第13話 師走:フライング・サンタクロース03

 カレンダーを見上げれば時の流れの早さを実感する。

「クリスマス、か」

 花は朝からバタバタと慌ただしくコートを掴んで出ていった。昨日あたりから帰りが遅くなり、連絡を受けた龍一が迎えへと出ていた。年末はやたらと物騒になるし、人も忙しない故に苛立っている。普段平気なことでも平気ではないという状況もありうるし、冬は日が沈むのも早くこの辺りも外灯があるとは言え山が隣接している為、闇が一層深くなるのだ。そんな場所を一人で歩かせるのは宗一も龍一も回避したい。

 指で辿ればクリスマスイブは、もう明後日に迫っている。クリスマスが終われば大晦日、正月、それが終わったら。

 そこまで思考が巡ったところで、宗一の唇から自然溜息が漏れた。ずるり、と何かどす黒い何かが這い上がるような気が、する。ずくん、という小さな棘の刺さったかのような痛みが頭を突き抜ける。ああ、これは。


「直木! 甘いものはないのかい? あんぱんとか!」


 きん、と頭痛を上回る甲高い声が頭、いや鼓膜に刺さった。

 ぽよん、と丸い何かが、肩で跳ねる。え、待って何。

「菊池、おまッ何でここに」

 斎藤の傍にいるのを条件に、ゴムマリの精霊と言われても仕方のない姿で留まっている菊池寛が、ぽよん、とまた宗一の肩で跳ねる。かつての仕事仲間、親友の変わり果てた姿にツッコミも引っ込むしかない。

「斎藤くんが人と会っているから、ヒマなんだ。そしたら直木んとこに行けば良いって」

「待て待て待て! この姿を龍に見られたら俺はどうしたらええんや? 庭に投げたらええんか?」

「ひどい奴だなあ!」

 別の意味で頭痛を起こしそうだ。こんな姿を見せたら、芥川龍之介――龍一は卒倒するに違いない。かつての親友がゴムマリとかどんな業を背負ったらそんなことになるのかと頭を抱えそうだ、とまで考えてから、はたと我に帰る。

「せや、買い物せな」

「……すっかり主夫が板についているじゃないか」

「やかましい、これが俺の今の仕事や」

 財布とトートバックを手にしてから玄関へ向かう。壁に掛けてあったコートを手にしながら、先刻の薄暗い頭痛が遠ざかっているのに気がつく。それに密かに安堵しながら、宗一はコートをしっかり着込んだ。と、同時にぽよん、と勢いよく跳ねた菊池が、ずぼっとポケットに飛び込んだ。

「上手く入るもんやな。なんやもうゴムマリでええんと違うか」

「よくないよ!」


 師走の賑わいは他の季節のどの時間にもない、独特の忙しなさがある。空気が常に沸き立っている、という表現が一番適切なのかはわからないが、駅前の方まで行けば人の波が忙しなく飛沫を上げていた。その中を宗一もまた波の一部として溶け込んでいく。

「直木、何処に行くんだい」

「そろそろクリスマスの買い物やらしとかんとな」

「鶏の丸焼きかい? あれはいいね!」

「あれはウチでは出来んやつやぞ」

 ポケットの中でぽそぽそと高い声が話しかけてくるのにぽそぽそと応えつつ、地元密着型のスーパーへと入っていった。

 クリスマスにはケーキだが、ケーキはもとよりチキンも花の勤めているカフェで作るらしい。後者は完全にマスターの奥方が私的に焼いたもののお裾分けだそうだから、代金にお礼分も加えねばと考えている。当然、龍一も取りに向かわせるのは言うまでもない。

 ともあれ、クリスマス、といっても宗一がやることといえば、前菜的なものを作るくらいで実際そこまで立て込んでやることはない、と並べられた新鮮な魚を見ながら思い至った。寧ろ忙しいのは大晦日に正月ではないのか。そも、花はおせちを食べるのか。聞いた生活ぶりだと、どうも食べていた形跡はないようではある、が。

「なおき」

「んあ?」

 魚を眺めている宗一に、少し声を潜めて菊池が話しかけてくる。微かに躊躇いの沈黙が流れたが、それは自身の声で打ち破る。

「――君は、今小説を書いているのかい?」

「いんや」

 即答であった。

 ポケットの中で小さく震えたのがわかる。まあ、そりゃあそうか、と苦笑いが込み上げてきた。

「前に、ぎょうさん書きすぎたんかな。今は落ち着いてもうたのか、こう、書こうってのがなくてな」

「そうか」

 多分、この答えを聞けば、菊池だけでなく『直木三十五』を知る者は皆困惑するだろう。おそらくは、龍一――もとい芥川龍之介も。

 ずっと走っていた気が、する。原稿用紙の上を、ペンで。その足跡は癖のある小さな文字であったし、インクであった。直木が書いた作品はその作家人生の長さから考えるとかなり多い部類だ。実際、匿名で引き受けていた原稿を合わせれば現在認識されている以上に書いているだろう。

 確かに、ずっとずっと、それこそ死ぬ間際まで書くことばかりを考えていた。

 生きる為に書き続けていた。野垂れ死ぬわけには行かなかったのだ。あの頃には養うものが沢山あったし、己の借金も膨大にあった。書けば、金になる。自分の筆は己の為に、そして自分の元にいる人達の為にとひたすらに原稿用紙のレールを爆走したのだった。

 そんな書き方をしていたせいなのか、否か。

 このお試し転生とやらで、新しい生活を始めた宗一はペンを持つことをしなかった。それは龍一も同様ではあるが、彼の場合は辿った軌跡を考えればそこまで不思議ではないような気はする。それにあの頃も思ってはいたが、別に書けない時はペンを置いてもいいのだと思った。どうせ、ずっと置いているわけでもあるまいに。

――あいつは『書く男』やからな、書きたくなったら書くやろ。

 過去もそうであったように、今もただ待つだけだ。転生して少しした辺り、誕生日に原稿用紙とペンを贈ったことがある。あれだって、急かすのではなく『書きたくなって何も手元になかったら困るに違いない』と思ったから、選んだのだ。

 さて、自分はどうなのか。

 宗一は、ぼんやりと頭痛の向こう側で考えることがある。ずくずくと疼く先に文字はあるのだろうか、と。

「ま、そのうち書くんやないかな」

「その時は僕に是非見せてくれよ」

「気が向いたらな」

 その時に、この男はそこにいるのだろうか。否、と心の中で即答する。寧ろいてはいけないものなのだ。菊池は既に新しい道を一歩踏み出しているのだから。

「鰤にしよか」

「芥川かい」

「大根と炊くか、照り焼きにするか迷うとこやな」

 そう言いながら切り身のパックを手に取る。確か先日花の母親からじゃが芋が一箱届いていた。消化しないともれなく芽が出てくるから、それで一品作ることにする。それこそ煮物でも良い。そうなると同じ煮るものよりは焼き物の方がいいだろう。

 今晩の献立が決まったところで宗一の足は菓子パン売り場に向かった。ポケットの中にいる親友兼ゴムマリにもあんパンくらい食わせるくらい、してやってもいい。なんて。


***


「なあ、龍一。なんか良い知恵はねぇのかね」


 レジの横の椅子に目の前にずどん、と腰を下ろすのはがっしりした身体つきの『爺さん』と呼ばれる年齢の男性だ。店内に客はおらず、普段店番をしている富美子は買い物に出ていて不在だ。と、いうよりは、彼女が出ていくのと入れ替えに彼はやってきた。

「……自分の奥さんの趣味くらいわかるでしょうに。大体僕に富美子さんのこと聞かなくても、自分で聞けばいいじゃないですか寛次郎さん」

「聞けるか! 今更!」

 桜の季節、この懐古洞の店内で呻いていた主人――寛次郎はじとりと半眼で若き店番を軽く睨みつけた。始めて名前を見た時、揃いも揃って懐かしい音や名前を連れてくる御夫婦だと苦笑いした記憶がある。しかし付き合いも長くなればそれらも馴染む要素となるものだ。この強面の主人が、店を覗いた子供に大泣きされて密かに落ち込む背中や奥方の買ってきた羊羹を顔を緩ませながら一本食べ尽くすところを見れば、睨まれたところで怯む理由はない。

――まあ、僕よりずっと若いし。なんていうのは今は言えないけど。

 そして、奥方もとい富美子にお見合いした瞬間一目惚れしてからずっとずっと一筋で、クリスマスプレゼントで頭を悩ませる辺りは愛らしいし、好ましいと思うわけで。

「昨年は何を差し上げたんです?」

「……まふらあ」

「じゃあ、今年はそれに合わせる何かにすればいいんじゃないんですかねえ。帽子とか」

「俺にそのセンスがあると思ってんのか」

「それ僕に答えさせるんですか」

 先日富美子が買ってきた最中を二人でぱくつきながら、そんな問答を繰り返す。この手のタイプは確かに女性ものの何かを買いに行くだけでも相当の勇気を要するのは、龍一でも簡単に想像がついた。相当の照れ屋だ、と思う。

「お前さん、その顔だ。相当色んな女と付き合ってるだろ、何かいい知恵出てこねえのか」

「いやいやいやいや顔面でそんなこと決めないでくださいよお、僕はアドバイスできる経験値はありません」

 今は、という言葉を心のなかでこっそりつけたした。あの頃はまあ、うん。うん。

 あーどうすりゃいいんだァ、と呻く横で、龍一はレジ前の机の上に積んである本をとん、とまとめる。これから本棚へと収めるそれらの中に、色鮮やかな写真が印刷された紙が挟まっているのを見つけた。そっとそれを、指で引き抜く。

「へえ、美術館のチラシかあ」

「……ああ、あそこじゃねえのか。八幡さんのとこにあるだろ」

 記憶の中、それを手繰り寄せる。確かに鶴岡八幡宮の敷地内には美術館がある。近年建築家の手により美しく生まれ変わったと花から聞いたのを思い出しながら、龍一はふぅん、と展示案内を眺めていた。引き抜いたのは、その美術館で発行した期間限定展示の目録らしい。

「へえ、この展示。今年のやつですね」

「あ?」

「丁度いいんじゃないんですか? 美術館なんて連れて行ったことないんでしょうし」

 ぺらりと見せて、そう提案すれば寛次郎のしわしわな顔が梅干しが如く赤くなった。浸かり過ぎで塩気が心配になるレベルだ、なんて言えば怒鳴られるのは明白だったので、こっくんと言葉を呑み込む。

「ばばばばばばばば馬ッ鹿言うんじゃねえよ! 柄でもねえ!」

 ぶんぶん首を横に振り、悲鳴に近い声が上がる。どうもこの照れ屋の親父さんは、ロクに自分の奥方様に気が利いたことがなかなか出来ないようだ。昨年の『まふらあ』が非常に頑張ったのだな、と理解してしまう。

「柄か柄じゃないかは富美子さんが決めるんじゃないんですか? 難色を示したらそれこそ鶴岡八幡宮のお参りをして美味しいご飯と甘味を食べればいいじゃないですか」

「お前よくそんな歯が浮いたような考えがポンポンポンポン浮かぶな……生まれながら与えられた奴め……」

「ここは顔面関係ないでしょ。っていうか顔面全てで富美子さん僕が貰ってちゃってもいいんです?」

「はっ倒すぞアレは俺の嫁さんだ」

 あ、そこは素直なんだなと微苦笑してしまう。

 ばしっと龍一の手から案内のペーパーを奪うと、寛次郎はうんうん唸りながらも鮮やかな絵画の写真を睨みつけていた。それを見ながらもうひと押ししてやるべきか、と考えながらぱくり、と最中の最後のひとつに手を伸ばす。

「龍一」

「はい?」

「そいつァ半分にしろ」

「はいはい」

 ぱかり、とふたつに割ると、包装していた和紙で包んで手渡す。それを一口かしり、と噛んだ辺りで寛次郎はお前こそさあ、と急に話を振り出した。

「彼女放っておいていいのか、色男」

「……へ?」

 最初、自分に向けられた言葉とは思わず思わず呆けた声で返事をしてしまった。

「ホレ、あの、佐藤んちの花ちゃんだよ!」

 そして続いた言葉で、ああ、と漸く合点する。

「いやあの娘は昔から、まあ爺さんについてきた小さい頃から俺ァ見てるんだ。まあ、顔面は申し分ないがあのお嬢ちゃんを泣かせるような無粋な真似をしねぇかどうか、心配しちゃあいるんだぞ」

「盛り上がっているところ申し訳ないんですが、彼女じゃないんですよね」

「あ?」

 これはものすごい誤解を与えてしまっている、と流石に真顔になってしまった。

「親戚の可愛いお嬢さんですよ。寧ろ僕やもうひとりの彼からしたら、保護者目線ですから」

「マジか、そんな清らかたァ」

「そんな手なんか出したらまず宗に殺されますからね、あと花ちゃんのお母さんにも」

 最近特にここに顔を出してくる頻度が高かったのもあるだろうし、富美子からも帰りに迎えに行っている話も聞いていたのだろう。そこだけ聞けばまあ、発生してもおかしくない誤解ではある。

 そもそも、花の生まれた年を考えれば自分達からしたら曾孫ほどの年齢差だ。孫可愛がり的な親愛が生まれているのは認めるところだが、少なくとも爺さんの考えているような、そんな色気のあるようなものではない。

 大体。彼女は、恩人でもあるのだ。

 生きることに足踏みをしている自分達の仮宿を提供してくれているという意味でも、自分達の正体を知っても信頼を下げずに向かい合ってくれていること。更に言えば、自分達を『作家』ではない存在として認識してくれているということも。彼女は、ひとりの人間として見てくれていることがどれほどに有難いか。

「でも、まあ。クリスマスプレゼントは考えなきゃならないんですけどねえ」

「おうおう、そりゃあそうだろうよ。喜ばせねえと俺が許さないぞ」

「いや、寛次郎さんはまず富美子さんを喜ばせる方を優先してくださいよ」

 ふん、と鼻息を荒くしながら圧をかけてきた寛次郎にぴしゃり、とそう返すと、最後のひとくちを味わうべく、最中のかけらを口の中に放り込んだのだった。

 店の入口から、吹き込む風は冷たい。

 ああ、あのふたりが暖かい場所にいるといいな。そんな思いが、龍一の胸の奥を通り過ぎていった。

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