第7話 神無月:胸の中のオアシス02

 彼女の仕事の愚痴を聞きながら、半年ほど前の自分を思い出す。仕事を切られて途方に暮れていた時に舞い込んだ母からの申し出は、正直極楽から降ろされた蜘蛛の糸に近いものがあったのは確かだ。カンタダと違っていたのは、競争相手がいなかったことと、何だかんだで糸は切れずに登り切ることが出来たということ。そして登りきった先はやはり現実ではあったが、あのふたりがいたということだ。

「ふーん、要するにお祖父さんが帰ってくるまでのお留守番、ってお仕事、なわけだ。チョー楽じゃんね」

「まあ、管理はしなきゃだし庭の雑草とかもしっかり取らないとすぐ大惨事になるし、町内会とかもあるし、まあそこそこ色々あるけどね」

 ……大半はあのふたりがやってくれている、というのは勿論内緒だが。

 お試し転生というシステムは、なかなかに支援が行き届いているようだ。本来ならば祖父が家の主で、もう少し記憶操作も楽だったろうが、花が家主代理というイレギュラー事態にも対応して『祖父の家を守る孫娘とその親戚の頼れる兄貴分二人』の立ち位置を綺麗に周囲に印象づけた。周囲の日常にするりと溶け込んでいき、すっかり風景の一部となっているのは、勿論システムのサポートは不可欠なのは勿論、それぞれの特性を存分に活かした結果とも言える。

「あー近所付き合いかあ。ああいうとこ、大変そうよね。隣人が気難しかったりすると面倒もあるし」

「ああ、うん。でも何とかなってるかなあ」

 先日、隣に住んでいる頑固爺さんと龍一が将棋打っててすっかり気に入られて帰ってきた――とか言えないので曖昧に頷いておく。また来いよ色男! とか豪快に背中叩かれながら、奥さんが作った惣菜のタッパー山程抱えて帰って来ましたっけね……。

「あと、観光客でも柄悪いの多いし、花大丈夫? あんた可愛いんだし、変な奴に絡まれたりとかない?」

「あはは、ないない! それは絶対ないな!」

 なかった、とは言わないが、ナンパした男が花の背後を見た瞬間蒼白になって物凄い勢いで逃げたものだから、振り返ったらサングラスにアロハシャツという出で立ちの宗一がいて真顔になったことはあった――が、これも話せるものではないので、笑って完全否定しておくことにする。

 正直、あの龍と虎のいかついデザイン、どこで見つけて買ったんだろう、とか、サングラスが異様に似合いすぎててこれは非常にアレなのでは、とか色々突っ込みたいところはあったが「……サングラスは外そうか、宗一さん」で済ませた自分は偉い。すごく偉い、と自分で自分を褒めておくことにする。

「まあ、うん。そんな大層なことも起きていないし、普通に暮らしてるよ。仕事も新しくやってるしね」

 正確に言えば『特殊イベントが発生しすぎて話せる箇所が殆どない』なのだが、かなり端折って花は現状報告を雑にまとめた。と、同時に目の前に綺麗に盛り付けられたプレートが置かれる。

「わ、美味しそう!」

 彼女の方は秋らしく南瓜のクリームソースのパスタが綺麗に巻かれて盛り付けられている。上には鶏肉のソテーが角切りで守られていて、パセリをぱらぱらとかけたことにより山吹色の鮮やかさが際立っている。サラダはグリーンリーフと赤玉ねぎ。そこに揚げた茄子やじゃが芋を合わせていて、目にも楽しい。人参を混ぜ込んだクリームチーズのドレッシングの組み合わせは間違いないだろう。そこにサツマイモの中でも甘さの強い紅はるかのグラタンは店でも一押しらしく、説明でも一番ぐいぐいと勧められていた。

 代わって花の方は、サラダ関係や紅はるかのグラタンは同じだが、丸いふっくらとしたハンバーグがデミグラスソースのドレスを綺麗にまとっている。チーズがショールのように上に羽織られていて、これは見事なコーディネートだろう。味としては鉄板で、かつ絶対美味しいということが保証される強さだ。

「ん、美味しい! ドレッシングすっごく美味しいー!」

「ハンバーグふわっふわだ、肉汁も溢れるー! 滝だ! 滝!」

 美味しい食事は言葉を封じる。しばし無言で、互いに食べることを最優先にフォークを動かすことにしたのは言うまでもない。会話が再開したのは、食事も殆ど終わり、テーブルに食後にと紅茶やカフェラテが運ばれてきた頃合いだ。

「何か久々に、呼吸したなあって」

「ん? 呼吸?」

 不意にそんなことを言い出す友に、首を傾げる。彼女は笑いながら紅茶にミルクをゆるゆると入れていく。明るい水色が、ゆるゆるとミルクの白の雲を漂わせていく。やがてまろやかなミルクティーカラーの中に、角砂糖が一つ落とされた。見えないが、中でほろほろと真白の正方形は崩れて溶けて、消えていくのだろう。

「朝から夕方までずっと、仕事。別に仕事が嫌いなわけじゃないけど、終わってから何処か行こうって思えないくらいに身体がずっしりと重くて、結局家に帰ってご飯食べてお風呂入って、お布団の中で動画見たり音楽を聴いたりしながら寝落ちするような、そんなルーティーンなんだよねえ」

「ああ、確かにそうだよねえ……ああ、でも本屋には行っていた、かな」

 それは花にも覚えがあった。好きでもないが嫌いでもない仕事に一日の大半が消費されていく。勿論生きるために必要な過程ではあるけども、ずっしりと重くなった身体を引きずるようにして退勤していた時が、確かにあったのだ。ただ、花はそれでも本屋には行っていたような気がする。近くに大きな書店もあったし、マニアックな揃えの古本屋も見つけて、そこに行くことでようやく心がほぐされていくような、そんな安心感があったように思う。

「その気力があったことがすごいわ」

「癒やしってか、オアシスだったんですわ。私の生活っていう砂漠のオアシスってとこ?」

 今は、丁度砂漠の中にあるオアシスでの休息時間、というところなのかもしれない。

 今までと違うのは、そのオアシスには住人がいた、ということだろう。彼らもまた旅人で、急ぐ旅でもないからと一緒に過ごしている。そして、それがものすごく、楽しい。それが非日常であるということを、忘れてしまうくらいには。

「昔から花は本が好きだったもんねえ」

「まあね。お祖父ちゃんが好きだったのもあるかもね」

「羨ましいなあ、何か、そういうの」

 向かいで笑う彼女に、今からでも遅くないでしょ、と笑い返しながら、花は思い出す度に自分に言い聞かせる。

 オアシス、というものは、旅人を潤すものだ。

 だから、いつかは。ちゃんと旅立たなければならない――と。

 自分も。そして、彼らも。

 「花?」

「んあ? 何かお腹いっぱいでじっとしてたら眠くなってきちゃって。そろそろ行こうよ」

「ああーそれはわかる! 眠くなる! 鶴岡八幡宮のあの階段をダッシュしよ!」

「それはやだ」

 かたん、と音を立てて椅子から立ち上がる。

 まずはこの昼の休息から旅立たねば、なんて。会計に向かう友達の背中に、花はごちそうさま、と手を合せて後に続いたのだった。 


***


 観光は勿論のこと、スイーツ囲んでのティータイムと洒落込み楽しんだ花は、駅の改札で友の背中を見送る。瞬く間に彼女は人の波の一部になり、駅の中に消えていった。また、普段の日常に戻っていくのだろう。また連絡ちょうだいね、と念押しもしたし、いずれこうやってまた遊ぶことになるに違いない。今度は何処に連れて行こうか、それともこちらから出向こうか、と考え始めながら駅から離れようとした時。花の視界に、細長い後ろ姿が飛び込んできた。

「宗一さん!」

 呼びかけ駆け寄ったが、声に気がついてないらしい。近くまで寄って本人である、と確信してから、ぐい、と上着の袖を引っ張った。びくっと驚いたような震えが、手にびりっと伝わってくる。

「……驚かすんやない」

「呼んだけど、気付いてなかったみたいだから」

「そうか」

 考え事しとったからか、と独り言のように呟く宗一はどことなく上の空だ。そういえば遠出したい、と言っていたことを思い出す。電車に乗って、というのはほぼ初めての経験ではなかったか。昔は当然その経験はしていただろうが、今と昔は別の乗り物のようなものだろうし、幾ら新しいものが好きとは言え疲れはあるのかもしれない。

 と、そこで手に持っていた紙袋を目にする。朱色の目に眩しいそれに金文字で刷り込まれた文字は『中華街』の三文字だ。ということは、つまり。

「中華街……えっ、ひとりで⁉ ひとりで行ったんですか⁉ ずるい!」

「ちょ、花顔がめっちゃ怖ッ」

「だって! 聞いてない! 中華まんとか餃子とか小籠包とか杏仁豆腐とか月餅とか私も食べたかった!」

 猛抗議の花の顔にぼすん、と紙袋を押し付けながら、はあ、と深い溜め息が吐き出された。

「餃子と小籠包、あともち米焼売とマンゴープリンは買うてきたったから、落ち着き」

 夕飯はこいつな、と付け足される。見れば相応の数が入っていて、皆で食べることを想定した土産であることは明らかだった。

「流石宗一様ッ」

「大体中華街が目的やなかったしな、ブラついたのは確かやけど」

「遠出って目的あったんです?」

「まあなあ」

 二人の足は、同じ方向に向かって歩き出す。紙袋を一つ引き受けた花は、まだどことなく視線が遠くを見ているような様子の横顔を見上げた。夕焼けの色が、彼が違う世界の人間であることを浮かび上がらせているような気がしてしまって、慌ててその妄想をかき消す。

 そんな花の心情を知ることもなく、宗一は言葉を続ける。


「桜木町とやらに、えらい大きい図書館があるって聞いてな。行ってみたくなったんや」


***


 斎藤茂吉と芥川龍之介が出会ったのは、斎藤が長崎医学専門学校で精神病科第二代教授となって二年目のことであった。芥川と菊池の二人が長崎を訪れた時のことである。

 その後、斎藤は海外留学などを経、医学博士の学位を得た。順風満帆とは言えないが、養父が院長を務めていた青山脳病院の院長を引き継ぐこととなり、芥川を始めとした様々な患者と向かい合うこととなる。

 芥川が、自らの人生に幕を降ろしたのは、昭和二年のことであった。その時に飲んだとされる睡眠薬は、他ならぬ斎藤が処方したものだとも聞いた。当時の虚無感と共に自問自答を繰り返した自分を思い出しながら、斎藤は目の前に置かれた紅茶の湯気の向こうに見える彼の顔を、真っ直ぐに見つめる。

 だからこそ、だ。

 再び巡り会えたのだから、今回もまた寄り添おうと決めたのだ。今度は幕引きの助けになるのでなく、先へ進む助けとなる為に。でなければ、再びこう運命が交差した意味などない。少なくとも斎藤にとっては。


「君から、茶の誘いとは珍しいね」


 ふわ、と茶葉の柔らかな匂いが鼻を掠めていく。向かいでは彼――植村龍一がコーヒーカップに口をつけたところだった。最初は『殆ど直木の名前じゃないか』と御不満だった様子だったが、今やその名前に馴染んで暮らしている様子だ。

「うん、斎藤さんと一回ゆっくりしたいなと思っていたからね」

「そうか」

「そうだよ」

 クラシカルな店内は薄い照明に抑えられ、ピアノの旋律に空気がほんのりと彩られている。その中でゆっくりと珈琲を味わう彼は、随分と様になる。顔が整っているのは出会った当初から変わらない。

「……今度は、大丈夫だから。安心してていいよ」

 ぽそり、とそれは小さな声ではあったけども、確かに斎藤の鼓膜に触れた。ぱちり、と思わず目を見開いて顔を見てしまったが、ちょっと困ったような微笑を向けられただけだ。

「逃げたら怒られちゃうからね。おにぎり、ぶつけられたら痛いし」

「おにぎり?」

「ああ、うん……こっちの話。それにね」

 そこで、龍一はかちゃり、とカップを置いて居住まいを正した。

「今度は僕の番だから、逃げるわけにはいかない」

「芥川さん」

 再会して今の生活を始めるまでの彼の顔は少し弱ったものばかり、記憶に残っている。お試し転生を始めてからだってどことなく自信なさげな、危なっかしさを覚えることも多かった。だから、よく七月を越えてくれたものだと胸を撫で下ろしたものだ。だが、しかし。

 今、目の前にいる彼の表情は芯が一本、ぴん、と通った眼差しをこちらに向けている。あの夏と同時に、何かを越えたのか、そんな強さを感じ取ることができる。

 あの場所で過ごした時間で、何を得たというのか。

 考える斎藤の前で、龍一はゆっくりと口を開く。確固たる覚悟の元に。


「直木を――宗を助けたいんだ。力を、貸してほしい」

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