第11話 嵐

 秋になり日が短くなる頃には、田んぼの稲はずっしりとした穂を持ち、色も次第に黄色く変わっていった。タゴリから収穫も近いと教えられた日に異変が始まった。


 満月の夜、煌々と地上を照らしていた月が、突然空を覆い始めた雲によって隠された。夜半を過ぎた頃に降り始めた雨は、朝を迎えても降りやまず、雨足は次第に強くなり、強い風も吹き始めた。

 降り続く雨に女たちのことが心配になり始めた頃、見張りに立っていたハズクが吾の許にやって来た。来訪者があるので外柵まで来てくれと言う。外柵に向かうと、そこに立っていたのはびしょ濡れになったタギツだった。


「どうした、雨で何か災厄が起きたのか?」

 吾の言葉にタギツは緊迫した表情で答えた。

「そうじゃないの。大変なことが起こるのはこの館よ。姉上が未来視で見せるからすぐ来て」

「この館だと?」

「いいから早く」

 ただ事でない様子に、タギツの言葉に従うことにする。笠をかぶり蓑をまとっていると、そばにいたカザバネが自分も連れて行けと言ってきた。この雨で船が心配だと言うので、一緒に連れていくことにした。

 

 川の曲がりに向かう途中でタギツに聞いた話では、タゴリの未来視で、この雨による濁流が女たちの居住地と吾らの館を襲うのが見えたと言うのだ。川の曲がりならともかく、丘の上にある吾らの館が濁流に襲われることはこれまで一度もなかった。だが、もしそんなことが起こったら……、これは確かめなければなるまい。


 女たちの居住地では、皆、あわただしく避難の準備をしていた。食料や生活に必要な身の回りの物を急いで荷造りする者、係留している船に荷物を積み込んでいく者などだ。

 タギツがウズメに呼び止められた。

「タギツ様、船はここに係留しておいた方がいいのでしょうか? それとも船出して下流に向かった方がいいのでしょうか?」

 タギツが思案しているようだったので、吾は助言した。

「この下流には滝は無いし、船底をえぐる隠れた浅瀬も少ない。ここにいて濁流を受けるより、下流に逃れた方が安全だ」

 タギツは吾の言葉に頷いた。

「ウズメ、船出ふなでして下流に向かうことで準備して」

「はい」

「川の流れが激しい中を行くことになるぞ。ある程度、船底に荷物を積んだ方がいい。その方が船は安定する」

 吾の横にいたカザバネが合わせて助言した。

「この荒れた風では帆は使えまい。浅瀬を避けるための操船に漕ぎ手がいるぞ。カザバネ、行ってくれるか?」

「承知」

「だが、まだ漕ぎ手の人数が要る」

「わかりました」

 タギツが周りにいた女たちの中から漕ぎ手を指定していった。その中にアヅミの姿もあった。アヅミが不安げな表情をしていたので、吾はそばに行き、両手で彼女の肩を包んで語りかけた。

「アヅミ、不安かもしれないが漕ぎ手の役割を務めてくれ。きつい仕事になるだろう。だが、忘れるな。お前の本当の役割は生きて再びここに戻ってくることだ。必ずな」

「ここに……、はい」

 アヅミは頷いて、船に向かって走って行った。


 ふと横を見ると、タギツが吾を見て何かいいたげな表情をしていた。だが、ウズメに話しかけられその対応を始めた。時間がかかりそうなので、吾は一人でタゴリの許に向かった。


 その途中で、雨の中で立ちすくむカガツミに出会った。悲しげな表情で窯のある方向を眺めている。吾はカガツミの肩を叩き、語りかけた。

「カガツミ、窯を惜しむ気持ちはわかるが、今はここから離れるべき時だ」

「わかっておる。だけど、あの中には火入れを待つ器がたくさん入っている。窯の火をくぐり新たな姿に生まれ変わるはずだったのに……。その未来が失われてしまうのだ」

「そうか……。あの器たちはお前たちがひとつひとつ土の中から生み出してものだったな。気持ちはわかる。だが、今は……」

 カガツミは沈痛な表情を浮かべ、そして頷いた。

「そうだな、ここを離れよう。やがて、戻ってくることができれば、土に還った器たちにもう一度、形を与えることができるかもしれん」

「必ず戻ってこられるさ。器づくりが再開できるよう吾も力を尽くす」

「それなら……」

 目に力を取り戻したカガツミは、懸命に避難の準備をする女たちの中に入って行った。


 タゴリの住居にたどり着き中に入る。青ざめた顔をしたタゴリが吾を待っていた。

「ヒコネ様、ようやく来られたか」

「ここだけでなく、吾らの館も濁流に襲われると聞いたが本当なのか?」

「そうじゃ。ご自分の目でご覧になるのが一番よかろう。共に未来視をしようぞ」

 吾は床の上に座り、タゴリは後ろに座って膝で吾をはさむ。吾の目をタゴリが両手で覆った。

「ご覧あれ」

 ゆっくりと目を開いた吾に視えてきた光景は……


 雨が降り続く山中、ひっくり返された岩が乱雑に転がる渓流で、突然土の中から水が噴き出した。水は岩や切り株を巻き込んで勢いを増し、本流の川に流れ込む。周りの斜面や小さな川からも水が流れ込んできて激しい濁流になった。

 濁流は下流へ流れるに従い水量を増やした、吾らの集落に近づくと、川にかかるかずら橋をあっという間に押し流し、幅を増して両岸の樹木や岩石を巻き込んでいく。濁流は丘を駆け上り、吾らの館を襲い、周りの樹木ともども押し流していった。さらに下流に向かった流れは、両岸を越えて広がる巨大な黒い壁となって、女たちの住居や窯に迫り、一瞬で呑み込んでしまった。


 吾は心の中でタゴリに問いかけた。これはいつ起きることだ?

『今日の出来事じゃ。正確には分からぬが、もう間もなく』

 何だと、こうしてはおられぬ。


 吾は直ちに立ち上がった。振り向いて、座り込んだまま吾を見上げるタゴリに命じる。

「すぐにここから逃げるのだ。船に乗れるものは船で。そうでないものは吾らの館のさらに上、栗林よりも上の場所へな」

「はい」

「吾はこれから館に向かう。一緒に来られるものは連れて行くが、まだの者もぐずぐずするのではないぞ」


 吾はイツキを含む五人の女たちを連れて館に向かった。途中のかずら橋で川の様子を見る。川の水は茶色く濁り、水かさは増していたが、樹木や土砂が流れてきている様子はなかった。

「ヒコネ様、嫌な臭いがします」

 イツキが吾に訴えた。

「川からじゃない。山から下りてくる風の中に嗅いだことのない嫌な臭い、焦げ臭い臭いが……」

 吾も鼻をくんくんしてみたが、特別な臭いは感じなかった。だが、以前、蔓を採りに入った雑木林でイツキが真っ先に漆にかぶれたことを思い出す。イツキは誰よりも繊細な感受性を持っているのかもしれない。

「とにかく急ぐぞ」

 女たちをせかして前に進む。


 館にたどり着くと、館の前には異変を聞きつけた一族の者がたむろしていた。

「ヒコネ様、ご無事で……」

 ツキベニが吾に縋りつくようにして語りかけてくる。

「ああ、だがすぐここから逃げねばならん」

「ヒコネ、どうなっているのだ?」

 周りの者たちをかき分けて兄者が出てくる。

「女たちの居住地は危ないのか?」

「それどころではない。上流の山から噴き出した水が濁流となって襲ってくる。この館も周りの樹木ごと押し流されるぞ」

「な……んだと」

「吾も未来視で視たので間違いない。もう間もなく襲ってくる。今すぐ背後の山へ逃げねばならん」

「そんな急なことのか?」

「あたしはかずら橋で厭な臭いを嗅ぎました」

 イツキが吾に口添えする。

「焦げ臭い臭い、今まで嗅いだことのない臭いが、山から下りてくる風に乗って流れて来ていました。間違いありません。すぐに異変が襲って来ます」

 イツキの言葉に一族の者が肝を冷やしているのが感じ取れた。

「オシホミ様……」

 ツキベニが兄者に訴えかける。

「うむ、逃げるぞ」 

 兄者は決断した。


 兄者の命令で一族の者は避難を始めた。携行するのは背中に担げる食料と最低限の道具だけ。荷物の上から蓑をまとい、笠を被って、館の背後の斜面を登って行く。

 未来視では濁流が襲ったのは館の周辺までだったが、より大きな後続の流れがあるかもしれない。念のため栗林より上、雑木林の中へかなり入ったところに避難させ、そこで待機させた。


 川の曲がりから避難してくる女たちを待ったが、その姿はなかなか現れなかった。吾は未来視の光景を思い返し、濁流が届かなかった場所ぎりぎりまで下りて行った。斜面に立ち、見下ろすと雨の中を栗林を登って来る女たちの姿が見えた。人数は七、八人だ。

 少し安堵した時、メキメキと言う音とともに地面が細かく揺れ始めた。川の上流を見ると、茶色い濁流が両岸の樹木を巻き込みながらこちらに迫って来る。

「急げ、濁流が来るぞ」

 吾の言葉に女たちは登って来る速度を上げた。一人、二人と吾の横を抜けて雑木林へと登って行く。最後尾にいたのがタギツだった。

 タギツが吾の近くまで来た時、轟音を立てて濁流が目前に押し寄せた。

「タギツ!」

 懸命に手を伸ばしてタギツの手をつかみ、引き上げて更に斜面の上に押し上げる。吾の足元にも濁流が届き、足をすくわれそうになった。振り返って四つん這いになり、斜面の草をつかみながら、なんとか這い上がる。

 ようやく安定した地面にたどり着き、立ち上がって振り向くと、吾らの館は既に濁流に押し流され、跡形もなくなっていた。

 下流に目を向ける。濁流が両岸を越えて広がる巨大な黒い壁となり押し進んで行く。川の曲がりに差し掛かると、川の土手を一瞬で越え、女たちの住居や窯を下流へと押し流していった。

「うっ、ううう……」

 背後からタギツたちが咽び泣く声が聞こえた。

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