第11話 師走:フライング・サンタクロース01

 斎藤茂吉は、悩んでいた。まず、この寒さに辟易としていたし、厚手のコートの下にはハイネックのセーターも着込んでいる。もっと言えば、ヒートテックという暖かさを保持するというものがこの時代には存在していて、本当に未来はすごいものだと実感しながらそれも着ているわけで、そこまでしないと耐えられないという事実に溜息が止まらない。

 それにここにきて、難題が一気に揃ってやってきた。師走、とはよく言ったものだ。先生も走る、その先生に医者も含まれているのだろうか。

 相手が患者であれば寄り添い、向かい合い、共に悩んだだろう。相手が歌人であれば、歌を交わし、互いを評し、互いの言葉の心地よさを分かち合うのだろう。しかし、今目の前にある問題達は揃いも揃って難題である。寄り添ったり分かち合ったりしたとて、解決にはならないものばかりだ。

「随分と浮かない顔をしているじゃないか、斎藤くん」

 ふわんふわんと丸いゴムまりの妖精的な何かが、ぽこんぽこんと上着のポケットの中で跳ねる。

「問題ごとが多いんですよ……」

「鰻食べればいいじゃないか!」

「いやうな重は万能食ですけど! だからといって厄介ごとが消える魔法ではないんですよ」

 はあ、とらしからぬ深い溜め息をつく。そもこのゴムまり――菊池寛だって想定外ではある。本来ならゴムまりの妖精になっている場合ではない。新しい人生できゃっきゃとベビーライフを楽しんで然るべきなのに、こんなところにとどまっているのだから。

「貴方もですが、直木さんのこともありますし」

「直木なあ。芥川の時を考えると、油断が出来ないというべきだねぇ」

 ぱゆん、と蠢きながらも高い声に憂いが含まれる。そも、彼がこんな姿になってまで留まっている理由は『彼ら』への心配故、ただひとつだ。そしてそれも、斎藤の心配の種であった。

「予定外、だったんですよ……きっちり一年、それで終わればよかったものを、お上の気紛れで」

「やはり乗り越えなければならないから、ではないのかい?」

 ポケットからぽよん、と飛び出し、斎藤の目の前でワンバウンドして、またポケットに戻る。もぞもぞ、と動きながら菊池は中でくぐもった声で続けた。

「芥川も越えたように、直木も越えなければならないのかもしれないね」

「越える、か」

 そこで頭によぎるのはあの、芥川との会話だ。


『何故……か』

『僕の体験ですし、個人差があるとするならば、宗への影響はさほどのものではなかったかもしれない。でも、もしそうでないとしたら、僕は色々策を講じなければならない。直木三十五は、食わせ者だから』

『確かに。君も大概攫われそうになったからね。まあ、特に影響が強かった可能性は高い、が』

『だから、斎藤さんにも話を聞いてもらおうと思ったんだよ』


 あの時、彼は何と言ったか。


「……今は結核性髄膜炎というのだったかね」

 ぽつり、と菊池が呟く。結核菌の感染によって生じる病で、医学が発達した現在でも死亡率が高いとされる。約二週間ほどの経過で、頭痛や発熱、記憶障害が進行し、早期に手を打たないと死亡の割合はかなり高まるという。亜急性――急激にではないが、徐々に進行する類であり特に発熱と強い頭痛が特徴だ。

 あの当時は結核性脳膜炎という病名であった。同時に直木三十五の死因でもある。

「良く、頭痛薬を川口――ああ、大阪のプラトン社という会社での同僚で、後々第一回直木賞を受賞した川口松太郎という奴がいてね。彼に、買いに行かせていたなあ。さわやか、とか言ったか」

「頭部全体を襲う強いもののようですね」

 最後は相当に苦しんだだろうと思うが、それでも直木三十五は最後まで小説家であろうとした。ある意味の執着、もしくは矜持をもって。菊池の声が、ポケットに落ちていく。

「最後は、恐らくあいつも記憶がもうないんじゃないかと思うよ。僕も、芥川と同じ意見だ」


『宗、恐らく自分の最後の記憶が欠落しているんじゃないかって』

『欠落、か』

 ありえなくはない。記録を見る限り、彼の亡くなる前の状態は半ば本能であったろうし、正気を保っていたかどうかも怪しい。ただただ、何かを書こうとしていた、小説家であろうとした。その姿が文字で描かれている。

 どこから、意識が、記憶が、混濁していたのか。それによっては、直木――植村宗一の『死』の認識は極めて浅く、だからこそ漂い続けていたという可能性も浮上してくるのだ。

『もし、それが原因だとしたら』

『聞こうか』

 き、と視線を真っ直ぐに向け、彼は言葉を続ける。


『宗は、僕の状態を見て――事前に自分が置かれていた状況を調べている可能性があります。つまりは、』


 彼のことだから、自分のことを調べている可能性がある。

 そして、知ったとすれば同じように命日に近づけば、今度は影響を免れることが出来ないのでは、と。


「まあ、あいつは細かいからな。意外に。金勘定はどうも下手くそだったが」

 杞憂が杞憂であればいいのだが、とは思う。しかし、あの性格を考えるに恐らくは自分で動いているだろう。調べようと思えば、簡単だ。幾らこの世界でなかなか直木三十五の本や記録に触れるのが難しい、とはいえ、全く触れられないわけではない。例えば古書店、例えば図書館――小さい図書館では限りがあるだろうが、中心街などにある大きい図書館であれば、目にし、読むことは可能だろう。

 特に、横浜市の富岡は直木の終の家が建てられた場所であったし、菩提寺もあるが故に長いこと住んではいないに関わらず、横浜市の郷土文豪として扱われている。恐らくは彼に関するものも相応に所蔵しているのは想像に難くない。

 もし、自分の死を再認識したとして。彼への影響はいかほどのものか。

「芥川さんの言う通り、対策は講じるべきですね……もう年末ですし……師走ですから……」

 長い、長い溜息が、斎藤の口から吐き出された。

 親友を心配するあまり姿に頓着せずに残る魂、命日が近づく一筋縄でいかない保護対象者。更にはこれから会う御仁をこれから説得せねばならない。

「本来は僕の仕事ではないんですけどね?」

「まあ、乗りかかった船というやつだねえ」

「そりゃあそうなんですけど」

 さて、聞き分けのない相手にどう対応するか。患者ならまだいいが、患者ではないのだ。


「斎藤さん、お待たせしましたかな」


 前に聞いた声に、顔をゆるゆる上げる。白い息は溜息かもしれない。

 寒空の下に『彼』は此方を見て柔らかに微笑んでいた。

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