轢き逃げ現場を離れた黒崎は署に戻るわけにもいかず、居場所を探知されないようにスマホの電源を切って真山と今後の方針を練った。

 公安にははっきりと人相を確認されている。もはや、迂闊に他の所轄の捜査情報を探るわけにもいかない。北署の署長にはすでに激しい苦情が届いているだろう。不用意に警察のネットワークにアクセスすれば、そこから所在を掴まれ、おそらくは拘束される。

 ネットカフェに身を潜めて相談した結果、真山の知り合いのマスコミ関係者に連絡を取って、事実確認を依頼することになった。

 数時間後、真山が案内したのは池袋の古いビルだった。その中の狭い貸し会議室には、明るいゴルフウェアを着た人物が1人で待っていた。

 サングラスを外したその男を見た黒崎は、さすがに驚きの声を上げる。

「植草さん……ですか?」

 意外すぎる人物だった。

 高齢層や主婦層に圧倒的な人気を誇る朝のニュースバラエティーの看板プレゼンターだ。報道の世界では〝国民的有名人〟と言っていい。

 毎日10分ほどの時間を1人で独占して、ニュース解説を行なっている。コーナーの素材は植草自身の情報網と見識で構成しているという建前だ。だが、背後には強力な取材班があって、各専門家からの情報を〝自身の知識〟と偽っていることはネット上でとっくに暴かれていた。

 植草がうなずき、いきなり本題に入る。

「真山君とはちょっとした知り合いでね、何やら不穏な情報があるというのでこちらでも少し調べてみました」

 真山も驚いたようにつぶやく。

「植草さん、お一人でいらっしゃったんですか……?」

 真山は、数人の取り巻きに囲まれてキビキビと指示を出す植草しか見た経験がなかったのだ。

 植草の表情は緊迫している。身を乗り出して声を落とす。

「君が知らせてくれたひき逃げ事件、被害者の女性は重体だそうだ。内臓破裂で、危険な状態だという。逃走した車は近くに乗り捨ててあったらしい。何台か車を乗り継いだり、地下鉄を使ったりして逃走したんだと思う。しかしSSBCは優秀だから、足取りは必ずつかめるはずだ」

 SSBCは警視庁捜査支援分析センターの略称だ。事件現場周辺の防犯カメラや交通機関が収集した画像などの情報を統合して〝犯人〟の逃走経路を割り出すなどの任務を負う。かつてハロウィンの夜に遊び半分でトラックを横転させた犯人一味も、SSBCの粘り強い調査によって逮捕されている。

 黒崎が言った。

「しかし、映像分析には時間がかかる。犯人が映像で追跡されることを知っているなら、それを防ぐ手段も講じているはずだ」

 植草は自信に満ちた表情で黒崎を見つめた。

「黒崎刑事、でしたよね。現場で目撃した感触はどうでした?」

「犯人の車は、明らかに女を轢き殺すために突っ込んできた。反面、女の方はホッとした様子で車に近づいている。そもそもあの場所は、緊急時の逃走経路として使われていたようだ。だとすると、女は仲間に殺されたことになる」

 真山がうなずく。

「私にもそう見えました」

「そうか……だとすると、今回はちょっとレアなケースなのかな……?」

 黒崎が問う。

「レア?」

「真山君から相談を受けて、独自に高齢者の死亡案件を調べたんです。これでもそこそこの情報網は持っているものでね」

 真山が身を乗り出す。

「何か分かりましたか⁉」

「これ、奥が深いぞ。だからスタッフは連れてこなかった――いや、こられなかったんだ。長妻宗一の毒殺は偽装心中ということで内定が進んでいるが、にも関わらずまだ新宿署には捜査本部が立っていない。しかも長妻とよくデモに行っている仲間たちが、都内で次々に死んでいる。ここ1ヶ月で7人だ。偽装心中を除いて、ね」

 黒崎が小さく息を呑む。

「そこまで……。病死、とかの可能性は?」

「自殺、転落死、事故死――病死と確認された者はいませんね。しかも全員、最近のデモで再開した、かつての活動家たちだと分かったようです」

「皆、帝都大学出身?」

「もしくは、共闘していた大学の出身者です。学生運動が最高潮に達した際にそれぞれの大学で立て籠もっていた連中ですね。過激な活動家が疎まれるようになってからは社会に溶け込んでいたはずなんですが、一線を退いて再び集まるようになったようです。中にはそれ以後まったく目が出なかった人物もいるようですが」

「DTAとの関連は?」

 植草がニヤリと笑う。

「あなたもそこまで調べていましたか。直接の関係は今のところ見えていません。若者たちが立ち上がったことをきっかけに、かつての学生運動を思い起こしたんでしょうね。しかも、フランスからまた革命の火の手が上がりましたから。で、居ても立っても居られなくなって、飛び入り参加した……近年のデモでも参加者の大半はそんな高齢者です。ネットのフェイク情報のせいか、世の中は右翼的な風潮が強まっていますから、そこに危機感を持ったのかもしれません。まあ、活気に満ちていた過去を懐かしんでいるという側面は否定できませんがね」

 真山も身を乗り出す。

「私が気になっているのは、公安の動きなんです」

 植草がうなずく。

「私もだ。異常ともいえる死者の連続の背後に、彼らがいるかもしれないとは疑っている……」

 黒崎が眉をひそめる。

「まさかあなたまで、公安が殺している、と?」

 植草の表情は真剣だ。

「その可能性も否定できません。事件があった周囲では、必ずそれらしい人物が目撃されていますしね。だからこんなにコソコソして気を配っているんです」

 黒崎は断言した。

「それは考えすぎです。そもそも公安は、監視と情報収集を目的とした組織です。基本的に武器は持たないし、調査対象を殺すなどあり得ません。簡単に尾行を疑われるとも思えない。それでは監視になりませんから」

「ですが、そうとでも考えなければ辻褄が合いません。あなたはキャリア警官だそうですね。かつては警察庁の中枢にいたとも聞きました。公安を庇いたい気持も分かります。しかし独善的な長期政権のおかげで、官僚組織の隅々まで腐り始めていることは間違いないんです。僕は常々、番組を通じてそういった危険を警告してきました」

「その理屈は、強引すぎる」

「黒崎さんは、公安が独走しないという保証ができますか?」

「私はそんな立場にはないが、公安にそれほどの危険を冒す理由があるとも思えない」

「理由を探り出すには、もう少し綿密な調査が必要でしょう。しかし殺された――あえて殺されたと表現しますが、彼らが何かを企んでいた可能性はあります」

 真山がうめく。

「テロ、とかですか……?」

「そうは言いきれないが、これまでのデモ以上の何かだろうね。中には、かつて企業爆破事件を繰り返したグループに近いメンバーも含まれているらしいから」

「偽装心中で死んだ男は、化学薬品の専門家だったそうです」

「そうなのか⁉ だったら、毒物とか爆薬とかを作る知識があったのだろうか……? それを察知した公安が、彼らを排除し始めたと考えるなら……」

 黒崎はあくまでも納得しない。

「だが、女はなぜ仲間に轢かれた?」

「裏切ろうとして消されたか、重要な秘密を握る立場にあったのか……。彼らの企みを公安が察知して、実行する前に排除しようとしていた可能性は低くないでしょう?」

「だとしても、実際に動くのは公安ではない。確証さえ得られれば、アジトにSATなどの実行部隊が送られることもあるかもしれない。だが、そもそも上層部の許可がなければ組織は動かないし、いきなり実力行使するなど日本では考えられない。テロ犯をその場で射殺できるフランスなどとは、現場の感性も組織の構成も違う。日本は拉致を実行した朝鮮総連やサリンテロを行った教団にさえ破防法を適用できない国なんだ。公安が勝手に人を殺すなど――」

 植草がさえぎる。

「だから、じゃないんですか? 組織の規定に従っていては脅威を排除できない。それに我慢できなくなった一部が先走って、極秘裏に活動を開始した――歪んだ正義感を暴走させて国策を誤らせてしまった、大戦前の青年将校たちのようにね」

「それは考え過ぎだ」

「あなたの立場ではそう言わざるを得ないのは理解できます。ですが、僕の取材では不満を語る警察関係者は多いですよ。外国人の権利が強すぎるとか、今の憲法じゃ国を守れないとかね」

「彼らにも、脅威を目の前にしても手が出せない苛立ちはあるだろう。だが、私たちは公務員だ。法を守ることも大事な仕事だ。かつての軍人とは立場も考え方も違う」

「あなたが信じられないのは分かりますが――」

 その時、会議室のドアがノックされた。

 真山が植草を見る。

「ここのことは誰かに教えましたか?」

 植草が席を立つ。

「信頼できるスタッフにだけ、ね」そしてドアに向かって言った。「どちら様ですか?」

「佐久間です」

 植草がうなずく。

「大丈夫、スタッフです」

 そしてドアを開ける。

 会議室に入ったライダースーツの若い男は黒崎たちには目もくれず、手にしたノートパソコンをテーブルに置いて開いた。会議室に誰がいるのか、あらかじめ聞かされていたようだ。

 植草が覗き込む。

「どうした?」

「このニュースを見てください」

 佐久間が動画を再生する。キー局のニュース映像だ。

『――この爆発の原因はガス漏れではないかと言うことです。死亡した3人は奈良花江さん68歳、大滝直道さん71歳、北幸一さん69歳の3人です。3人は大学時代の友人でもあり、最近はこの高齢者住宅で共同生活を行なっていたそうです。警察では事故と事件の両面で捜査を行なっています』

 画像が切れると佐久間が言った。

「慌てて録画したんで、冒頭部分が切れてしまいました。1時間ほど前のニュースです。爆発が起きたのは午後3時過ぎです。これって、植草さんが追ってる事件の関連でしょう?」

 植草がつぶやく。

「また。3人も……」

 真山の目が静止した画面の被害者写真にとまる。

「あ、この人……」

 黒崎がうなずく。

「大滝という男、昨日、黒いバンで国会前から逃げた奴だ」

 真山が振り返って佐久間を見る。

「3人はどこの大学の卒業ですか⁉」

 佐久間が答える。

「さっきメールが入りました。帝都大学です」

「やっぱり……」

 と、佐久間の胸ポケットでスマホが着信を告げる。

「すみません」スマホを取る。「緊急みたいです。出ますね……。あ、佐久間です。――うん、植草さん、ここにいるけど。――代わるね」

 佐久間がスマホを植草に差し出す。

「誰だ?」

「田辺君です。事務所に弁護士が訪ねてきてる、とか」

「後にしてくれ」

 佐久間がパソコンを示す。

「でも、この爆発の関連だとか」

 驚きを見せた植草がスマホを奪う。

「植草だ! ――弁護士、そこにいるのか? 代わってくれ!」

 しばらく相手の話を聞いた植草の表情が、次第に厳しいものに変わっていく。

「分かりました。その資料、スタッフに渡してください。すぐに取りに行かせますから」

 電話を切った植草は佐久間に命じた。

「弁護士が重要な書類を持ってきたようだ。この事件に関連している。すぐに取ってきてくれ」

 佐久間はすでに席を立っていた。

「20分で戻ります」

 佐久間が会議室を飛び出すと、黒崎が尋ねる。

「その弁護士は何と?」

「爆発で死んだ1人から、書類を預かっていたそうです。『万一事故で死ぬようなことがあれば、ニュースキャスターの植草に渡してくれ』と言ってね」

「まさか……死を予期していたと?」

「弁護士は、殺されることを恐れていると感じたそうです。何かに気づいていたんでしょう。特にデモの仲間が次々に不審死を遂げているんですからね」

 真山がつぶやく。

「じゃあ、何かの証拠を……?」

「僕もそう思っている」

 黒崎が言う。

「それも公安の仕業だと?」

「書類が届けば分かるかもしれません」

「だが……爆発があったのは3時でしょう? 国会前では夜までデモをやっている予定だ。彼らが長妻の仲間なら、参加しているのが普通だ。なぜ3人もが自宅に集まっていたのか……」

「それも、書類が来てからですね」

 佐久間が取って戻った小さな封筒には、3つのUSBメモリが入っていた。記録されていたのは映像データだ。

 1つは怯えた女の自撮り画像で、誰かに尾行されていると訴えている。他の2つにはスマホで撮影したような画像が何種類も詰め込まれていた。どれも街の風景で、そこに尾行者らしい人影が写っている。

 一番多い画像は、同じ部屋の中から建物の前の通りを撮影したものだ。おそらく、そこが爆発した部屋なのだろう。昼夜問わず、画像には尾行者の姿が映っていた。

 一通り見終わった植草は言った。

「これはもはや事件です。放っては置けない」

 黒崎が問う。

「どうする気だ?」

「番組で取り上げます」

「まさか! たったこれだけの情報で報道するのか⁉」

「しなければ、また誰かが殺されかねない。公安の手によって……」

「しかし、これが公安が殺した証拠になるとは思えない。映像が本当なら、確かに尾行はしていたんだろう。しかし何度もいう通り、彼らは実行組織ではない。軽はずみに取り上げれば、パニックを起こしかねない」

「それで次の被害を防げるんだったら、それでもいいじゃないですか。これだけの数の高齢者が死んでいるんですよ。しかもみんな、デモ仲間だ。とてもじゃないが偶然だなんて思えない。誰かが殺していることはもはや間違いないんだ。僕は非難されても構わない。注意を喚起することも、ジャーナリストの務めですから」

 真山がうなずく。

「でも、どうやって……?」

 植草はすでに覚悟を決めていたようだった。黒崎を見つめて言い切った。

「明日は僕の放送があります。別のテーマを取り上げる手配は済んでいますが、予告なしでこの問題に切り替えます」

 黒崎がうめく。

「そんなことできるんですか……?」

「僕のコーナーは、生放送ですから。しかも全国ネットでね。初めてしまえば、止められません。なに、公安の仕業だと断定するつもりはありません。高齢者の不審死が続いていること、その中の1人が何者かの尾行に怯えていたこと、その事実をこの画像を交えて報道するだけです。あとは、視聴者が判断するでしょう。誰かが殺しているなら、抑止効果は充分じゃありませんか?」そして佐久間に命じる。「USBの画像、うまく編集しておいてくれ。尾行している人物は特定できないように――そうだな、ちょっと大げさにモザイクをかけておくか。いかにも犯罪的な行為が行われているという印象を抱くように。女性の自撮り画像もうまく組み込んでくれ」

「了解」

 佐久間はUSBを回収して会議室を飛び出していった。

 植草が真山を見る。

「いい情報を持ってきてくれたね、お手柄だ。これぞニュースの醍醐味というやつだ。君には最後まで協力してもらうよ」

「でもわたし、毎朝新聞の社員だし……」

「僕の番組は、テレビ毎朝だよ。新聞社も文句は言わないだろうし、万一言ってきたら辞めちゃえばいいさ。なかなか一人前扱いしてもらえない、ってぼやいていたじゃないか。僕のスタッフとして雇ってあげるから」

 真山の表情が一気に明るくなる。

「ありがとうございます!」

 植草は黒崎を見つめた。

「黒崎さんも協力していただけないでしょうか?」

「協力? どんな?」

「聞けば、警察組織の中で不当な扱いを受け続けてきたそうじゃないですか。ゆくゆくはそこも暴きたいんです。今回の事件では、公安の暴走が強く疑われます。世論がそこに注目して関心を抱き始めるなら、まずは内部関係者として番組にも登場していただきたい。むろん、身元は隠します。いかがでしょう?」

「わたしは刑事だ。軽はずみな行動はとれない」

「ですが、正義を貫いて甘んじて降格を受け入れた方だと聞いています。今も懲戒を覚悟している、とか」

 黒崎は真山を見た。

「そんなことまで話したのかね?」

「だって、植草さんなら信用できますし……。警官にも黒崎さんのような気骨のある方がいることを知って欲しかったんです」

 黒崎はため息をもらす。

「いいでしょう。本当に公安が殺人を犯しているのなら、止めなければならない。法を守る組織が超えてはならない一線だからな。決して許されることではない。私も本気で戦おう。ただし、それが事実かどうかは、納得できるまで自分の目で確かめさせてもらう」

 植草が微笑む。

「なるほど、真山君が太鼓判を押すだけのことはある。では、計画を煮詰めますか。とりあえず、みんな今日は自宅には戻れないでしょうからね」

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