好きな時間。

「ねえ、今日どこ行くの? どこか出かけるの? イオン? どっか遠く? 行くなら遠くがいいよ。ねえ」

「はーいはい。お父さんどこ行く?」

「え? ああー……新潟にー……海、見に行くとか?」

「なんで。まだ春でしょ。関東方面とかの方がいいんじゃない?」

「行く! 海、いく! 見たい!」

「静岡でいっぱい見たじゃない。まあ、それでいいならいいわ。じゃあ支度して。一希(かずき)も二葉(ふたば)も。行くでしょ?」

「えー」

「あー」

「ん! お兄ちゃんもお姉ちゃんも! ほら! 行く!」

「はいはい」

「じゃあ行こっかあ」

「ん!」




 何が好きって、どこかへ行くよりも家族五人で父の大きな車で出掛ける行為そのものが好きだった。場所は正直どこでも良い。だが、長い時間を三歩は父の運転する、車の後部座席で過ごしたかった。

 運転席にはお父さん。助手席にはお母さん。その後ろ、右側にお姉ちゃん。左側に三歩。さらに後ろ、後部座席中央にお兄ちゃん。その並びでどこかへ出掛けるのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。

 毎週毎週。何かに付けてはどこか遠くへと出かけていた。

 長いドライブ。父はいつもの癖でナビを操作した後、早々にナビをテレビへと切り替える。それをお姉ちゃんが、

「えーいやだー。なんか聴こうよー」

 と言い、

 自分も負けじと、

「なんか聴こうよー!」

 とマネして言う。

 すると、父は無言で古いバンドの曲を手元にあるスマホで選択し、それを目いっぱいの音量で車内へと流すのだ。それから車が走り出す。いつもの見慣れた田園風景の道を。

「うるせー」

 後部座席で兄が言い、父はさらに音量を上げる。そこでみんなが笑う。三歩には分かるし、三歩以外にも分かった。家族ならば誰であろうと伝わった。

 父は、ふざけている。

 正直三歩は父の流すこのダミ声の男性ボーカルバンド曲があまり好きではなかった。声があまり好みじゃなかったのもあるし、詞の内容が意味不明だった。たぶんそういう音楽なんだろうというのは分かるが、それのどこをどう楽しめばいいのか、幼い三歩にはいまいち分かりかねた。

 けれど、特にそのことを咎め立てることはしない。ルーティンがあるのだ。家族でドライブする時のルーティンが。

 ひとしきり流して――と言っても三曲だが――父が好きなバンドの曲が終わった。道は市街地にある高速道路の入り口へと差し掛かっている。

 今度は姉が、

「次。私ねー」

 身を乗り出して父のスマホを操作しだす。

 兄妹皆小学生。スマホはまだまだ買い与えてもらっていない。父のスマホは兄妹みんなのおもちゃで、そんな父のスマホに音楽聴き放題のストリーミングサービスが入っていることをみんなが知っていた。

「危ないから」

 と母は言うが、姉はいつも気に留めない。そうしてしばらく操作し、ぼすんと姉が再び席に戻った後に、今度は姉の好きな音楽が足元にあるスピーカーから流れ始める。

「いつも~♪」

 姉は音痴だ。とんでもなく音痴だ。散々家族は指摘しているが、姉は気にも留めないで気持ち良さそうに歌う。いつしか三歩も姉のその調子っぱずれな歌が好きになっていた。一緒に歌おうかと一瞬思うが、思ったまま三歩は手を腿でぺちぺちやって、頭を左右に振ってリズムを取るに留めた。なんとなく勿体ないと思ったからだ。

 姉と目が合う。姉もそんな三歩のマネをして腿をペちペち、頭をふりふりやって歌う。しばらくそんな時間が続く。

 そうして、姉が好きな女性ソロアーティストの曲が三曲終わる。次は兄だ。兄の曲を聞くのは自分の役目だ。それを助手席に座る母に伝えるのも。

「んー、俺、ミスチルとケツメ。……あとCocco」

「お母さん! お兄ちゃんミスチルとケツメとあとこっこだって!」

「Cocco? まーた懐かしい。世代じゃないでしょあんた」

 ナビに繋がる父のスマホを手に取り、選曲している間も女性ソロアーティストの曲は流れっぱなしになっている。三歩はこの曲も好きだった。終わってほしくないと思いながらも、口には出さずにおいた。ドライブはまだ長いから。一巡してきたらまた聴けるかもしれないから。

「なんでCocco? ウケるんだけど」

「うるせーな。友達の家で聴かせてもらってちょっと気になったんだよ。おかあさーん。RainingがいいよRainingが。Coccoはそれね。ミスチルはえっとぉ」

「私は焼け野が原がいいなあ」

 兄と姉が言い争っていて、母が適当に返事をした。

 三歩もいずれはこの会話に加わってみたい。が、今はまだよく分からない。分からないままだ。歌っているのが誰が誰とか、興味はあるが詳しく知ろうとはならなかった。気にはなるが、幼い三歩は、それを知ろうとする前に他のことでその興味を全て持ってかれていた。音楽のことは家に帰った途端忘れてしまうのだ。もっと言ってしまえば、今現在すでに興味はべつのことに移っていた。

「お父さん、どこ行くの?」

「海に行きたいんだろ?」

 曲が流れ始めている。それがミスチルかケツメかこっこか、三歩には分からない。横で姉の調子っぱずれな歌が聴こえていて、兄が「うるせー」と笑いながら言っている。

「海ってこの寒いのに海見に行ってどうするの?」

 母が言ってきたので、母に向かってお願いするように言う。

「お魚見たい……」

「俺! 寿司! 寿司食いたい!」

「私も! 回らないやつ!」

「はいはい。じゃあ水族館でも行く?」

「いく」

 母の言葉に満足してぼすんと席に戻った。横で姉が「水族館かあ~」と言い、父も同時に「水族館かあ~」と言っていて、それがなんだかとてつもなく三歩にはおかしい。自然と笑顔が溢れる。

「前に水族館行ったのいつだっけ? 三歩が四歳の時だよね?」

「覚えてない。お姉ちゃんも行った?」

「みんなで行ったじゃん。覚えてないの? 全然?」

「おぼえてない」

「俺、覚えてないぞ」

「うっそでしょ。なんで私より上の癖して覚えてないの。頭ん中どうなってるの?」

「え……。いつ?」

「だから三歩が四歳の頃だから……ええっと」

「四年前の春」

 父が口を挟んできた。母が言う。

「八景島だったよねえ、たしか」

「そうそう。三歩だけめぇっちゃジェットコースター乗りたいジェットコースター乗りたいって騒いでてさー。一希だってあたしだって乗りたがらなかったのに」

 まんまるの姉の目。瞳は驚いたように見開かれて、三歩を見つめている。三歩は姉のこの茶色い瞳が羨ましい。宝石みたいでキラキラしてて。

「あ~。なんかあったなあ~。ジェットコースター乗って泣くならともかく、ジェットコースター乗れないで泣いてんだもん。四歳児が」

「そうそう。たしか身長制限あってね。一希はもう乗れたんだけど、嫌がったんだよ」

「うるせー」

「うるせー」

「おまっ……はあ……」

「ふっくく」

 三歩が兄のマネしたことを切っ掛けにして姉が笑い、兄が不貞腐れるように溜息をついた。けれど、大人な、三歩のしたことなら仕方ないというような溜息。三歩はそんな兄の温度が好きだった。一緒になって楽しんでくれる姉も好きだが、一歩引いた感じで三歩を見ていてくれているようで。背中から全身を優しく包み込んでくれているみたいで。

 前に兄にそんなことを言ったら変な顔をされた。そして姉が一日中機嫌が悪くなったため三歩はもう言わないようにして心の中に留めている。

 前で父も母も笑っていた。包み込んでくれるようなこの時間が本当に心地よく、三歩も一緒になって笑った。




「あっ! 海ーっ!」

 しばらく高速道路を走っていると、視界いっぱいの海が見えてきた。水面がきらきらと光っている。少し黒いような色。そこは静岡の方が綺麗だなと思いつつも、長野に来てからこの一年、海を見る機会がおばあちゃん家に行く時以外はなくなってしまったため、やっぱり海は新鮮に映った。

「あー」

「おー」

 姉と兄が揃って間延びした、今更なんだというような声を上げている。そんな反応をしていても三歩には分かった。三歩と一緒でこの景色に心奪われている。兄妹なんだからそれくらいは分かる。幼い三歩にでも。

「あ、船あるね」

「漁船だな」

 姉が発見し、兄が補足するように言った。三歩はその一隻の船が見たくて、姉の方に体を寄せた。姉が無言で体を逸らして、三歩の場所を空けてくれる。姉の顔は兄の方を向いている。

「ねえ、静岡の海と新潟の海ってさ。魚だったらどっちのが美味しいんだと思う?」

「そりゃ寒い方だろ。言うじゃん。身が引き締まるって」

「ふうん。ねえ」

 姉はまだ兄に向かって何かを訊いている。姉は物知りな兄によく何かを訊いている。大抵は他愛もないことだ。今回もそうなのであろうが、三歩の耳にはその先が聞き取れなくなっている。

「三歩。次、三歩の番だけど、なに聴きたい? ジブリ? 他にも三歩が好きなアニメの曲いっぱいあるけど」

「うん。うん」

 母がなにか呼びかけている。船はどこにあるんだろう。目を凝らして見ているが、発見できない。もしかしたら後ろの方に行ってしまったのか。

「だめだー、お母さん。三歩聞いてない。てことで、私さっきの続きー」

「あー? だめだろそりゃ。それならせめてお母さんが次だろってことでお母さんの好きなの流してよ。それから三歩でいいじゃん」

「けちー。いいんちょー」

「うるせー。意味わかんねー」

「うん。うん」

 ふと前方を見やると高速道路の料金所が見えてきた。ドライブはもう終わりか。いや、帰りもあるのか。その前に水族館。なんだかお腹も空いてきた。お寿司。回転寿司。海――。


 だんだんと蒸し暑くなってきた春の午後。空調の効いた車内の中、姉の膝の上、姉の体温を直接肌で感じている。それが良い具合に解け合い、混ざり合う。母の好きなスローバラードが眠りを誘う。三歩の瞼は徐々に落ちていっている。姉がなにか声を発している。たぶん、少し咎めるような、注意するような声だ。けれど、それすら心地いい。姉のお腹から伝わる振動が三歩にとっての子守唄になっている。


 ――この時間が、いつまでも続いてくれたらいいのに。


 瞼が完全に落ちる寸前、そんなことを思った気もしたが、目覚めた瞬間、三歩は目の前に広がる景色に心を奪われ、だいたいのことは忘れている。

 だいたい、いつもそう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

便所の窓から中央アルプスが見える。 水乃戸あみ @yumies

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ