第21話 梅見月:生まれし、求めし、消えし01

 起きると、応接間の書斎机に向かう。引き出しにはメモ帳が一冊。とはいうものの、袋にすっぽり収まっているのでまだ使われているとは思わないだろう。陽がそろりと朝を連れてくる少し前なので、誰も他には起きていない。

 筆は早いと言われていた。実際早いだろうと自分でも思う。

 いつも何かに追われていた気もする。しかし、自分の筆がマス目を駆けあがっていく様は、嫌いではなかった。

 書きたいものばかりを書いていたわけではなかろうが、それでも書くことをやめなかったのは、それが己の脚でありそして己そのものでもあったからだろう。筆を持ったことを後悔したことは、ない。

 今は、追われているわけではない。

 だが、書かねばならぬと、筆を走らせた結果その早さは鈍ってないことを確認できた。

 不思議と、再び書けるとなったのに筆を取ることはなかった。追われなければ書けないものなのかとも、思った。

 ただ、書きたい時に書けばいい。それは、自分にも、そして彼にも告げた正直な気持ちだ。

 過去の生活や借金や虚像、それらの為ではなく自分の為にペンを走らせる時に、一体何を書くのだろう。それは少し楽しみでもあり、反面その時が来なかったらという不安もあった。

 しかし、今。

 筆が描くのは、彼等のことだ。

 自分の愛すべき風景だ。


 それが綺麗であったことを、書くことで確認する。

 自分の為に、そして彼等の為に。

 書き上げたそれは、手のうちに収められる。

 

 その物語を読むのが、朝の日課となった。


***


「宗一さん、晩御飯時はここにいて下さいね。いいですか、絶対に絶対に絶対ですよ!」


 朝食を食べ終わった後。花は目の前で塩じゃけを白米に乗せた宗一にびしり、と言い聞かせる。

 本日は和食で、油揚げとほうれん草の味噌汁が五臓六腑に染み渡る美味しさであったし、鮭の塩加減も絶妙で漬物の白菜も大変良い漬かり具合であった。また、温泉卵と薄味の出汁はとてもよく合っていて、最後の温かい緑茶で身体もすっかり温まった次第である。

「何かあったん?」

 首を傾げる宗一の横で、あのねえ、と白菜の漬物を箸でつまんだ龍一が溜息交じりに言葉を花から受け継ぐ。

「今日は十二日だよ? 二月、十二日!」

「二月、十二日」

 ううん、と唸りながら鮭と炊き立ての米を口に放り込み、暫し咀嚼タイムに入る。そしてこくりと呑み込んでから味噌汁をずずーっと啜って一息ついてから。

「って、何の日やったっけ?」

「君の!」

「宗一さんの誕生日! ですよ!」

 そんな盛大なボケは要らない。思わず握り拳で叫んでしまったが、当の本人は本気で首を捻っているからタチが悪い。人のことは良く気が付くのに自分のこととなると無頓着になるのは、本当にどうにかならないものか。

「本当さあ、そういうの良くない」

「自分の誕生日くらい認知してあげて下さい」

「俺の誕生日とか別にどうでもええというか……って、何やその隠し子発覚みたいな言い回し」

 誰がそう言わせてるんだと言いたい、けれどもきっと言ったところで首を傾げるだけだろう。流石にそろそろわかってきている花はこくり、とツッコミの言葉を飲み込んだ。その代わりに、宣言はさせて頂く。

「兎も角! 今日の晩御飯は! 私と! 龍一さんが頑張るので!」

「ああっと! 宗、幾ら何でも僕も学習したよ! ちゃんと台所用品を破壊しないくらいもう出来るから!」

「いや普通はそこでドヤ顔はせえへんからな? 破壊はせえへんのが普通やからな?」

 この台所に龍一を立たせることに関しての危機感は、実際立ち会ったことがあるからだろうが、今日は自分がいるから大丈夫だろうと思いたい。

 力が入っているふたりを、ふぅん、と珍しいもののように暫くじいっと見つめていたが、ふ、と唇を微かに綻ばせる。

「――期待しとこか」

 少し明るい色の入った声に、龍一の方に思わず満面の笑みを浮かべてしまう。龍一の方も同じように嬉しそうに笑って返して、それを微苦笑で宗一が眺めている、という風景。すっかり、三人での生活が当たり前になっていることを感じながらも、花は彼等と会ってからもう一年が経過している事実をゆっくりと噛み締めた。

 つまりは、この生活ももう少しで幕を閉じる、ということを意味している。

 寂しくなるだろうな、とは思うし今から考えるだけでも、寂しくて仕方がない。しかし、それでも。

――ふたりが次に進む一歩が、楽しみになるように、今、この一瞬一瞬、楽しい時間を重ねていきたいな。

 引き合わせたことに、何か意味があるとするなら。

 このふたりに、自分が会ったことが先に繋がるのならば。


「楽しみにしてて下さいね!」


 花は、力いっぱいに宣言する。『ふたり』に向けて。


***

 

 花達が買い物に出かける支度をしている最中、破鐘のような呼び鈴が玄関に鳴り響く。ふぁい、と気怠い身体に鞭を打ちつつ出ていくと、戸の向こうには腹が立つほどに朗らかな笑みを浮かべた男が荷物を抱えて立っている。

「……新聞は間に合ってるんで」

「ちょっとちょっと直木さんちょっとそんな素早く閉めないで下さいってば」

 閉まる前に斎藤ががしっと戸を押さえてきたので、壊れるのも怖いとすぐに手を離した。

「何の用や」

「何の用って、そりゃあ」

 何を言っているんです? とでも言いたげに斎藤が眼鏡の縁をくい、と上げる。ぱたぱた、と宗一の背後で軽やかな足音が聞こてきた。

「あ! 斎藤さん! いらっしゃいませ!」

「花さん、本日はお招き有難うございます」

「……へ?」

 まさかの家主がご招待であったことに、間抜けな声を上げてしまった。それに目の前で微苦笑がこぼれる。

「この方誕生日にお祝いされると露ほども思っていなかったでしょうしねえ」

「今日は、ご馳走の日なので斎藤さんもお呼びしたんです!」

 しかしそれにしたって、時間が早すぎやしないかと突っ込んでいいんだろうか。いや、今はやめておこうと回転が若干鈍くなっている頭の中で結論づけた。

 まあ、多分。

「主役が家に独り留守番ってのも寂しいので召喚された、というところですか」

「大体そんな感じですね」

 斎藤茂吉、暇人か。いや、恐らく花の頼み事だったのもあるのだろうし、まあ日付が日付だからそろそろ注意しておきたい、という思惑もあるのだろう。

 お試し転生、という仮初の生である自分や龍一が一番揺らぎやすい『命日』、その宗一――もとい、直木三十五の命日が二十四日なのだ。誕生日から約二週間後、同じ月に生死が重なっているというのも何とも皮肉ではある。

 今の所、まだ。まだ、大丈夫だ。

 薬に関しても、それ以外に関しても、まだ彼等には気付かれていない。気付かれていたとしても、軽度で済んでいると思われているのは、宗一からすれば助かる話であった。こんな自分は、彼等は知らなくて良いのだ。

「まあ、そんなわけで暫しお邪魔しますよ」

 ぺこりと軽くお辞儀の後に言われてしまえば、家主の正体でもあるし帰れとも言えない。まあ、別に家に上がるのは初めてでもないし、嫌なわけでもない。宗一は上がり、とだけ言うと居間の方へと戻ることにしたのだった。


 花と龍一が出ていき、ぴしゃん、と玄関の戸が閉まったと同時に、すとん、と和座卓の向かいに座った斎藤は出されたお茶をずず、と啜りながらにこにこと言葉を紡ぐ。

「直木さん、少し寝てもいいですよ。私もいることですし」

「んあ? そんな気遣い別にせんでも」

 続けようとした言葉を遮るように、とん、と机の上に小さな箱が置かれた。それは、宗一には記憶にあり過ぎるほどで。

「そろそろ要る頃合いかと」

「……斎藤」

「そんな怖い顔をしないで下さい。花さん達には言っていませんし、私とて菊池さんがびょんびょん跳ねながら薬箱の話をしてきて初めて思い当たったくらいなのですよ」

「……菊池」

「今はご不在です。握りつぶしちゃ駄目ですよ、彼も貴方が心配で仕方ない故ですから」

 まあ、正直追及がよく今までなかったものだとは、思ったが。逆に、良く薬だけで済んでいるとすら思う。斎藤は精神科医だ。心の機微には敏いであろうし、専門分野である男に太刀打ちなど出来るわけないのは、宗一が一番理解している。

「心配かけたくないのでしょう? 彼等がいない間に薬を呑んで、少し眠りなさい」

「……それはセンセの診断か?」

「今出来る範囲での、応急処置とでもいうところでしょうかね」

 まあ、見逃してくれるわけはないだろうというのもわかっていた。寧ろ今、詰められないのが不思議ではあるが、誕生日の祝いの席で揉めることも花や龍一のことを考えればあまり得策でもないだろうし、まだ日があるというのもきっと、緩めてくれている理由のひとつには違いない。

 ならば、ここは素直に言うことを聞いておくほうが得策だ、と判断する。

「なら、お言葉に甘えさせてもろてええか」

 すっくと立ち上がり、斎藤が持ってきた頭痛薬をポケットに入れる。台所へ入るとずくん、と殴られたような鈍痛が、頭部を走っていった。く、と奥歯を噛み締めてから、息をゆっくり吐く。まだ、まだだ、大丈夫、と何度も心の中呟きながら錠剤をふたつ、手に乗せてから口の中へと放り込んだ。そしてグラスに注いだ水をくい、と一気に飲み干す。


 それはすうと、真っ直ぐに身体を落ちていく。まるで、貫く冷徹な芯が通るように。


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