第3話 始まりの後悔

(怖ぇ怖ぇ怖ぇ怖ぇ…!!)


 そんな言葉で思考を埋め尽くされかけていたカナタは、上から重ねるように心へかつを入れた。「止まるな、走れ」と。


 混迷極まる内心とは裏腹に、そのフットワークは凄まじくキレている。裏路地を直進していたカナタは、唐突に直角に曲がりビルの隙間へ入り込んだ。人ひとり通れるくらいの狭い道。所々にある空調の室外機や配線・配管の集約する金属製のボックスを器用に躱していく。抜けきった先、別の通りに出るや否や、またすぐに直角に曲がった。

 恐怖と焦りに支配されながらも、どうにか姿をくらまそうと体は試行錯誤を繰り返していた。


 一方、追うヤクザたちも必死だった。速すぎるのだ。前を走る正体不明の小柄な黒づくめが。

 それは単純な足の速さに限らない。1mあるかないかというビルの隙間に、時折障害物まである。全力疾走なんかできるようなフィールドではない。だというのに、黒づくめは全く速度が落ちない。障害物を躱している時も、ほとんど重心がブレないのだ。

 男たちは、この相手が荒事に慣れたプロだと、そう思っていた。それも、この界隈に非常に詳しい、障害物の位置まで把握するほどに精通した、自分たち以上の日陰者だと。


 実際は、持ち前のパルクール技術を駆使しているだけの、ただの家出少年に過ぎない。ついでに言えば、ビルを見上げて目を輝かせているようなお上りさんでもある。

 しかし、そんな実情を知らない者からすれば、到底よそ者とは思えないほどに躊躇ためらいのない、滑らかな逃走だったのだ。


「この…!!」

「まてこらぁ!!」


 追いつけない現状に歯噛みするヤクザが、角を曲がり見えなくなった黒づくめに向け、堪らず威圧の声を発する。今しがた出てきた路地から聞こえる大声に身を竦ませながら、それでもカナタはペースを落とさなかった。

 男たちの足音が唐突に大きくなり、敵も裏路地を抜けたことを悟る。より強く感じるプレッシャーを精神力一つで押さえつけながら、前を見据えるカナタは必死にルートを模索し続けた。


 正面に古いマンションが迫る。首ほどの高さの外塀があり、道路は右へ、次いですぐに左へとクランク状になっている。それを確認したカナタは、ペースを落とさないまま目の前に迫る塀に飛び乗った。そのまま、直角にぐるりと建物を取り囲んでいる塀の上だけを流れるように跳ね、塀と道路の境にある植木を飛び越え、その先の道路に着地。本来2度転進するはずの行程で一度も止まることなく最短距離のショートカットを敢行し、そのまま駆け抜けた。

 首だけ振り返り、虹色に輝く偏光スモーク入りのゴーグル越しに、後方を覗き見る。クランクを抜けてきたヤクザの姿が、先ほどよりずっと小さい。

 大きく距離を稼げたことを確認したカナタは、すぐさま捲くことを決めた。


 手ごろな機会を探しながら、直近の十字路を左折。20mほどで今度は直進と右折のあるT字路になる。男たちの姿が見える前にここを右折し、走りながら素早く周囲を見回した。

 右手側に民家のブロック塀。その先にはマンション。その外廊下の手すりがコンクリート造り。隠れるには絶好。

 そこまで確認すると、すぐにブロック塀に飛び乗り、足幅分しかないその上を、スピードを落とさず疾走。助走をつけて踏み切り、2mほど離れたマンションの2階手すりへ飛びつくと、鉄棒の要領で前回り気味に外廊下へと飛び込んだ。

 回転途中で手すりから手を放し、頭から廊下へ落ちる。ぶつかる寸前に床に手を付け前転を一つ。そのまま身をかがめ、コンクリート壁から姿が見えないように手すりに背を預けた。荒い呼吸を必死で抑えながら、耳を澄ませる。


「ぜぇ、どこ行きやがった!?」

「…わからん!っくそ!お前ら二手に分かれろ!俺はこの辺りに潜んでないか探す!」

「へい!」


 カナタを追ってきた3人の内の二人が、それぞれT字路から直進方向と右折方向へ走り去っていった。残りは一人。視線を巡らせながら少しずつカナタの隠れているマンションへ近づいてくる。

 微かなその足音と荒い呼吸音を聞きながら、カナタは必死に思考を回した。


(不意を突いて逃げるだけなら出来そうだけど、走れば足音で悟られる…。最善はここでやり過ごすこと…。俺の拠点がこの辺りにあると勘違いしてくれれば儲けものだ。相手が一人ならやりようはある!)


 思考は一瞬。カナタはすぐさま行動に移した。






 少年を探しに来たヤクザの一人が、ついにマンションに踏み込む。建物の真ん中にある階段を上り2階へ。わずかに身を乗り出し廊下を覗き込む。そのまま首を回し左右を見渡した。

 人気がない。

 それを悟ると次いで3階へ。全フロアでそれを繰り返した。最上階の高所から周辺を見渡すも、奴の気配はない。


「ハズレか…!くそ!」


 そう吐き捨て、ヤクザは階段を駆け下り、そのままマンションを出て別の建物を探しに行った。






「…ぜっ、はぁっ…!!」

 遠ざかる足音を聞きながら、カナタは押し殺していた息を吐きだした。抑え目ながらも、必死にとどめていた荒い呼吸を繰り返す。


(うまく行った…。これで少し時間を稼げる。後は見つからずにここを離れれば…)


 そう思いながら、カナタはヤクザが一度は見回したはずのマンション2階の外廊下から移動を開始した。

 ヤクザがマンションに足を踏み入れた後、2階の検分を終えるまで、カナタは手すりの外側にぶら下がっていた。3階に上がる足音を確認したのち、手すりの内側に戻ったのだ。単純な方法だが、追手が分散して外にヤクザがいないこと、マンションに踏み込んだのが単独で捜索の分担ができないこと、この二点がうまく味方した結果だった。


(でも、逃げる前に…ちょっと…)


 カナタは、そのままマンションの外には出ずに、息を整えながら階段を上った。最上階で手すりに飛び乗ると、ノータイムで天井に飛びつき、へりに手をかける。飛んだ勢いを殺さず、汗を散らせながらその身を跳ね上げると、辿り着いた屋上をフラフラと進み、ど真ん中で徐に寝そべった。


 夏の昼下がり。強かに打ち付ける日差しを全身に感じながら、カナタはゴーグルも外さないまま、分厚い夏の雲と群れを成す鳥の姿を眺める。

 防水塗膜が剥がれ、所々コンクリートがむき出しになっている陸屋根。あちこちにカビや苔がむし、日当たりのいいところでは青々としたメヒシバが生えていた。

 風に撫でられ、細い穂が揺れる。


 そのままたっぷり5分は過ぎただろう。噴き出る汗を滴らせながら深呼吸に努めていたカナタが、ひときわ深く息を吐き出し、ボソッと呟いた。




「…なんだコレ…」




 零れた悪態は誰の耳にも届かず、ただ遥か青い空へと吸い込まれるだけだった。

 よろよろと上体を起こしたカナタは、揺れる目を隠すようにゴーグルへ手を当てながら現状の整理を試みる。


(ヤクザと警察?銃?え?売ってたの?取引?暴対法どうした?追われたってことは見られちゃマズイってことで…。じゃあ捕まったらどうなってた?)


 その果てを想像し、カナタは身震いする。同時、ゴーグルを鬱陶しく感じ。


 外そうとして、致命的なことに気が付いた。




「…マスク…、いつからしてない…っ!?」




 そう。カナタの顔は、鼻から下が丸出しだったのだ。

 ここで寝転がってから、ではない。何かを外した覚えもないし、近くに転がってもいない。ではいつ外したのか。記憶を遡りながらマスクを探してポケットに手を入れたとき、カナタは思い至った。


 取引現場を目撃する直前。

 あの廃ビルで、呼吸を整えるために。


 震えながら、その時突っ込んだマスクをポケットから取り出した。

 つまり、追われている間はずっと顔を晒していた、という事だ。



(マズイマズイマズイマズイ…!!)



 幸い目元はフードとゴーグルで隠れていたが、それがどの程度慰めになるのか、ただの中学生でしかないカナタには判断がつかなかった。


 流れてきた雲が陽光を遮り、一帯に影が差す。

 逃げ切ったと安堵した矢先に発覚した問題に、カナタは頭を抱えた。歯を食いしばり、眉間に皺を寄せながら見開いた目を揺らし、必死に思考を回す。


 これは夢だと、そう割り切って忘れることができたら、どんなに楽だっただろう。しかし、額につけたカメラは未だ録画を続けていた。電池も切れていないし、停止ボタンも押していない。つまるところ、不正取引の証拠となる動画が手元にあるのだ。やすやすと現実逃避もできはしなかった。

 データを破棄して知らんぷりと洒落込みたいところだが、これはこちらの切り札だ。簡単には手放せない。しかし、同時に自分自身を危険に晒す諸刃の刃でもある。額についたカメラの存在くらいは向こうからも確認できただろう。証拠を押さえられたとなれば躍起になってこちらを捕まえに来るのは想像に難くない。


 最悪なのは、向こうに警察がついていることだ。

 動画を持ち込んで後は警察任せと行きたいところだが、肝心かんじんかなめの警察が信用ならない。あの場には刑事らしき男は3人しかいなかったが、裏にどれだけいるかわからないのだ。どこかで握りつぶされるか、最悪持ち込んだ時点でゲームオーバーという可能性もある。


 テレビ局に送りつけるのはどうか。しかし、取り上げられるかどうかはスタッフ任せだ。それでは確実性に欠けるし、提供元として自分の身元に至る可能性も高い。よしんば公表されたとしても、裏取りには当然時間がかかる。隠滅は防げるかもしれないが、その間は自分の身が危うい。

 ネットでの公開も同様だ。ただの中学生にまともな発信力などあるわけがないし、むしろフェイク動画として意図しない方に世論が流れてしまう可能性もある。


 いや、そもそも公表に意味があるのか。現場にいた人間の独断にしてしまえば、ただの尻尾切りで終わってしまう。組織の大元が無事なら、後々確実に報復されるだろう。

 ならば、このまま何もせずに雲隠れするか。幸い、ヤクザたちに動画や写真を撮られたとは考え難い。邂逅そのものは一瞬だったからだ。追われている時も、奴らにそんな余裕が無かったのは一目瞭然だ。


 しかし、これも警察が壁になる。公的な権力があれば防犯カメラ等から顔を抽出して素性を探ることができるかもしれない。今日通ったルート上にカメラがあって、それがカナタの顔を捉えていたなら最悪だ。チェックするカメラと通過した時間が分かっていれば、少人数で動いたとしてもすぐに割り出せるだろう。

 他に何か、例えば現場に落とした髪や汗、目撃証言等から捜査されることだって考えられる。すぐにそうなるかは警察側の規模次第だが、例え少人数でも不可能ではない筈だ。素性を暴かれるのは時間の問題と言える。




 今逃げ切っても終わらない。




 そう結論付けたカナタの体は、小刻みに震えていた。

 暑さによるものではない、質の悪い汗が全身から噴き出している。


 すぐに身元が割れれば、その矛先は必然、居場所が不明な自分よりも実家の家族に向く。

 すぐには暴かれずとも、放置していれば、いずれ一家揃ってロクでもない目に会いかねない。


「は…はははっ」


 それは駄目だ。それが一番駄目だ。だというのに、既にチェックメイトが確定している。何をどうすればいいのか、皆目見当もつかない。

 家出中とはいえ、別に家族との仲が険悪や疎遠というわけではない。ただ、両親と喧嘩をしているだけなのだ。それも原因は自分自身。


 この趣味が危険だと分かっていた。怪我どころか、何か一つでも下手を打てば容易く死にかねない行為だ。そんなことを容認する親など、そうそう居るものか。だというのに、それを認めてくれない両親に、ただ拗ねて八つ当たりをしているだけ。己の幼稚さに辟易する。

 6つ年上の姉に至っては、そんなみっともない自分に味方してくれた。今使っているカメラやシューズなどの高価な装備は、その姉から贈られたものだ。


「あはははははははははは!」


 自分の癇癪を受け止めて叱ってくれる両親と、受け入れて味方してくれる姉が、嫌いなはずがなかった。

 だからこそ、己の馬鹿さ加減に引きつったような自嘲の笑みが収まらない。




―― 胸に刻め。お前は今、浅はかな衝動で家族を危地に追いやったんだ ――




 笑みから一転。カナタは歯を食いしばって、泣きそうな顔で呟いた。




「自滅なら一人でやれよ、クソ野郎…っ!」




 家出から僅か8時間。

 カナタは生まれて初めて、深く、深く。

 自身に絶望するほどの後悔を抱いたのだった。

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