第16話 晦日:暮れる年、はぐれる君へ02



 ずきん。

 頭の奥で、鈍い痛みが湧き上がる。決して酷くはないが、かといって放置しておいて悪化されても困る。さて、どうしたものかと考えて、宗一は着てきたコートのポケットを探る。

「……ちと煙草買うてくるわ」

「あれ、吸ってたの」

「たまァにな。家ん中やと臭いつくし外でしか吸わん」

 かたん、と立ち上がりコートを羽織って財布を手に出てくる。ドアの手前でマスターがおや、と顔を出してきた。

「外に出てくるのかい?」

「ああ、すいません。すぐ戻りますんで」

「待たせてすまないね。もう少しで振る舞えるんで、早めに戻って頂けると助かるかな」

「わかりました」

 蕎麦は伸びたら不味くなる。折角の手打ちが勿体ないし、早めに戻ろうと早足で外に出た。まだ、雪はちらついてはいるが傘がいるほどではない。確か大晦日でも開いていたドラックストアがあった筈だ。

 ずくん、ずくん、と。規則正しいリズムで、痛みが刻まれていく。これ以上酷くなると厄介だ。ち、と小さく舌打ちをして、一歩進んだ時。

 かこん。と、軽い音を立てて、何かが頭に当たった。

「ッ、痛ぅ」

 微かな衝撃にも頭痛が反応し、顔をしかめる。この辺りは鳶なども飛んでいるから、何か獲物でも落下させたのかと見上げたが曇天しか見当たらず鳥一匹姿はない。そして、足元に転がっている小さな『それ』を見つけ、再び顔をしかめることになった。



「直木! 蕎麦が出来る前に戻らないとバチが当たるぞ!」



 甲高い声が降ってきて、頭の上でぽよん、と跳ねる。

「ッ……! お、ま! 降ってくるんやないッ」

 いくら妖精のようなものといっても、質量はある。頭の上で跳ねられれば刺激になりうるのだ。しかし店の前で蹲るのは見つかる可能性がある。宗一は慌てて道を外れ隣の駐車場に足を踏み入れた。店用の小さな駐車場は車が二台ほど入れば満杯で、今日も半分はマスターの愛車が陣取っていた。

「はー……ほんま、見つかったらどないするつもりやねん……」

 二重の意味を込めて、指で摘んだそれを軽く睨みつけた。ぷにぷにしている。確かこんな形の羊羹があった気がする。風船羊羹と言っただろうか。

「楊枝でプスッ刺すと中から羊羹出てきて食えるんよなァ」

「待ち給え! 痛いじゃないか!」

 不穏な気配を察知して指の中でぐにぐに動く。感触が気持ち悪いので指を離してやると、ぽよん、と跳ねて今度は上着のポケットにすぽん、と一発で飛び込んだ。ナイスシュート、というべきなのか。

「で? これはどういうつもりや、菊池」

 ぽつりとそう問い詰める。宗一が手にしたそれは、先刻降ってきたもの、であった。

 頭痛薬。宗一が買おうとしていたメーカーのもの、である。

「探してたんだろう? 薬局は夜の七時で閉店だから買っておいてやったんだ」

「…………あんたが?」

 この球体、買い物が出来るのか。いやそれ以前に騒ぎになっていなかっただろうか。真顔になっていく宗一にけらけらと甲高く笑いながら、菊池はいいや、と続ける。

「薬箱に頭痛薬がなかったんだ! って僕が騒ぎ続けたら、やれやれといった風で斎藤くんが買ってくれた! 後で品代は渡してやってくれないか」

「奢りやないんかい」

 ここで裏拳で突っ込みを入れたら、すっ飛ぶんやろな――と思ったので、それは我慢する。張り飛ばされる危機を回避したとも思っていないであろう菊池の言葉は続く。



「切らしてたのは事実だろうに。随分呑むじゃあないか」



 嗚呼。

 この男は、今でも自分をよく見ている。



「……言うんやないぞ。単なる疲れやろし」

 釘を刺したのは、斎藤に知られると面倒なことになる、と考えたからだ。あのふたりには、余計な心配をかけたくない。最初の頃、まだ慣れない生活に戸惑い、花との関係にも戸惑っていた頃合いに、不安定に呑まれている暇などなかった。事実あの時に頭痛があったところで、薬などまだ必要はなかったし、だから。

 三月まで滞在が延長になった時も、大丈夫だろうと思っていたのだ。

「あんまり芥川やあのお嬢さんを侮らないほうがいいと思うな」

「別に、そんなつもりやない」

 簡単に煙に巻ける相手じゃあないことは、わかっている。いつも間近で見ている相手であるし、ふたりは揃って勘も鋭い。だからこそ、最初から頭痛をおくびにも出さないでいた。一端でも見せれば、彼等はすぐに察するだろう。芥川は身を以て理解している。花は、自分達をずっと見守ってくれているから。

「変な負担はかけとうない」

 それが、本心だった。

 本来の自分が、面倒が過ぎる男なことを、宗一自身が一番思い知っている。甘えたがりの、寂しがり屋。独りでいるのが寂しくて、賑やかな人の声に安心をしていた。かつての晩年、家よりも文藝春秋倶楽部という、社交場として開かれた建物の二階にいたのも、誰かしらがいるからだった。しかし、結核という病は人から人へと感染り、蝕んでいく。自然、周りから人は遠ざかる。

 しかし、ひとり。物好きな男は、足繁く自分の元へと通い続けた。

 新聞の原稿が捗らないからな、君を見ながら書くことにした。そう甲高い声で笑ってから、原稿用紙を傍らで広げた。時折煮詰まったな、となるとどちらからともなく、碁盤を持ち出してくる。やがて手直り表で勝敗の記録を付けるようになった。最初は優勢だったが、段々痛みで意識が断続的に途切れ、そして思考がまとまらなくなってきた頃には菊池の方が勝っていた。

 仕方ない、とは思っていた。何処かでわかっていたのだろうと、今はわかる。もう戻れないところに足を踏み入れていた自分の時間が、そう長くはないことを。

「菊池」

「うん」

「昔、倶楽部で碁打った時。お前、勝ってたんに嬉しそうな顔、せえへんかったな」

「……そりゃあ、そうだよ」

 ポケットの中で、くぐもった声が応えた。恐らく、本人以上に理解する羽目になっていたのは想像に難くない。あの自分が蝕まれていた病は、脳を、思考を、喰らい続けていたのだ。その変化を、いつも向かい合っていた男が気付かないわけが、ない。

 だから、これ以上は口にするまい。宗一は唇をきゅっと結び、歩き始めた。

「何処に行くんだい」

「阿呆ゥ。戻ってから呑んだら、バレるやろが。煙草も買って、ついでに水も買って呑んでから戻るわ」

「……僕ァちっちゃいチョコレートでいいよ」

「俺が奢る前提なんかい!?」

「報酬としては安いくらいだよ」

 あーあー、わかったわかった。そう呟いた声は、白い息となって薄暗い色の空へ昇っていく。それとすれ違うのは天使の羽の真白のような、綿雪だ。

「さむ、早ぅ戻ろか」

「だねぇ」

 頭の痛みは先刻よりは大分マシになったようだ。今のうちに動こうと、足取りは早くなった。

  

***



  かろん、というドアの音と共に宗一が帰ってくるのを見て、花がかたんと席を立ち走り寄っていくのを龍一は目で追っていた。

「わぁ冷たい! 冷蔵庫の半チルドに入ってる豚肉みたいじゃないですか!」

「その例えは嫌やな!?」

 ……うん、僕も嫌だな。遣り取りを聞きながら思わずこくりと頷いてしまう。賑やかさが戻ってきたのを察知して、奥からマスターが顔を出す。

「ああ、おかえり。寒かっただろう? 蕎麦はすぐに茹で上がるからね。少しだけ待っていると良い」

「待たせてすんません」

「いやいや、気にしないでいいよ」

 柔らかな笑みで返してくれたのに一礼してから、宗一が席に戻ってきた。そして、テーブルの上を見てぱちり、と、目を丸くする。

「時間的にそろそろかな、って話してた通りで良かった」

「……おお、すごいな」

 そうでしょう、と自分が用意したわけでないのに得意げに返してしまう。

 テーブルの上には宗一が持ってきたお重の惣菜の他に、からりと揚がった天ぷらの山と、一口大のシンプルな丸いドーナツの山が新たに加わっていた。先刻マスターの奥さんと花が厨房で揚げていたものだ。

「ドーナツは私が揚げました!」

「ほぉ、すごいなあ」

 ふ、と宗一の表情が柔く綻ぶのを横で見ながら、密かに小さく息を吐く。

 いつもと変わらない。変わらないけれども、内部では変化があるだろう。宗一、もとい直木三十五はそういう男だ。内のものをずうっと隠して、笑う顔だけを見せるような。隠すことに長けているような。

 ただ、自分もそうありたかったと思う。似たようで違っていて、そしてやはり違っていた龍一には何となく、その気持ちは理解していた。彼の本来はもっと違うところにある、ということも。

――不本意だけど君と僕は、やっぱり似ているのだろうね。

 だから、わかる。

 自分は隠せなかったものを、この男は綺麗に隠しているということを。

「何ぼうっとしとん」

「……いや、蕎麦もうすぐだなって」

 そう反射的に返したのと、おまたせしましたぁ、という奥さんの声が聞こえてきたのはほぼ同時だったか。

「お蕎麦、綺麗に出来ましたよ」

 とん、と目の前にざるがひとつ、置かれる。

 そこには細く、艷やかな蕎麦の丘があった。

「わぁ、美味しそうですね」

「お汁は関東なので、蕎麦を全部つけてしまうと味が濃すぎますからね」

 注意が入ったのは、恐らく宗一へなのだろう。関西は薄味でよく東京のうどんは醤油のように汁が真っ黒だ、と揶揄されているのをテレビでよく見ていたが確かにそれはそう、だろう。ただ、蕎麦の香りには薄味は負けてしまう。濃い醤油の強い汁に、少しだけつけて一気に啜るのが一番美味しく香りも楽しめるのだ。

 意外なことに、宗一は慣れた様子で蕎麦に少しだけつゆをつけてから、ずず、と啜っている。

「ん、美味ぁ」

「塩っ辛くないです?」

「ああ、蕎麦は東の黒い汁の方が合うのはわかっとるからな」

 どこぞの誰かに良ぅ連れて行かれたもんや、とちらりと視線が此方を掠めた。ああ、うんそうだねえと思いながら、えへ、と笑って龍一は天ぷらへと箸を伸ばした。海老は綺麗に揚げられていて尻尾も綺麗に処理されているので、余すことなく食べることが出来る。変わり種としては餅を大葉で包んで上げたものが、なかなかに美味しく箸がついつい伸びてしまう。勿論鱚などといった天ぷらにはお馴染みの魚、貝柱と玉葱と人参のかき揚げなど、ボリュームも満点だ。

――そういや、宗を連れて行ったなあ。

 田端の気に入っていた蕎麦屋を思い出す。今でもまだあるのだろうか。あそこは、仲間内は大体連れて行ったし、その中には直木三十五、もとい植村宗一も連れて行ったことがある。もし、覚えていたら一緒に行ってまた蕎麦を食べたいとも思う。懐かしい、と笑ってくれるだろうか。

 蕎麦も殆ど腹に収まり、蕎麦湯で身体を温めている最中、ごおん、という音が遠くから聞こえてくる。蕎麦に、天ぷらに、はたまたお重の総菜や菓子にとあれこれ楽しんでいるうちに結構な時間が経過していたようだ。

「もう年明けちゃうんですねえ」

 花が笑って、自分と宗一をそれぞれに見て。そして。

「今年もお世話になりました、来年もまあ宜しくお願いします」

 ぺこり、と頭を下げられたのに一瞬迷ってしまった。

 来年、しかもそんな遠くないところで、自分達はこの子の傍から離れてしまうというのに。安易に頭を下げてしまっていいものなのか。

 しかし横で躊躇いなく、宗一の頭がぺこり、と下がる。

「せやな。花にゃ世話になったし、まあ来年も世話かけるやろ。よろしゅうな」

 ああ、そんなに柔らかい笑みで言われては自分が迷ったのが、ちょっと恥ずかしいではないか。

「僕もよろしくしてほしいな! ふたりとも!」

 思わずぷくりと膨れて主張すると、一瞬目を丸くしてから、揃って吹き出される。

「いや、龍一さんかわ……可愛い……っ」

「おま……ガキやないねんから……ふぐかっちゅうの……ッ」

 可愛いとは心外な。ますます膨れる龍一の背後で、ごおん、とまた鐘が新しい年の来訪を告げたのだった。



*** 

 

「宗」



 声を掛けられ、振り返るとはい、と小さな袋を手渡された。それがお守り袋だと気が付いて、首を傾げる。

「なんや、これ」

「お守り」

 ふにゃり、と顔を笑みで咲かせながら、龍一はこてりと小首を傾げて言葉を続ける。

「それね、僕の手作りなんだよ。なかなかの出来でしょ」

「ほぉ、縫物綺麗にやるもんやなあ」

 僕だってやればできるよ! と力強く言われて、わかったわかった、と手で制する。しかし、お守り袋とは、また。

 恐らくは、龍一だからこそわかることなのだろう。かの日は自分達にとっては『弱味』でもある。神頼みというのは当てにはならないが、まあ気持ちは貰おうという結論に自分の中で落ち着いた。

「まあ、有難う。貰ておくわ」

「うん」

 嬉しそうにしているので、悪くはないだろう。

「もし、宗が大変だな、きついな、しんどいなって時には、それ中開けていいやつだからね」

「へ?」

 思わぬ言葉に目が点になる。

「あ! 今とか駄目だからね! ピンチの時に見る奴なんだから! わかった?」

「お、おう……怖いな顔」

「怖い? よし、僕にも迫力ある顔が」

「いやそれはないな」

「どうして⁉」

 きゃんきゃんと吠えるのをまた手で制しながら、宗一はポケットへお守りをそっと入れる。どんなまじないを仕込んだのかはわからないが、まあ、開けないに越したことはないだろう。



 開ける時など、無い方が良い。



 自分が強くあれば、必要はないのだ。

 密かなる溜息が、唇から微かにこぼれ落ちた。

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