第27話 春朝:南国忌、明けし01

 それは、あの夜のことだった。

 

 斎藤は、何とか戻ってきた直木三十五もとい、植村宗一が落ち着いて眠りに落ちたのを見計らって外に出る。確かめたいことがある、と言って出てきたのは嘘ではない。

 ただ、その相手が問題だった。

「あの」

 予想通りというべきか、門から少し離れたところに彼は立っていた。チャコールグレーのスーツに、スモークグリーンのネクタイ。シャツも真白ではなく淡く青が乗せられている。しゃんと立っているが、本人そのものは今もう起き上がることも叶わない身なのだ、には見えない――とはいっても尤も殆どの人間には見えることはないのだが。

「助けてくださり、有難うございました」

 まずは、感謝を伝える。

 恐らく一人で宗一がここまで辿り着くことは困難だっただろう。朧げになってしまった記憶だけを辿るように歩いてきたのは、まさに蜘蛛の糸を登るような危ういものだったのは間違いない。それに手を差し伸べたのは間違いなく彼である。しかも、一度だけでなく、二度も助けてくれているのだ。

「まあ、守ってもらっていましたからの」

 何かを含んだような笑みと言葉に、思わず小さな呻きが微かに漏れた。

 

 斎藤がこの老人に会ったのは偶然であった。

 八月、残暑の頃合いに彼等の様子を見に行く途中で出会った。資料では本来この場所にいる筈のない人物である。そして、長々と説明をすることとなったのだ。

 彼等と、彼女の関係性と、現在の状況を。

 『上司』も、この予想外の来訪者に泡を食った様子だった。まあ、彼への説明責任はある。結果的に斎藤達はこの人物を騙そうとしていたには違いないからだ。

「暫く、見守らせて頂くとしますかの」

 ゆったりと、老人は笑みを浮かべた。

「何、少しでも間違いがあれば容赦なく手段を講じるつもりなので」

 ……正直、胃がきりり、と痛んだ。斎藤の胃薬の常用数が倍以上に跳ね上がったのは言うまでもない。


「まあ、心根のいい方々で安心したというところか」

 寒空の中、吐く息は白に染まらない。彼は微笑を向けながら言葉を続けた。

「ただ。私としてもこのまま唯で全てを水に流すわけにはいかぬが」

「何を、ご所望ですか。それは私へのみに留めて頂けませんでしょうか」

 あのふたりに、此方の不手際の責任を負わせるわけにはいかない。眼鏡の向こう、きっと視線を向けると、そっと手で制される。

「何、手荒なことはせぬから、そう警戒をしないでおくれ」

 ただ。

 そこで言葉は区切られる。

「貴方には少々掛け合って頂きたいことがある。何、それで騙して私の家に住まわそうとしたことは水に流せるのだから、悪い話ではないと思うよ。私にしても、貴方にしても、そして彼等にしても」

 こくり、と唾を飲み込む。

 斎藤は次の言葉を待つべく、その横顔を凝視した。


***


 穏やかな日だった。

 二月にしては暖かく、寧ろ動けば暑いくらいで花はふう、と額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。

「花ちゃん、今日はもう大丈夫だよ」

 マスターが柔らかにそう声を掛けてくれる。有難うございます、とぺこりと頭を下げると、手早くロッカールームへと向かった。

 宗一が寝込んでいる間、仕事時間を短縮したり休みを取ることに、マスターや奥さん、一緒に働いているスタッフ一同快く応じてくれた。勿論日頃の花の働きによる信頼の高さが第一に挙げられるのは言うまでもないが、倒れているのが女性陣の間でも騒然となった『遠縁の親戚のイケメン片割れ』であったのが更に協力を得られる一端となっている。

「早く良くなると良いわねえ、またお店に来れるようになるといいわね」

「そうそう、回復なさったらご兄弟でいらしてとお伝えしてね」

 ……こんなに効力絶大なのかというくらい、彼女達は協力的であった。まあ、あの二人が初めて来店した時はそりゃあもう質問攻めにあったものだ。取り敢えず彼氏!? から始まるあれやこれやを粉砕に粉砕を重ねた努力はいつか褒めてもらいたい。

 お先に失礼します、と言いながらからん、と店のドアを開ける。あちこちで梅の花が綻びだしているのに思わず笑みがこぼれてしまう。春は、もうすぐだと思うと心は浮き立つ。

 しかし、反面春が来れば。

――あの二人は、居なくなる。それは仕方のないことだけど。

 その時、花は笑顔で送り出せるだろうか。泣かないように、ちゃんと背中を押せるだろうか。彼等は優しいから、泣いてしまったら上手く旅立てないかもしれない。

 足を引っ張るような真似だけは、したくなかった。

「しっかり、しなきゃ」

 言い聞かせるように呟くと、花は駅の方面へ足早に歩き出したのであった。


***


 ごうんごうん、と洗濯機が回る音を背景に、龍一はペンを走らせている。その様子を横でころんころんと玉のような何かが転がりながら見ている……らしい。何処に目があるのかは定かではないが、まあ見守られているのは確かなのだろう。

 しかし、それにしても。

「菊池、視界の端で動かないでくれないかなー……気が散る」

「跳ねてないよ?」

「いや、普通に気になるよ!?」

 このゴムまりフェアリーめが、と軽く睨むと、なんだいなんだい、と膨れるように菊池はぽうん、と書斎机から跳ね上がった。そのままぽんぽんぽん、と廊下に飛び出し、隣の部屋に放物線を描いて落ちていった。ぽすん、と音がしたから恐らく布団の上に落下したのだろう。やれやれ、と龍一は立ち上がり応接間から様子を伺った。居間の手前の部屋にはくるんと丸まった宗一が寝息を立てている。どうやらうなされている様子もないようだ、と確認して安堵の息をこぼした。


 帰宅した宗一は、一日の大半を眠って過ごすようになっていた。事前に見た闘病記事などで壮絶なことになるだろうと腹を括っていたのだが、予想に反して穏やかな様子で肩透かしを食らったような気分になったのは内緒である。

『まあ、君達の前では意地を張らなくて良いとわかったからかもしれないね』

 斎藤は微笑を浮かべてそんなことを言ったのを思い出す。最後まで作家であろうとした、直木三十五の最後は、まさに討ち死にに例えられた。文字が読めない状態になっても、なおも読もうとし、そして書こうとしていた。正気を失っても身体はそう、動いていたのだ。命が尽きる寸前まで、彼はとことん生きようとした。強く、あろうとしたのだ。

 ただ、今の状況は違う。生活や借金、そして自分自身の肩書や周囲の圧の中でペンを武器に戦い続ける必要は、ない。身を守る為に強い自分であろうとする必要も、ない。

 それでいいのだ。自分や、花の前でくらい、弱くてもいいのだ。


 だから、優しい時間で満ちていく、この日に感謝をしている。

 

「今日は南国忌だね」

「法要かい」

「そうだよ。こいつは寂しがりだから、一年に一回くらいは賑やかにしようって毎年人を集めて、供養は勿論だが、ゆかりの作家やそれこそ直木賞の作家などの講演会を開催したりしてね」

 今年も多分週末にやるんじゃあないかな、と菊池は続ける。

 自分が知らない風景の話をぼんやり聞きながら、龍一は寝息を立てている宗一の頭をそっと撫でた。

 と、不意に。

 その手をぎゅう、と握られる。

「うえ? あ、宗? ごめん、起こしちゃった?」

 しまった、と見ればぼんやりと此方を見上げている。意識は起きていないのだろう。それでも、龍一の顔を確認すると、安心したように表情が緩む。そして手を掴んだまま、また瞼を閉じた。そして再び寝息が、紡がれる。

「……随分と安心させられるようになったもんだね」

「安心して貰えてるといいんだけどねえ」

 掴んだ手は意外としっかりと握ってきていて、当分動けそうにはない。だが、別に少しぐらいはこのままでいいとは思うのだ。甘えてくれるなんて、そうあるものじゃない。

「芥川」

「何だい」

 ぽよん、と跳ねながら、菊池が呆れた声で続けた。


「なんて顔、してるんだい。緩みっぱなしで気持ちが悪いね!」

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