第Ⅰ章 第11話 ~術連携だっ、全員衝撃に備えろッ ~

~登場人物~


ノイシュ・ルンハイト……主人公。男性。ヴァルテ小隊の術戦士で、剣技と術を組み合わせた術剣の使い手


ミネア・ルンハイト……ノイシュの義妹。女性。ヴァルテ小隊の術戦士で、霊力を自在に操る等の支援術の使い手


マクミル・イゲル……ヴァルテ小隊の隊長。男性。ヴァル小隊の術戦士で、増強術という支援術の使い手


 ウォレン・ガストフ……ヴァルテ小隊の隊員で、戦士。男性。あらゆる術を無効化する術耐性の持ち主


 ノヴァ・パーレム……ヴァルテ小隊の隊員で、術士。女性。様々な攻撃術の使い手


 ビューレ・ユンク……ヴァルテ小隊の隊員であり、術士。また修道士でもある。女性。回復術の使い手


 ケアド……リステラ王国の高等神官であり、次期大神官の最有力候補者。大隊の隊長であり術士。男性。


 トドリム……王弟であり公爵。リステラ王国軍の総大将。男性。





「それにしても濃い霧だな……」

 マクミルが荒涼たる砂地を踏みしめながらつぶやいた。ノイシュは思わず足を止めて汗を拭う。


いつしか周りには天然のとばりが立ちこめ、五十歩先の視界さえ殆ど見えない。つい先刻までは遠くの険峻けんしゅん断崖だんがいを眺め渡せたのだが――


「方角は間違いないので、もうすぐ隘路あいろが見えてくるのですが……」

 方位を示す道具と北極星を交互に見ながらつぶやくノヴァの声にも疲労がはらんでおり、ノイシュは思わず眼をつむった。


高等神官ケアド率いる第二軍よりも先んじて行軍を開始したのは、よいが深まろうとした刻限のことだ。 行軍を始めた際は宝石の如く照り輝いていた夜空の星々も、少しずつ周囲が白み始めるとともにその数を減らしていた。その間に敵部隊はもちろん、味方の狼煙のろし一つさえ見受けられない――


「あの、もしかしてあれじゃ……」

 隊の後方から少女の声が響き、ノイシュが振り向くとビューレは小さな手で前方右手を指していた。


その方向にノイシュが目を凝らすと、白く垂れ込めた帳の隙間から赤茶けた断崖が割れてほんの三、四名ほどが並んで通ることの出来る隘路が視認できた。きっと、あそこから敵軍がやって来るのだろう――


「どうやら、敵はまだ布陣していない様だな」

 周囲から安堵の息が漏れ出し、隊内の緊張した空気が和んでいく。ここでこちらが先に布陣を整えれば、ほぼ互角の戦いができるはずだ。さっそく、別働隊を率いるケアドにこの事を報告をしなければ――


「ビューレ、今回の任務で一番の大手柄は君かもしれないぞ」

 普段は聞けないマクミルの冗談に、あちこちから小さな笑い声が漏れる。ノイシュも思わず笑みを含んでビューレを見つめると、彼女は恥ずかしそうにうつむいてしまう。

「そんなこと――」


とその時、ノイシュは何かが耳朶じだを打った気がした。とっさに聴覚を澄ませながら周囲を見渡す。


「何か、音がしたような……」

 思わず声に出すと、他の仲間達も周囲を見渡していく。すぐ隣にいるミネアが双眸そうぼうを閉じ、耳をそばだてる仕草を取った。


「……何も、聞こえないよ」

 義妹に怪訝けげんな表情を向けられて、ノイシュは口をつぐんだ。たしかに気のせいということも十分に考えられる。行軍を始めてからずっと休息もとっていない、自分も含めて皆の体力も限界のはずだ――


「……いや、聞こえるっ、これは詠唱えいしょうする声だっ」

 ウォレンが荒立った声をあげた。ノイシュは全身に悪寒を覚えて大剣を構えた。再び周囲に目を凝らすが、いまだ霧が視界を遮り何も視認できない。


視界の隅ではマクミルとミネアが緊張した面持ちで武具を構えながら、支援術を詠唱している。ノイシュは口の中に広がる苦い唾を飲みこみ、ひたすら不明瞭ふめいりょうな前方を注視した――


「ノイシュ、あれ……っ」

 不意にミネアの震えた声がして顔を向けると、赤みを帯びた斜光が瞬くのが分かった。直後に何かの低い物音と影が現出するや、煙霧を飲み込みながらこちらに近づいてくる――


「術連携だっ、全員衝撃に備えろッ 」

 マクミルの叫び声が聞こえた瞬間、視界に紅蓮の色が広がり、空気を焦がす熱が肌に伝わる。


 姿を現したのは巨大な火炎塊だった。巨獣を超える程の大きさで、轟音ごうおんを立てながら瞬く間に距離を縮めてくる。


 その圧倒的な光景にノイシュは思わず身震いした。直撃すれば火傷どころでは済まない、しかし、もし避ければ後ろにいるミネアやビューレ達が猛炎に身をさらされる。どうすれば良いっ、どうすればッ――


 ノイシュは口元を引き結び、覚悟を決めた。そして敵の術を正面から受けるべく、両脚に力を込める――


「ノイシュ、後ろに下がれッ」

 大声とともに駆けてきたのはウォレンだった。すかさずマクミルとともに巨漢の背中へともぐり込む。

 

 ウォレンは手にした大盾を地に激しく打ち立て、燃え盛る暴君と対峙した。すぐそこまで迫る炎のまぶしさにノイシュは思わず眼を細めた。

 

 次の瞬間、激しい物音とともに業炎が大盾に激突、ノイシュは全身に衝撃を感じた。とっさに剣の柄を握り全身を強張らせる。強い閃光にこれ以上眼を開けていられなかった。大気が振動を続け、鼻の奥で金属が焦げる匂いがした。もう何が起きているのか分からず、ひたすら奥歯を噛み締めて耐え続ける。


 やがて少しずつ轟音が遠くなっていき、くらむ様な閃光も眼の奥で仄かな赤黒色へと変じていくのが分かった――


「……大丈夫か、ノイシュ」

 いつもの落ち着いた声が耳に届き、ようやくノイシュは顔を上げた。ウォレンの服があちこち焼け焦げ、いまだ火が燻って音を立てている。もしも彼がいなかったら、今ごろ業炎に包まれていたはずだ――


「ウォレン、すまないっ」

 紅蓮の魔を退けた戦士は前を見据え、小さく首を振った。

「……俺ができるのは、これ位の事だからな」

 ノイシュは眼を細めてウォレンを見た。彼は術を発現させることが出来ないものの、逆に様々な術の効果を打ち消してしまう【術耐性】の持ち主である。術を使えない欠点を補って余りある能力だと、強く思う――


「ノイシュ、いくぞッ」

 突如としてマクミルの怒号が耳に届き、ノイシュが顔を向けると既に隊長は術の飛んできた方向へと駆け出していた。


 慌てて隊長の背を追いかけようとした時、「待って……っ」という声が聞こえた――


 急いでノイシュが声の方を振り向くと、ミネアの身体が淡い光芒に包まれていた。彼女は術の詠唱を続けながらこちらに手をかざした。


「発現せよっ、敏捷増幅術……ッ」

 術句を結んだ瞬間、彼女を包んでいた淡い光芒が消失する。同時にノイシュは全身が熱くなり、意識が研ぎ澄まされていくのを覚えた。彼女に宿るアニマから霊力が引き出され、自分に降り注がれたのだ分かった――


「ありがとう、ミネア」

 思わず声をかけると、義妹は静かに頷いた。彼女は前線支援の担当であり、いつもこうして自分の援護をしてくれていた――


「ノイシュ、気をつけて……っ」

 彼女の真摯な眼差しに向かってうなずくと、ノイシュは隊長を追うべく思い切り地を蹴った――


――はっ、速い……っ

 ノイシュは目を見開いた。地を蹴るごとにまるで力強く押された様に身体が前へと進む。今まで以上に義妹の霊力が強くなっていた。


――これが、ミネアの実力……ッ

 目まぐるしく視界が変わるのを感じていると、やがて引き離されていたはずの隊長の背が眼前に迫ってくる――


 次の瞬間、マクミルの身体もまた光芒に包まれていく。まさか、駆け出しながら術を詠唱していたのか――


「発現せよっ、敏捷増幅術ッ」

先程と同じ術句が結ばれるのを聞くや、マクミルの身体が一閃する。瞬く間にマクミルの動きも速くなり、ノイシュは夢中で上体を突き出す――


「ノイシュ、前方左手だッ」

 隊長の鋭い声が耳に届き、慌ててそちらへ視線を向けると複数の人影らしきものを視界にとらえる。


――レポグント兵か……っ

 ノイシュは胸が強く脈打つのを感じ、速度を維持しながらも両眼を凝らす。次第に影の中から鈍色に輝く甲冑や術句を紡ぐ旋律、そしてレポグント王国の紋章である黒獅子の旗をはっきりと視認した。


「間違いない、敵兵だっ」

 マクミルの叫び声を聞き、ノイシュは急ぎ脚に制動をかけると術句を唱え始める。意識を集中し、己の身体に宿るアニマが解放される様子を想像する。少しずつ視界に映るものの動きが鈍くなっていき、己の息づかいだけが耳朶を打つ。次第に全身がほのかな光に包まれ、アニマから霊力が引き出されていくのを実感する――


 ノイシュはそのまま大剣を斜め上段に振り被り、身体に宿した光芒を刀身へと伝えていく。霊力が剣先まで宿るのを見定めると、甲冑を着た一人の敵戦士に狙いを付けた――


――ッッ………

 剣を振り下ろそうとした瞬間、ノイシュの胸の中が僅かに震え、動きが止まる。


――今から僕は、敵兵とはいえ一人の人間を殺めてしまうかもしれない……っ

 ノイシュは強く眼をつむった。


――今まで、僕は力も勇気もなくて、ずっと周りの仲間や義妹に助けられてきた。なのに、誰かの命を踏みにじってまで生き残る権利を僕は持っているのか……っ


「ノイシュッ」

激しい口調で名を呼ばれ、慌てて振り向くと隊長がこちらを睨み付けていた。眼差しの奥にあるのは、こちらの覚悟を問う鋭い眼光だった――


 ノイシュは目を見開き、奥歯を噛みしめる。

――そうだっ、最前線にいる僕が斃れたら、義妹や他の仲間達に凶刃が向かうっ、僕がやらなきゃっ、たとえ僕が悪魔になっても、みんなが助かるなら……ッ――


「うっ、わああぁぁぁ……ッ」

ノイシュは一気に大剣を振り下ろした。無意識のうちに瞳から涙があふれ、宙に舞う。刀身より放たれた輝きは大きなうねりを生み出し、衝撃波となって現れた。それは周囲の大気を切り裂き、傍らの若木を斬り飛ばして敵兵へと突き進んでいく。次の瞬間、自分の放った凶刃が敵兵に激突した。


 術を浴びた戦士は鈍い音とともに胸甲の鉄片をまき散らし、錐揉きりもみしながら吹き飛んでいく。ノイシュは眼を逸らすことも出来ずその光景を眺めた。やがて敵兵は周囲の兵士数人も巻き添えにして倒れ伏した。その後方に居並ぶのは数名の術士のみ。どうやら、相手も小隊らしい――


 ノイシュがそう視認した瞬間、マクミルが眼前に現れた。隙を逃すことなく敵陣へと切り込み、勢いのまま手にした鎚矛を一人の術士へと叩きこむ。

 

 鈍い音を響かせながら倒れていく敵兵に構うことなく身体を反転させ、別の術士を鈍器で頭ごと吹き飛ばしていく。


 残る術士は、あと二人。どちらもまだ若い女性だった。マクミルの鬼神のごとき戦い振りに、相手は完全に動揺している様だった。


 マクミルが槌矛を構え直した時、突如として隊長の後ろで伏していた戦士の一人がその身に光芒を宿して立ち上がった。隊長は敵兵に気づいていない――


 そう思った瞬間、ノイシュは無意識に走り出していた。逸る気持ちを抱えつつ四肢を懸命に動かすが、隊長との距離が縮まるよりも敵戦士の方が素早い。


 既に敵兵は大きく剣を振りかぶり、身体を包んだ霊力が刀身へと伝わろうとしている。おそらく衝撃波を放出するつもりだ――


 ノイシュは思わず奥歯を噛みしめ、眼を細めた。

――だめだ、間に合わないっ……


「ノイシュッ……」

 不意に少女の声が耳に届き、振り向くと後方にミネアがいた。滑らかな色の肢体には紅いもやの様な光をまとっており、敏捷術ではない何かの術を発現させている。確かあれはっ……――


「ノイシュ、私の霊力を使って……っ」

 刹那の後にミネアの身体を包んでいた霊力の靄が放たれ、それは光の帯となって瞬く間に自分の身体へと注ぎ込まれる。


 その瞬間、ノイシュは四肢が焼け焦げそうな程の熱触を覚えた。強い耳鳴りとともに信じられない程に意識が覚醒、集中力が高まっていく。ミネアの最も得意とする、自らの霊力を自在に操る霊力放出術だ――


 ノイシュは術句の詠唱を始めた。義妹から放出された霊力が依然として全身へとなだれ込み、額から大量の汗が噴き出てくる。早く術を発現しなければ、身体が燃えてしまいそうだ――


眼前でとらえるレポグント兵の目つきが鋭くなった。その強い殺意にノイシュは背筋から這い上がる震えを感じた。その間にも敵兵が頭上に掲げた刀身へと、術が伝っていく――


 刹那せつなの後、ノイシュは自らの身体に光芒が宿るのに気づく。術句を結び、そのまま意識を集中させてこちらも霊力を武具へと伝えていく。同時に大剣を大きく真横に引いた――


――敵兵よりも早く、術剣を放出させなければっ……――

 しかし、先に動いたのは敵兵だった。武具を大きく振り下ろすと剣から霊力が放たれ、鋭い楔形くさびがたをした波動となって剣先から放たれていく――


――くっ、間に合わない……ッ 

次の瞬間、ノイシュは大剣を振り払った。刀身から燐光が消滅するや、周囲に吹き荒れる不可視の衝撃波が虚空を切り裂いた。


 地面が鳴り響く様な轟音とともに激しい慣性を受けてノイシュは思わず横に倒れる。何とか保った視界の先では己の攻撃術が横木や石塊を次々と薙ぎ倒し、そのまま敵兵に衝突した。


 相手の四肢は切り刻まれ、彼が放った術剣さえも悉く呑み込んでいく。やがて全てを破壊した自らの術剣は轟音とともにいずこかへと飛び去っていく――


――こっ、これは……ッ

 ノイシュは自らが放った術剣を見ながら眼を見開き、そして震えた。とても自分の実力では出せない攻撃だった――

――ミネア……君の霊力は、一体……っ 


「すまない、ノイシュ」

 頭上から声がして振り仰ぐと、マクミルがこちらを見下ろしていた。その後ろには折重なって倒れる女術士達の姿があった。


「……マクミルこそ」

 それだけ言うと、ノイシュは再びうなだれた。先ほど戦った敵戦士の最期の姿が、脳裏に浮かんだ――


――ついに僕は、この手で他人の命を……

 ノイシュは首を振ると、強く眼をつむった。


「ノイシュ……」

 不意に少女の声が頭上から振り注がれた。その聞き慣れた声音に、ノイシュは顔を上げることが出来なかった。最も大切な人に、最も残忍な自分の姿を見せてしまった――


「……他の敵兵は……」

 長い沈黙の後、ようやく絞り出す様にしてノイシュは声を発した。

「……術士隊は全員、マクミルが。最初にノイシュの放った術剣を浴びた戦士には、ビューレが回復術を施してる」


「えっ……」

 思わずノイシュは顔を上げた。義妹はただ眼を細め、その翠色の瞳に滴を溜めていた――


「……隊長を、みんなを助けるためだったんでしょ、だから……」

義妹の頬に涙が溢れた。


「……だから、お願い、どうか罪を一人で背負うなんて考えないで……っ」

 不意に義妹が手を広げ、その身体の中へと抱き寄せてきた――

「ミネア……ッ」

 ノイシュは耐え切れずに義妹を抱き返した。


――どうか、どうか君だけは僕を嫌いにならないで、血塗られた僕の傍から、消えてしまわないで……ッ――


 義妹の胸に身を預けながらノイシュは強く感じた。自分が、いつ果てるとも知れない血みどろの戦いに身を投じてしまった事を――


「――大丈夫ですか、ノイシュさん」

 穏やかながらもりんとした声がノイシュの耳に届いた。顔を上げると、ノヴァがすぐ側でこちらを見据えていた。

「ノヴァ……」


「申し訳ありませんが、まだ私達にはやることが残っておりますよ」

「……ごめん……っ」

 ノイシュはミネアから身体を離し、ゆっくり立ち上がった。ノヴァの表情は乏しく、奥底の感情は読み取れなかった。もしかしたら、未だに迷いを秘めていた自分に対して彼女は怒りを覚えているのかも知れない―― 


「なぜ、彼等が既にこの場所を……」

 ノイシュが思ったままの疑問を呟くと、攻撃術士の少女は静かに首を振った。


「分かりません……。ですが今、二人の捕虜のうち詰問ができる方にウォレンが聞き出しています」

 そう告げて後ろを振り向くノヴァの視線を追うと、いつの間にか離れた場所に巨躯の戦士の姿があった。


「……行ってみる」

 ノイシュは泥を払い、ウォレンのいる場所へと向かう。その途中、横たわった敵戦士の傍らでうずくまっているビューレの姿が視界に入った。


――ビューレ……

 修道士の側に近づくと、彼女は僅かに肩を震わせ、嗚咽おえつしているのが分かった――


「……倒れたその戦士は、僕の攻撃を受けた人だね……」

「……はい……」

「やはり、彼は助からなかったんだね……」

「……ごめんなさい、ノイシュ」

「ビューレ……」

 ノイシュは思わず唇を震わせた。回復術士として目の前にいる人を助けようとして、それが果たせなかった彼女の気持ちは計り知れないだろう、なのに、僕の気持ちまで……っ――


 ノイシュは強く眼をつむり、胸の感情を押し殺すと静かに微笑んだ。

「……ありがとう」

「え……」

ビューレが驚きの表情で顔を上げた。

「きっと、彼は君にそう思っているよ。君が、懸命に助けようとしていたから……」

「ノイシュ……ッ」 

 彼女の瞳から、次々と涙が頬を伝っていく。


「私っ、わたし……ッ」

それ以上言葉にできず、ビューレはうつむいた。


――君は、本当に優しいよ……

「……じゃあ、行くね」

 ノイシュはゆっくりと前に足を踏み出した。

「ノイシュッ、あの……っ」


 ビューレの声が背中にかかり、ノイシュはゆっくりと振り向いた。修道士の少女は涙を頬に伝えながらも、静かに祝福の印を結んだ。

「私、まだ見習いだけど……っ」

 ビューレがゆっくりと手を下ろした。

「どうか、あなたの罪が赦されますように……」


――ビューレ……ッ  

 ノイシュは思わず眼を見開いた。

「……この国の人々を守るために、誰かが戦わなくちゃいけないのなら……それを背負った人だけが、罪の意識に苦しむことはない……だから……」

そこまで言うと、回復術士の少女は再びうつむいてしまった。ノイシュは奥歯を噛んで、再び胸に込み上げる感情をどうにか押しやった――


「本当にありがとう、ビューレ……」

 ノイシュは努めて微笑みながら頷くと、身体を返してウォレンの元へと向かう。そしてかぶりを振ると無理に思考を巡らす。今は、やるべきことが沢山あるはずだ――


 やがて巨躯きょくの男の側まで来ると、ノイシュはそのまま彼の脇に並んだ。正面ではウォレンに剣を突きつけられ、尻餅をつきながらもこちらを睨み付けている敵兵の姿があった。おそらく自分の放った術剣に巻き込まれた戦士の一人だろう。身にまとった革鎧はところどころ破れているが、命に別状はなさそうだった。


「……ノイシュ、大変なことになったぞ」

振り向かずにつぶやくウォレンの声は緊張をはらんでいた。

「それって……」


 こちらの台詞を最後まで待たず、ウォレンが言葉を重ねてくる。

「彼等は別働隊だ。どうやら、こちらの動きが敵軍に読まれているらしい」


 ウォレンの言葉に、ノイシュは眉尻を吊り上げた。

「じゃあ、敵の本隊は……っ」

「ここから五千歩ほどの地点にいて、さらに南西方面へと進軍を続けている。つまり、間もなくケアド様の部隊と遭遇する事になる」

 ノイシュは大きく息を呑んだ。胸の中で何かが蠢き、思わず平衡感覚が失う。


「ま、まさか……っ」

 不意にウォレンが剣をぎった。ウッ、と言う声とともに敵兵の首が僅かに斬られ、刀身から一筋の血が滴っていく。


「言えっ、そっちの兵数は」

「お、およそ百名だ……っ」


――そっ、そんな……ッ

 思わずノイシュは掌に力を込めた。完全に想定外の出来事だった。百名といえばケアドが率いる第二軍を凌ぐ戦力だ。それ程の大軍に強襲でもされたら、レポグント要塞の奪還は完全に失敗する――


「どうやって、お前達は……っ」

ノイシュが絞り出すように声を上げると、とっさに眼前のレポグント兵が唇を吊り上げた。


「決まっているさっ、誰もが通ろうと思わない険阻けんそな場所だからこそ、発見もされない……俺たちは王弟殿下や大神官様とともに、山脈を乗り越えてきたんだ……っ」


「まっ、まさか……っ」

 無意識にノイシュは後退った。確かに断崖とも言うべきあの山々を踏破すれば、全く予知されない進路から軍を動かすことも可能だ。しかしあの急峻きゅうしゅんな崖を這い上がろうなんて……踏破できずに犠牲になった兵士はどれほどいたことか――


ノイシュは強く目をつむった。

「時間がないぞ……っ」

「あぁ……っ」

 脇にいたウォレンの返事にも緊張が漲っていた。もしかしたら、既に両軍は激突しているかもしれなかった。圧倒的に不利なのはケアドが率いるこちらの軍だ。それは単に相手の兵力の方が多いからだけではない、おそらく敵軍は最初から奇襲攻撃を想定して進軍しているのに対し、味方の部隊は相手の動きに全く気づいていない――


 不意に土を踏む音が耳朶を打ち、ノイシュが顔を向けると小隊の全員が緊張した面持ちで居並んでいた。

「……今の話、確かだな」

 マクミルの鋭い眼光に見据えられ、ノイシュは若干気圧されながらも頷いた。


「はい……っ」

「……よし、我らはこれより別働隊の救出に向かう。行軍を始めるッ」 

「マクミル隊長、彼の言う事を信じて本当に良いのですか……」

 あくまで落ち着いたノヴァの声音に、小隊長は強く頷いた。


「……あぁ、敵部隊がこの場所にいた以上、ここは奴らの情報を信じて動くべきだと思う」

 突然、革鎧の男が甲高い声を上げた。

「ハッ、何を今さら……たとえお前たちが救援に向かったところで、たったその兵力で何の助けになる――」


 次の瞬間、マクミルが槌矛を振り下ろし、敵兵の片足を強く殴打した。周囲に骨を砕くが鈍音が響いた――


「うっ、うわわあぁぁッ」

「だまれ、レポグント兵……っ」

 素早く隊長は身を翻し、歩を進めていった。仲間達もまた急いで後を追っていく。


――早く、高等神官様にお伝えしければ……っ

 ノイシュが仲間達の背中を追いかけようとした時、不意にミネアだけがその場に佇んでいる事に気づく。義妹の身体は僅かに震えていた――


「ミネア、どうしたの……」

 思わずそう声をかけると、義妹はゆっくりとこちらに振り向いた。

「激戦に、なるよね」

「ミネア……」

 ノイシュはただ彼女を見据えた。その身に抱える不安を、どうやったら打ち消してあげられるのだろう――


「行こう、ノイシュ……」

 ミネアが寂しそうに微笑むと、先に進んでいった。ノイシュは彼女の後ろ姿をしばし眺め、やがて追いかけた。


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