狐は力の真価を知る

 夏の長い夕暮れ時。源吾郎は珠彦たちと別れ本宅に戻ろうとしていた。

 普段ならば気負わずそのまま居住区の自室に戻る所であるが、驚いて歩を止めてしまった。

 敷地の入ってすぐの所で、紅藤が佇立しているのを発見したからである。見慣れた白衣ではなく、茶褐色のワンピースらしきものを身に着けており、微風にあおられて裾が柔らかく揺れている。

 源吾郎は立ち止まり視線を床に落とした。紅藤の長い影が源吾郎の足許にまで伸びている。ここで立ち止まっても何も起きない事は源吾郎にも解っていた。敷地に戻るにしても紅藤の傍を通らねばならないだろうし、何より彼女は源吾郎をばっちりと目撃しているであろうから。


「お帰りなさい、島崎君」


 観念した源吾郎が顔を上げると、紅藤が声をかけてきた。やや逆光気味なので表情は判らない。でもきっと、源吾郎が見慣れた笑みを浮かべているのだろう。


「ただいま戻りました」


 源吾郎もまた挨拶に応じ、返答した。昨日の生誕祭の件もあり、朝から紅藤を避けて行動してはいた。無論今も正面から紅藤と向き合って気まずさを覚えてはいる。しかし紅藤を避けて自室に逃げ込むという考えは源吾郎には無かった。良くも悪くもお坊ちゃま育ちなのだ、彼は。


「少し心配していたんだけど、元気そうで何よりだわ。やっぱり若いから、しっかり休んだら元気になれたのね」


 穏やかな口調で紅藤が続ける。この一日、源吾郎が紅藤を避けて行動していたのを彼女が把握していたのか否かは判らない。しかしその口調には皮肉が込められている気配は見当たらない。純粋に、源吾郎の身を案じている紅藤の気持ちが伝わってきた。


「紅藤様。少しだけ紅藤様の所にお邪魔してもいいでしょうか?」


 だからこそ、源吾郎は部屋に直行するのではなく紅藤の所にお邪魔しようと思ったのだ。昨晩はへばっていたせいで言いそびれた事が沢山あったから。

 とはいえ主導権自体は紅藤が握っている。休みの日にお邪魔したいといった部下の申し出を紅藤が跳ねのけたならば、その時は潔く部屋に戻ろうと考えていた。


「もちろん、大丈夫よ」


 紅藤はわずかに首を揺らし、にっこりと微笑んでいた。



 源吾郎が通されたのは研究センターではなく居住区の一室だった。紅藤が使っている部屋であり、源吾郎が足を踏み入れるのは初めての事だ。棚には本とか瓶詰になった何かとかが所狭しと収まっていたが、反面テーブル回りはすっきりとしている。くつろぐための部屋というよりも、むしろ隔離された小さな研究室と言った趣だ。まぁ、研究者たる紅藤にしてみれば、そういう部屋の方がくつろぐのかもしれない。


「お帰りなさい、島崎君」


 そしてこの部屋には当然のように青松丸もいた。青松丸は紅藤の一番弟子であり息子にもあたる存在だから、紅藤の部屋にいてもおかしくは無いだろうが。

 戻りました、と青松丸にも頭を下げると、彼はそそくさとコンロの方へ向かった。何か飲み物を出してくれるようだ。


「紅藤様……昨日は申し訳ありませんでした」


 促されるままに腰を下ろした源吾郎は、対面に控える紅藤に対して頭を下げた。生誕祭とそれに付随する幹部会議で、源吾郎は割と大変な目に遭った。何しろ事故を最小限に食い止めるために術を行使したり、それがきっかけで本性を暴かれたり、会議の席で内臓がひっくり返りそうなほど緊張した挙句失神しかけたりしたのだから。

 しかし、源吾郎以上に紅藤は大変な思いをした。流石にその事は源吾郎でも解っている。

 丸盆を両手で持つ青松丸がこちらにやってくる。湯気の立つ桃茶を紅藤と源吾郎の許に運んできてくれた。持ってきた桃茶は三人分であり、青松丸も話に入る気満々である事は明らかだ。

 さて紅藤はというと、源吾郎の謝罪を静かに聞き、桃茶の湯飲みから漂う湯気をぼんやりと眺めているようだった。源吾郎も湯気越しの紅藤を六秒ほど眺め、言葉を続けた。


「紅藤様も相当に大変な思いをなさったと思うんです。ですが、そのそもそもの発端は僕の不手際によるものですよね……? 僕が、僕が幹部の皆に『実は玉藻御前の末裔が紛れ込んでいるんじゃないか』って思わせるような事をしたから、あんな幹部会議が始まっちゃったんですよね」


 源吾郎はそこまで言うと、桃茶に手を伸ばして唇と舌を潤した。真夏だが熱い桃茶は中々に美味しく感じられた。


「昨日の事、そこまで色々と真剣に考えてくれていたのね」


 目が合うと紅藤はポツリと呟いた。笑みも口調も何処となく寂しげである。


「こちらこそ申し訳ないわ。他の幹部の皆様だけじゃなくて、島崎君や若い子もいる場所で、あんな情けない態度をこの私が見せてしまうなんて……本当は、私がもっとしっかりしていないといけないのに」


 紅藤は笑いながら言っていたが、その笑みは自嘲的なものだった。源吾郎はどうすれば良いか解らず、視線をさまよわせるのがやっとだった。紅藤に謝罪したはずが、その謝罪が紅藤を追い込んでしまったという罪悪感があった。そしてそれ以上に、紅藤がおのれを責める態度に驚いてもいた。しっかりしなければ、などという言葉が彼女の口から出てくるとは思っていなかった。

 紅藤は大人の妖怪、しかも大妖怪たちからも規格外と見做されるような存在なのだ。莫大な妖力に数多くの妖術、そしてそれらを正しく適切に扱える知識と知性。彼女が偉大な妖怪であると言わしめるには十分すぎる物たちばかりだ。そんな彼女が情けなく、しっかりしていないとは……! 無論紅藤とて完全無欠ではなく苦手な事もある事は源吾郎も流石に知っている。しかしそれでも、おのれが未熟であると言わんばかりの彼女の言葉には驚いてしまった。


「あの場で取り乱すのは無理からぬ話ですよ、母様」


 茫洋とする源吾郎を尻目に、紅藤に声をかけたのは青松丸だった。


「僕はあの場に居合わせなかったので本当の話の流れは知りませんが、灰高様が弟の、いえ胡琉安様の過去の件について言及なさったそうじゃないですか。いくら何でもあれは言い過ぎだったと僕も思いますし」


 青松丸も何のかんの言ってただ者じゃあないんだろうな。母親に当たる紅藤をなだめる姿を見ながら、源吾郎はぼんやりと思った。それから源吾郎は、青松丸が紅藤の息子であり、尚且つ頭目である胡琉安の兄に当たるという事を思い出した。彼自身は表に出るのが苦手だとか何とか言って大人しく振舞ってはいる。紅藤や萩尾丸が凄すぎて霞んで見えるが、青松丸自身も実は色々な意味で力を持つ妖怪なのかもしれない。


「まぁ、相手の後ろ暗い弱点を見つけて突き回すのが、天狗のやり口ですものね。私はどうやら、その術中にはまってしまったみたいなの」


 青松丸にそう言うと、紅藤はけだるげに微笑んだ。青松丸も当惑を見せつつも笑い返しているから、その件に関しては話が終わったのだろう。

 そう思っていると、紅藤の視線は源吾郎に向けられていた。先程とは異なり、視界の正面でたなびく湯気に気を取られている気配はない。


「ひとまずの所、昨日の件で島崎君が気に病む事は何も無いわ。いいえ、むしろ島崎君はあの時よく頑張ってくれたとさえ思ってるの。私たちの言いつけに従ってスタッフに化け切っていただけじゃなくて、事故を最小限に食い止めてくれたでしょ。三國君もとっても喜んでいたでしょ? 可愛い甥っ子が大怪我をせずに済んだって

 ええ、あれは事故だったのよ。事故みたいなものだったの。それに対して島崎君はその時の最善の行動を取っただけよ」

「……雷園寺のどら息子は、あのグラスタワーの崩落に巻き込まれても大した怪我をしないと萩尾丸先輩は仰ってましたが……」


 予期せぬべた褒めの嵐に驚いた源吾郎だったが、ひとまず疑問に思っていた事の一つを紅藤にぶつけてみた。萩尾丸は確か、雪羽は源吾郎より妖力面では劣る存在だと言っていた。しかしそれは源吾郎と比較になる程度の妖力を既に持ち合わせているという事実の裏返しでもある。

 紅藤は白目を動かして源吾郎を睥睨した。何故か視線が鋭い。


「事故に巻き込まれても大怪我になるかならないかというのは問題じゃあないわ。三國君にしてみれば、甥っ子が事故に巻き込まれなかった事こそが大切なの。ほら、あなたのご両親やお兄様方だって、島崎君が悪い事に巻き込まれないかどうか、ずっと心配していたでしょ?」

「は、はい……」


 たしなめるような紅藤の言葉を受け、源吾郎は俯いて今一度桃茶を口に含む。失言だったとはっきりと解った。雪羽が怪我をすれば良いと源吾郎が思っていたというようなよろしくない誤解を招いてしまったのかもしれない。


「ねぇ島崎君。一つだけ教えてくれないかしら」


 桃茶に口を付けた紅藤が、源吾郎に尋ねる。いつも通りの落ち着いた口調だった。


「あの会場で、変化していた島崎君の本性が判ってしまったきっかけは、グラスタワーの事故の被害を最小限に食い止めようとして、島崎君が術を振るったからだったわよね」

「そ、そうです」


 源吾郎は紅藤の問いにやや言葉を詰まらせながら応じた。紅藤は笑みを浮かべ、更に言葉を続ける。


「それじゃあ島崎君。あの時術を使ったのかしら?」

「……?」


 紅藤の問いかけに源吾郎は首をひねった。彼女の言っている事はきちんと聞き取れたのだが、何を言おうとしているのかがいまいち理解できなかった。

 疑問符を浮かべる源吾郎に対して、紅藤は助け舟を出した。


「事故に巻き込まれそうになっていた妖怪たちの中に、妖狐の女の子がいたからかしら? それとも、第八幹部の甥であり名家である雷園寺家の縁者である雷園寺君がいたから? 自分の本性が見抜かれたとしても、彼らを助ける事で恩を売る事ができるとか、自分の能力の高さを見せる事ができるとか、そう言う事だったのかしら」

「違います! そんなんじゃないんです!」


 紅藤の言葉を聞いていた源吾郎は思わず声を上げていた。何故あの時術を行使したのか? 大規模な術の行使で本性がバレるというリスクに対してどうあの時思っていたのか――それらの問いに対する明確な答えを、実は源吾郎は持ち合わせていなかった。思ったからそうした。源吾郎の答えはただそれだけなのだから。


「確かに、米田さんが巻き込まれるのを見てどうにかしないとって思ったのは事実ですよ。ですがそんな、女の子を助けて良い所を見せようとか、ましてや雷園寺家の連中に恩を売ろうとか、そんな事なんて思いつきもしませんでした。もちろん、変化が解けないように注意はしましたけれど……あの時は正体がバレるかどうかとか、そんな事まで考える余裕は無かったんです」

「それじゃあ、特に考えらしい考えは無かったけれど、助けないといけないから助けたって事ね?」


 そうです――源吾郎は頷き、また俯いた。紅藤の声は源吾郎の心を探るかのような響きを伴っていた。もしかすると、何も考えなしに動いた末弟子に失望しているのかもしれない。


「良いのよ、落ち込まないで島崎君」


 優しい声がかけられる。源吾郎は顔を上げずにまず目を動かして紅藤を見やった。彼女は穏やかな表情を浮かべていて、何故か安堵の色が窺えた。


「強くて賢い一人前の妖怪になるには、確かに自分の行った事が後でどのような結果をもたらすか判断する力も必要よ。

 だけどね、利害や損得を抜きにして動くべき時に動けるかどうか。それはなのよ」


 島崎君。紅藤がもう一度呼びかける。源吾郎はもう既に顔を上げて彼女の視線と声を正面から受けていた。


「島崎君が損得抜きにして動いてくれたと知って、私は嬉しいわ。自分の行動がどのような影響をもたらすかを考えるような賢さは後々の勉強や経験で積み重ねて育てるのはか簡単なの。だけど、自分が何を大切にしているか、何を基準にして判断するのかは、生まれ持ったところが大きいから……」

「あ、ありがとうございます……」


 冷房は効いていて心地よい温度であるはずなのに、源吾郎は全身が火照っているのをひしひしと感じていた。

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