えた。

「これで、気が済んだか?」

「……」

「お前の気が狂おうとも、泣こうが喚こうが、俺はお前に人を殺して欲しくなかった。復讐なんて、麻薬にはなっても薬にはならんよ」

「……そうですね」

 あの夜を思い出す。復讐という暗い興奮が冷めた瞬間に訪れた、深い喪失感。

 碧が、あの女が死んだ。家族もいない。

 憎いものも愛するものも消えて、何も残っていない風景には孤独だけがあった。

 寂しいんだと、藍に訴えた。みっともないほどに。

「お前には、まだ人生が残されている。つまらんこと考えるな、時間は有意義に、笑う事で使え」

 何だか、両親と祖母の言葉を代弁されている気がする。素直に受け止めておこう。

 そして、三浦にはまだ感謝すべきことがあった。

「叔父のことですが、スペインにまであれこれ手を回してくれて、有難うございます。明後日、帰国できるそうです」

 母の実弟が帰ってくれば、やっと皆の葬式が出せる。

 それにしても、この父の友人は、一体どこまで商売の手を伸ばしているんだろうか。

「まあ、スペインにも付き合いのある同業者がいて、そいつが良い弁護士や警察にもコネを持っていてな」

「葬式には、必ず来てください。父さんたちも、三浦さんに会いたがっていますよ。それから、叔父には三浦さんの前で土下座させます」

「秀平とも、昔はよく喧嘩したなあ」

「それ、葬式でやってください。三人が怒って出てきてくれるかもしれない」

 父の友人だった時の顔で、三浦が笑い、由樹の頭をかき交ぜた。

父の小さな息子だった頃に、束の間だけ時間が戻った。


 今まで、学園の修学旅行や家族旅行で何度も利用している国際線の空港の風景は、初めてでもなかった。

 だが、これで日本も最後と思うと、藍には風景が乾いて見えた。

 最終便で、ニューヨークに経つ。もう、日本には帰ってこないだろう。

 カウンターで搭乗手続きを済ませた後、父の小野木和夫が、藍の肩に手をかけた。

「まだ、少し時間はあるよ。何か飲みたいか?」

「ううん、のどは乾いていないし」

「……少し、店でも見て来いよ。何か欲しいものが見つかるかもしれない」

 痛いほど、自分に気を使っているのが分かる。藍は父を見た。

 静かな笑みを父は浮かべた。

「家族で、新年を迎えよう。きっと皆と気が合うよ。ジェーンもミリーも藍を待っている」

 父の記憶は、ほとんど影法師のようで残っていないはずだった。しかし、病室で再会した瞬間に、和夫の顔が影法師にとって変わった。記憶の奥底に父があった。

 父が、由樹のことに気を使っているのは分かっている。

 由樹は、毎日、病室に来てくれていた。

 お互い、話すべき言葉が多すぎて、どれを選んで良いのか分からずに、空虚さだけを共有して、沈黙のまま、ずっと一緒に窓の外を見ていたこと。

 一度捨てた命を拾ってくれたのは、由樹だ。

そして人であることを守ってくれたのは、あの一家。あの日々の思い出があれば、人でいることを忘れないだろう。

 あの人たちと、同じ世界で生きることを決意した。それが出来なかった姉の代わりに、そして速水家の人たちのためにも、生き抜いて見せる。

 藍は右の薬指を見つめた。

 出国手続きへ向かう人が、増えてきた。時間が迫ってくる。

 父と娘は、ゲートへ向かおうとした。その時、声が飛び込んだ。

「湖川!」

 由樹がやってくる。藍は固まった。父を見る。父が頷いた。

「……速水くん……」

 目の前にいる由樹へ、藍は口を開き、閉じた。全ての気持ちを、口にすれば白々しいものに思えた。心の中には、色々なものが詰め込まれて痛いほどだった。

 だけど、由樹には何も望んではいけない。

 感謝の言葉で、藍は由樹への気持ちを押し殺し、そのまま締めくくろうとした。

 その時だった。

「俺と結婚しないか?」

 突然だった。反応が出来ない藍へ、由樹が続ける。

「だって、あの時言ったろ? あの家にずっといたかったって」

「……」

「俺と結婚したら、俺の父さんと母さん、ばあちゃんと同じ墓に入れるぜ。いい案だと思わないか?」

「……」

「俺がそうしたくて、そう言ってるんだ。四の五の言うな。湖川が俺を嫌いだと言うならとにかく、それ以外の理由は認めない」

 とんでもない提案に、熱さがこみ上げる。望んではいけない幸せに、藍は頭を横に振ろうとしたが、泣きながら笑っていた。

 由樹の腕の中に抱きとめられ、笑いながら泣いていた。

「……もう、私、湖川じゃなくなるの」

 もう、母型の姓ではなく、父の姓になる。藍は由樹を見上げた。

「だから、これから藍って呼んで」

「よし、遠距離恋愛決まり!」

 由樹の声が弾けた。

「下手したら俺たち、あの世とこの世で別れていたんだ。それに比べりゃ、ニューヨークなんて隣も同然じゃん。近い近い」

 由樹の胸にしがみついた。由樹の腕が回る。

 ようやくお互いに唇と腕を放して、藍は由樹を見上げた。

 報告したいことがあった。お父さんの家族に、女の子がいると。

「……私、お姉ちゃんになるんだって」

 泣き笑う藍の目元を、由樹の指が拭った。



 世間で起きる事件の新陳代謝は早い。

『住宅地主婦串刺し事件』『整体院一家惨殺事件』この事件も処理が終わり、記憶を薄める時間の水が流れ始めた。

 由樹は、叔父の秀平と一緒に住むことになった。

無事に葬式も済ませた後、叔父は今後、日本に定住することを表明し、その証明にとマンションを購入した。

 由樹は、そのマンションから学校に通っている。

 秀平は画家という職業だけあって、浮世離れして困った相手だったが、母のサツキの弟だけあって由樹と気が合うらしい。一緒に暮らすには良い相手だとある。

 春に、秀平はニューヨークで個展をする話が来ているらしい。

 絶対にその話を受けろと、由樹は秀平に迫っている。


――由樹からの手紙を読んだ藍は、レターセットを取り上げた。

 由樹は今日日の男子高生にしては、随分筆まめだ。祖母の雪代の影響らしい。

 速水家の主婦、サツキも記録好きで、毎日献立日記をつけていた。

 定行も整骨院の患者一人一人について、病状や症状だけではなく、性格や生活環境などのメモを書いていたことを藍は思い出す。

 何を書こう。

 自室の机に座って、ペンを取った時だった。けたたましい足音と、ノックの音。

 そして義母の声。

「アイ! ミリー見なかった?」

 入って来たのは、父の再婚相手のジェーンだった。

青い瞳が真っ赤に染まるほどに怒っている。栗色の髪は逆立たんばかりだった。

「ミリーがどうかしたの?」

「お隣のボビーを喧嘩して泣かせたのよ! 全くもう、女の子なのに乱暴過ぎるわ、この間も男の子相手に大喧嘩して、学校からも連絡があったし、これで何回目よ! 下手したら、学校退学よ」

「ミリーにも理由があるのよ、ジェーン、聞いてあげて」

「聞こうとしたら逃げたのよ!」

 父とは仕事で知り合い、結婚したというテキサス生まれの女性は、よく怒り、よく笑う女性だった。父との間にミリーがいる。一〇才、生意気盛りだ。

 アイはあの子に甘すぎると怒りながら、ジェーンが部屋を出て行く。ドアが閉まったタイミングを見計らって、ベッドの下からもぞもぞ這い出てきたものがいる。

ミリーだった。ジェーンと同じ栗色の髪と青い目。青い目をくるくると動かしながら、藍に顔を向ける。

「ね? 言った通りでしょ? ママ、すごく怒っているでしょ?」

 姿形は天使でも、短気で喧嘩っ早い。中身はまるで男の子のような義妹だった。

 ジェーンの言うとおり喧嘩が多く、叱られるたびに、いつも藍の部屋に逃げ込んでくる。

 藍はため息をついた。

 ミリーが藍の膝によじ登った。

「だって、仕方がないじゃないの。弱い奴が悪いのよ」

「……弱い相手だから、暴力振るっちゃダメなのよ」

 藍は抱きついてくるミリーを受け止めた。

 甘いクッキーの匂い。

 ジェーンお得意のチョコチップクッキーの香り。藍は目を閉じる。

 ミリーと碧。似ている音。

「ミリーは強いから、弱い相手は守ってあげて。強いっていうのは、人を泣かしたりする力じゃないの。それは弱いことよ」

 藍は、自分に甘えてきたことが無かったと碧は言った。碧が欲していたのは、こんな風に抱きついてくる存在だったのか。

そしてぴったりとくっつく、この愛くるしさ。

「……アイ?」

 ミリーの不安げな声に、自分が泣いているのに藍は気が付いた。

――別に喧嘩したっていいわ。妹が欲しいのよ

 自分は、碧にとって妹として失格だった。

 恵理子に連れて行かれたのも無理はない。

 ミリーという新しい妹を通じて、碧が欲しがっていた妹というものが、藍にはようやく分かった。

「アイ? どうしたの? 気分悪いの?」

「……何でもない」

 何でもないのよ、と言いながら、藍は泣いた。

「アイ、泣かないで。もう乱暴なことしないから」

 ミリーが一生懸命に訴えてくる。その声を聞きながら、藍は泣いていた。

 そして、しがみついてくるミリーを、碧を抱きしめた。

 

――了




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人喰い姉妹 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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