物語の続きを――七日物語《エプタメロン》断章

吾妻栄子

第1話

「さて、こちらがこのたび特別公開の運びになった『七日物語(エプタメロン)』の直筆原稿です」

 照明の強さを一段階落とされた展示室に見物客が全員入った頃合いを見計らって、僕はガラスケースを指し示す。

「これは十六世紀前半、ナヴァル王妃マルグリットによって書かれた小説で、ボッカチオの『デカメロン』に倣い、当時の男女の逸話を教訓を込めて鮮やかに描き出した作品です」

 文化財保護のために明度を落とした照明の下、途中のページを開いた格好で固定された書物は、化石のように古びて変色した紙面に褪せた筆跡を僅かに浮かび上がらせている。

 率直に言って、物語のどの場面かもこれだけでは判読できないと思うが、部屋中の目がまるで謎解きを試みるかのように開かれたページに集まった。

「しかし、王妃の死によりこの物語は未完に終わりました」


*****

 あれが王妃様だ。

 そこはかとなく薔薇の香りが漂う、着飾った貴婦人たちが居並ぶ広間。

 その中ではむしろ簡素な装いであったにも関わらず、あの方には一見して最も高貴な人と知れる輝かしさが感じられた。

「今日は良く来てくれたわね」

 微笑む黒い瞳の目尻と雪白の頬に柔らかな皺が刻まれる。

 その頃でもあの方は既に若いとは言えないご年配であり、表面的な姿かたちだけ取れば、もっと「美女」の形容に相応しい人はあの場にも居たかもしれない。

「本当にありがとう」

 しかし、女性にしては低めの声で囁きかけてくれたあの笑顔ほど優しく尊いと思える顔にはその前にもその後にもついぞ巡り合うことはなかったのだった。


*****

「素晴らしい歌だったわ」

 部屋全体に漂う甘い薔薇の匂いよりもう少しキリッとした清新なアイリスの香りと共に滑らかで柔らかい手が僕の頭を撫でた。

 この方の手が汚れる。

――今日は王妃様の御前に出るのだから。

 孤児院で髪も体も念入りに洗わされたにも関わらずそんな不安が頭を過った。

「あなたもジャンというのね」

 どこか冷たく身を引き締めるようなアイリスの匂いの奥からこちらを見詰める漆黒の瞳に潤んだ光が揺れる。

 王妃様にジャンという生まれてすぐに亡くなった御子がいたということは後になって知った。


*****

「リュートも弾けるのね」

 この柔らかな笑顔と離れた場所から微かに届くアイリスの匂いに接した瞬間、毎日の練習で癖になった肘の痛みも吹き飛んでしまう。

「いや、僕など未熟です」

 変わり掛けの掠れた自分の声がいかにも粗野に感じる。

――孤児院の皆のためにも、お前が王妃様に引き続き目をかけていただけるよう芸を磨くんだ。

 声変わりの始まった僕に院長は楽器を覚えるよう命じた。

 断ることなど端から許されていない。

 一つでも間違えれば殴られながらの練習だったが、幸い節を覚えるのは元から得意だったので、弾き方の基本を把握した後はそれまで歌っていた曲くらいはすぐに弾きこなせるようになった。

 何より、王妃様にお会い出来る手立てはこれしかない、「天使の歌声」を失った以上はこのリュートで少しでも美しい音色をお聞かせするのだという思いが修練に向かわせた。

「無理をしてはいけませんよ」

 ごく穏やかな語調だが、何故かギクリとする。

 こちらに向けられた黒い瞳には痛ましい色が浮かんでいた。

「あなたは今でも十分素晴らしいんだから」

 殴られ鞭打たれた傷を覆い隠しているはずの上着の背中がうそ寒くなる。

 この方には見えるのだという気がした。

 数日後、孤児院には皆が寝るための暖かな布団が揃い、院長は僕には小言はしても鞭打つことはしなくなった。


*****

「新しく皆の仲間になるマルグリットだ」

 院長が連れてきた女の子は洗い立てでまだ乾き切っていない朱色の前髪の下から大きな灰色の瞳で僕らを怖々こわごわと見上げた。

 何だか猫に見つかった小ネズミみたいだとその様子を見て思う。

「年は七つになる」

 新たに着せられた服もだぶついて袖が余るほど痩せこけて小さな体をしているので四、五歳にしか見えない。

「仲良くしてやっておくれ」

 引き取る子供が増えた時の常で、それだけ告げると義務を果たした風に院長はまた執務室に戻っていく。

 僕らと小さな赤毛の女の子の間に張り詰めたものを含んだ沈黙が流れた。

「マルグリット」

 僕は相手を怖がらせないように微笑んでゆっくり近付いて屈み込む。

 同じ目線になると、大きな灰色の瞳と瞳の間に蒼白いはだに散じた透き通った模様じみた雀斑そばかすが目立った。

「君のことはどう呼べばいいかな」

 あの方と同じ名前なのに、この雀斑の小ネズミちゃんは似ても似つかない。

「母さんはマーゴって」

 そこまで言い掛けると、こちらを見詰める灰色の瞳が潤んだ。

「母さん、もういない」

 僕は思わず小さな体を抱き上げた。

「マーゴ」

 腕の中の壊れそうな、しかし、温かな重みに語り掛ける。

「今日から僕らが君のお兄ちゃんお姉ちゃんだ」

「あたしもお姉ちゃんになるの?」

 今まで一番のおチビさんだった、九歳になったばかりのポーレットが栗色の巻き毛の頭を傾げて、やはり栗色の瞳を丸くして尋ねた。

「そうだよ」

 僕は屈み込んで小さな妹同士を近付ける。

 他の弟妹たちも集まってきた。


*****

「そなたがジャンか」

 初めてお会いした国王陛下は王妃様より実際のお年は一回り若いそうだが(王妃様は一度別の王様に嫁いで夫君に先立たれ、今の陛下と再婚されたとのことだ)、一見すると隣のあの方とさほど年齢差を感じさせない落ち着きがあった。

「噂は妃より聞いている」

 微笑んで頷く薄茶の瞳の目尻に皺が刻まれる。

 その様を目にすれば、誰もが慈悲深い方だと信じて疑わないだろう。

 実際、陛下について下々の者に冷酷な仕打ちをされたという噂は僕も聞かない。


*****

「見事な演奏であった」

 陛下は演奏前と変わらぬ慈悲深げな笑顔と声で仰った。

「光栄でございます」

 どうもおかしいな。

 僕は拝礼するものの背筋が微かにぞわつくのを覚えた。

 普段は王妃様と貴婦人方にお聞かせするのだが、今日は女性は王妃様だけで代わりに国王陛下と貴族の殿方が並んでいる。

 皆、品の良い方々だ。

 あからさまな侮辱や冷蔑の表情を浮かべているわけでもない。

 にも関わらず、弾く前からも、弾いている最中も、弾き終わった後も、僕のリュートを聴いているというより、リュートを弾く僕を見張っているような険しさがどこかに漂っているのだ。

「そなたは行いも正しく、暮らしも質素で、演奏で得た金も育った孤児院に多く寄付しているそうだな」

 国王陛下の顔も声も穏やかなのに居並ぶ臣下たちの眼差しは険しさを秘めている。

 あの方はというと、どこか不安げな面持ちをされていた。

「はい。ささやかな額ではございますが」

 酒は弱くて嗜めず、女を買うのも嫌で(一度娼館の前まで行ったが、中から酔っ払いがダミ声を張り上げて歌う声が響いてきて、それだけで自分が薄汚れた気がして止めた)、贅沢と言えば、多少見映えが良くてリュートを弾きやすい服を作らせるくらい、後は古巣の孤児院の子供たちに少しでも良い服や美味しいものを食べさせてやりたくて寄付している。

「見上げた心がけだ。なかなか出来ることではない」

 国王陛下は変わらず穏やかな笑顔と声で続けた。

「皆にも良く分かっただろう」

 僕を取り巻く殿方たちの眼差しがピシリと凍り付くように険しくなる。

「どのような生まれであっても、それを克服する者は確かにいるのだ」

 御夫君の言葉を耳にした王妃様の面が血の気を失って紙のように白くなった。

 その様を目にした僕も訳が分からないまま胸が早打ちするのを覚える。

 これはどういうことだ。

 国王陛下の静かな声が玉座から降ってきて広間に響き渡った。

「ジャンとやら、今日は真にご苦労であった」


*****

 何だか妙に疲れる一日だった。

 茜色の秋の夕陽が射す道をリュートを抱えて戻る足が重く感じた。

 いつもならあの方にお聴かせして帰る時は晴れがましい気持ちになるのに、今日は陛下からお褒めの言葉をいただいた筈なのに胸の中に影が広がってくる。

――生まれを克服する者はいるのだ。

 僕が孤児院で育った、親の顔も知らない身の上なのは今に始まったことではない。

 だが、あのように万座の険しい目に囲まれた場で告げられると、そんなにも卑しい、汚らわしい者と思われていたのだろうかとうそ寒くなった。

 胸の内にあの方の青ざめた顔が蘇る。

 何よりも、あの方にああした表情をさせたのが辛いのだ。

 沈む前の燃え上がるような陽射しは目がくらむほど眩しいのに、リュートを抱えた肩を音もなく通り過ぎる風は冷え冷えとして鼻先がツンと微かに痛む。

 道脇に生えている木の葉はすっかり赤茶色に変わって、まるで茜色の夕陽に緩やかに炙り出されるように一枚、また一枚と路地に舞い落ちていく。

 そろそろ秋も終わる。

 落ち葉の湿った甘い匂いも程なく枯れていくだろう。

 パカッ、パカッ……。

 背後から近付いてきたひづめの音に思わず楽器を抱き締めて振り返る。

「“孤児みなしごのジャン”よ」

 つやつやした栗色の毛をした馬に乗った、輝くような金髪の、しかし、肩は広く見るからに壮健な体つきをした騎士がこちらに呼び掛けた。

 年の頃は二十四、五だろうか。

 二十歳はたちになったばかりの僕より少し年上に見える。

「はい」

 返事をしてから古い方の名で呼ばれたことに気付く。

“孤児のジャン”は孤児院に暮らしていた頃の、それも声変わり前の手ぶらで歌っていた頃の呼び名で、今は“リュート弾きのジャン”だから。

「私はそなたがまだ“天使の歌声”と呼ばれていた頃から知っている」

「そうですか」

 あの頃に招かれて歌った貴族のお宅のお子様だろうか。

 どの家の若様かは分からないが。

 馬上からこちらを見下ろす姿は端正な面差しも剛健な体格もさながら聖画の大天使のようで、この人に僕と同じ幼い子供だった時期がある方が何だか不思議に思えてくる(もっとも、貴族の坊ちゃまと孤児院育ちの僕とで端から同じ子供時代は送っていないのだけれど)。

「その頃よりそなたは変わっておらぬ」

 馬上の騎士はそこでふっと顔を微笑ませた。

 ザワザワと日暮れの道を風が吹き抜けて、輝かしい金髪の背後をチラチラと赤い木の葉が舞い落ちていくのが認められる。

 思わず肌が粟立つのを感じた。

 聖画さながらの光景であるにも関わらず、おぞましいものを目にしたように楽器を抱えた手が汗ばんで震える。

「見ていれば心清き者と分かる」

 そうでなければ許さぬと言われている気がした。

「しかし」

 静かな声であるにも関わらず、胸を刺されたように感じた。

「世間はお前のような者について好き好きに言い立てるものだ」

 お前のような者。

 お前のような卑しい者。

 お前のような憐れな者。

 恐らくは両方の意味だろう。

 地に重なって墜ちた木の葉の湿った匂いを吸い込むと胸の奥が染むように痛んだ。

「確かに僕は孤児院の出で、親の顔すら知りません」

 リュートを抱いた胸を精一杯張るが、護るもののない背中を冷えた空気が浸していく。

 今、誰かが後ろから切りつけてきたら、あっけなく死ぬだろう。

「リュートを奏でる以外には取り立てて才覚もありません」

――お前はグズだ。

 孤児院でもよく院長や同年以上の男の子から殴られた。

「姿形だって見ての通りですしね」

 髪こそこの騎士様と同じ金色だけれど、背丈は中背の女くらいしかないし、肩も薄く貧弱な体つきだ。

――女みてえなつら

 これも日に陰に言われ続けた評言だ。

「王妃様がずっと目を掛けて下さったのが自分でも不思議です」

 日が沈んだらしく、辺りがさっと藍色の薄暗がりに閉ざされる。

「そなたは本当に」

 黒く影になった騎士の声は低く続ける。

「自分の生まれを知らないのだな」

 僕はこの騎士様の名前も知らないが、この人の方では“孤児のジャン”の頃から僕本人も知らない生まれまで知っているようだ。

 多分、この人だけではなく他の騎士たちも、陛下も、あの方も、今日集まっていた僕以外の皆が……。

 足元の地面が崩れて抜け落ちていく気がした。

「私からはもう何も言えぬ」

 そもそも何を伝えに来たのだ。

 影になった相手の顔からは何も窺い知れない。

「とにかく身辺には気を付けよ」

 訳ありの生まれのリュート弾きを殺そうと狙っている人間がいるということなのだろうか。

 そうだとして、楽器以外に何も持たない僕にどうしろと?

「ヒヒーン」

 辺りが藍色の闇に沈んでいく中、返事の代わりに馬のいななく声が響いて、蹄の音と共にすぐ脇を一陣の冷えた風が去って行った。


*****

「僕はそんな風にして生まれたんですね」

 パチパチと暖炉の炎の音が微かに響く中、耳に聞こえる自分の掠れた声が他人のように思えた。

 修道士の兄と修道女の妹が密通して孕んだ子。

 それが僕なのだ。

 二重もの禁断の関係で身籠った子を“奇蹟の処女懐胎”“聖母マリアの再来”と偽って世間を騙していた実の両親。

 二人は僕が産み落とされるのを待って火炙りになったという。

 ゴーッと暖炉の中から燃え上がる音と共に薪の焦げる匂いが流れてきて、思わず膝の上で握り締めた拳が震えた。

「王妃様は“本人には決して明かさず、他の子供たちと同じように健やかに育てなさい”と」

 院長は近頃すっかり白くなった頭を疲れた風に横に振る。

「だが、お前には素晴らしい歌声やリュートを弾く天分があった」

 だから、本来は人前に出すべき者でないのに出したというのか。

 パチパチと火の弾ける音が耳を叩いてくる。

「お前は本当に良い子だったよ」

 何も知らない、気付かない、だからこそ間違いも起こさない、本当に都合の良い子だったには違いない。


*****

「それじゃ、失礼します」

 もうここに来ることはないだろう。

 元から孤児院を出たら僕らの間には何の義務もないのだ。

 ただ、院長に対して育ててくれた恩義とここにいる後輩の子供たちへの不安を感じていたから折に触れては訪れていた。

 乾いたのに冷たさを増した風が孤児院の壁の漆喰の匂いを含んで通り過ぎる。

 今年は冬が早いようだ。

 孤児院の庭の植木はもう丸裸で焦げ茶色の骨じみた枝が風に揺れている。

 クリスマスにはまた御前で演奏するようにとの報せが来た。

 恐らくは他の楽士たちとも一緒の仕事だろう。

 しかし、どのような顔で陛下やあの方の前に出ていけば良いのかと、報せを受けてから何度考えても心が鉛のように沈んでくる。

 そもそも、そこに集まる人たちは全員とも僕の生まれを知っていて忌まわしさを底に宿した眼差しを向けているのではないのか。

 知らず知らず目を落とした靴の上にはらりと枯れ葉が一枚舞い落ちる。

 これは、どこから飛んできた葉っぱだろう?

 拾い上げると、枯れてもまだ摘まんだ根本は固くしっかりした一枚だ。

「ジャン」

 背後から聞こえてきた声に覚えずギクリとして振り返る。

「マーゴか」

 怯えた顔で振り向いたのが相手にも自分にも恥ずかしくて笑う。

「久し振りだね」

 この前、会ったのはまだ庭の植木の葉が青々と繁っていた時だったと思い出す。

「もう来ないかと心配してた」

 わずか四、五ヶ月の間に背丈もまた伸び、服の上からもそれと分かるほど丸みを帯びた体つきになった相手は艶やかな朱色の前髪の下から灰色の潤んだ瞳をこちらに注いだ。

「それはすまなかったね」

 もう来ないとはこの子には言えない。

 摘まんだ落ち葉のまだ固い芯が汗ばむ指先に食い込むのを感じた。

「ここにいる子供たちの中ではもう私が一番大きいの」

 マーゴは蒼白い頬を微笑ませる。

 体がふくよかになり、髪が豊かに艶めいても、この子の蒼白い膚に透き通るような雀斑、そしてこちらを見詰めるどこか潤んだ灰色の瞳は変わらない。

「そうか」

 あれから七年だから、この子ももう十四歳か。

 初めて出会った時の僕より一つ年上だ。

「次に会う時には背丈も追い越されちゃうかもしれないなあ」

 あはは、と自分でも情けない笑いが漏れた。

 しかし、男にしては小柄な僕の頭半分下にまで成長した相手は笑わない。

「施設を出ると、皆、寄り付かなくなっちゃう」

 一段階低くなって大人びた声で語るとマーゴは寂しく笑った。

「外で働き出して忙しいと、孤児院の出だなんてあまり思い出したい話じゃないのね」

 漆喰の匂いを含んだ冷えた空気が音もなく僕らの間を浸していく。

 僕は我知らず手にした落ち葉を捨ててゆっくりと彼女に歩み寄った。

 灰色の瞳がこちらを見据えたまま潤んだ光を強める。

「七年前、ここに初めて来た日にジャンは『今日から僕が君のお兄ちゃんだ』と」

 漆喰の臭気に混じって菓子じみた甘い香りがふわりと届いた。

 これはこの子の匂いだ。

 赤毛は体臭の強い人が多いが、マーゴもその例に漏れないようだ。

 そう思うと、服の上からもそれと確かめられる盛り上がった乳房や臀部が妙に浮き出て映る。

「沢山いる弟や妹の一人だとは思うけど」

 改めてマーゴの顔に目を戻すと、薔薇色に紅潮した頬の丸みはまだ幼い子供のそれだった。

 カッと自分の顔が熱くなるのを感じる。

「君は大事な妹だ」

 何だかんだ言ってこの子もまだ子供だ。

 初めて会った時に十三歳だった僕と同じように。

「ずっとそれは変わらないよ」

 この子となら血の繋がりはないから近い将来に結ばれても罪にはならないのだ。

 そんな思いが頭を過る。

 だが、呪われた血筋は僕一人で終わりにすべきだ。

――リュート弾きのジャンは火炙りになった兄妹の間に生まれた近親相姦の子。

 マーゴもいずれそれを知るだろう。

 そうなったら、この子もどんな目で僕を眺めるだろうか。

 相手は今にも涙の溢れそうな潤んだ瞳でこちらを見上げている。

 マーゴは知っているのだろうか?

 サーッと背中に氷の刃が通り過ぎた風な寒気が走る。

 胸の中に開いた暗い穴にまた沈み込んでいくのを感じた。

 もう二度と、どんな相手も、自分は人をまっさらな気持ちで信じることは出来ないのだ。

 そう思うと、いっそう落ち込む闇が深くなる。

「じゃ」

 返事を待たずに背を向ける。

 一刻も早く他者の眼差しのない場所に逃れたい。

「ジャン」

 涙を含んだ声に微かにまとわりつくような疎ましさを覚えつつ振り向く。

「もうすぐ私もここを出て働くの」

 灰色の瞳から薔薇色に染まった頬に涙が伝い落ちていくのが認められた。

「大通りの伯爵のお屋敷」

 乾いた声は新たな職場より大切な人の死を伝えるにこそふさわしく響く。

「女中の口が出来たからと院長が」

 そこで見咎められたらまずいと急に気付いた風に十四歳のマーゴは素早く服の袖で顔を拭った。

「いい話じゃないか」

 身寄りのない孤児の娘が貴族の屋敷で働けるのだから。

「母さんも最初はお屋敷で働いてたって」

“母さん”の部分だけが妙に幼く響いた。

「でも、私が物心ついた頃には路地裏で客を取ってた」

 大柄で既に胸も臀もふくよかに肉付いたマーゴの方からは甘い匂いを含んだ、しかし冷え冷えとした風が流れてくる。

「お屋敷勤めの女中が主人やその息子から孕まされて追い出されるなんて良くある話だけど」

 赤毛のマーゴは今度は妙に乾いた、十歳は老けたような声で語る。

「母さんだってなりたくてそうなったのではないでしょうね」

「そうだろうね」

 僕を産み落としてすぐに火炙りになった、「母さん」と直に呼び掛けたことは一度もなかった人もなりたくてそうなったのではないだろう。

 菓子じみた甘い香りと共に、視野の中で「妹」と決めたはずの相手が大きく近付いてくる。

「私は自分もそうなるのが怖いの」

「大丈夫だよ」

 額面に反して自分の声が耳に冷たく突き刺さるのを感じた。

 目の前のマーゴも足を止める。

 こちらを見上げる灰色の瞳には胸を刃物で刺し貫かれたような驚きが浮かんでいた。

「君はしっかりしているから」

 娼婦の母親から産まれた娘なんて孤児院に来る子の中ではむしろありふれた出自だし、近親相姦で火炙りにされた罪人兄妹の子と比べれば、遥かに全うな生まれだ。

 だが、僕に向けられた灰色の瞳は最初の驚愕から落胆と諦念の影に染まっていく。

「僕よりずっと明るい未来があるはずだ」

 どうしてこんな恨みがましい声しか出ないんだろう。

 兄貴分として励ましてやらなければならないのに。

「大通りの伯爵のお屋敷なら僕も何度か演奏で行ったことがあるけど、伯爵ご一家は立派な方々だし、使用人の人たちも親切だったから心配ないよ」

 これは一応本当なのだが、虚ろな眼差しを向ける相手にとっては望む言葉ではないのだろう。

「その内、そちらで顔を合わせることもあるかもしれないね」

 でも、これまで通りというわけにはもういかないだろう。

「そうね」

 マーゴの灰色の瞳には新たに潤んだ光が溢れた。

「じゃ、元気で」

 返事を待たずに背を向けて歩き出す。

 立ち止まっている時より冷え冷えした空気が体のあちこちを撫でて体温を奪っていく。

 早く家に帰って手を温めてリュートの練習をしなければならない。

 そう思いつつも、足はずっと避けていたいかがわしい界隈に向かっていく。

 女が欲しい。正しくは自分の過去とも現在とも関わりのない、一時だけ抱き合って慰めてくれる相手が欲しいと思った。

――あなたは寂しいのね。

 顔は見えないが、優しい声と温かで柔らかな胸に包まれる想像が通り過ぎる。

 日に何人と金のために相手にする売春婦が一見の僕にそんなに甘く寄り添ってくれることを期待してはいけないかもしれない。

 ただ、向こうも仕事なのだから決められた額を支払えば相応のことはしてくれるはずだ。

 ふっと冷えた空気を胸に吸い込んで吐き出す。

 大丈夫だ。

 娼婦を買ったと人に知れても、火炙りにまでされることはない。

 僕は忌まわしい詐欺を働いた兄妹の近親相姦の子なんだから、むしろ、好んで娼館に通うくらいの方が生まれに似つかわしいだろう。

 通り抜ける風の匂いにどぶや酒のムッとする臭気が混ざり始めた。

「ねえ、お兄さん」

 嗄れ声に振り向くと煤けた身なりの老婆が立っていた。

 これは恐らく取り持ち女だ。

 本人が体を売るには年齢はもちろん、身なりに色気が無さ過ぎる。

 物慣れない僕にすらついていってもろくな目に合わなそうな気配がするので、すぐに目を逸らし、聞かなかったフリをして進む。

 鼻を通り過ぎる路地の臭いに心なしか安酒の割合が強くなってきて目の前がクラクラしてきた。

「ちょっと」

 酒焼けした甘え声に振り返ると、今度はドレスがはち切れそうな程でっぷり太った、目はトロンとした女がヨロヨロと近付いてくる所だった。

 酒の匂いは嗅ぐだけで体がへたるので早足で通り過ぎる。

 冷えた風が安酒の臭いを消し去る代わりに鼻先をツンと痛ませて、目の前に街でも一番大きな娼館の建物が迫ってきた。

 あの建物の中には生きていくために身をひさぐ女たちとそれを金と引き換えに捌け口にする男たちがいて、自分もこれからその一人になるのだ。

 全体が影絵じみて見える建物の、閉ざされた窓の一つを眺めながら歩いていくと、どこの誰とも知らない女の体を押さえ付ける自分の裸の背が浮かんできた。

 他人が覗けばさぞかし悲惨で汚らしい光景になるだろう。

 女が欲しいと沸き立っていた気持ちが退いて、急に気後れしてくるのを感じる。

 やっぱり止めようか。

 ちょっとくらい高い金を出したところで、さっき頭の中で思い描いたような綺麗な優しい女などこんな界隈に居はしないだろう。

 僕なんか遊び慣れてもいないし、有り金を巻き上げられて酷い目に遭わされないとも限らない。

「旦那様」

 不意に甘く澄んだ、しかし、消え入りそうに細い声が耳に飛び込んできた。

 この女にしよう。

 心に決めて声の主のいる方に目を向ける。

「あ……」

 思わず声を漏らして固まる僕に、蒼白い顔をした相手も栗色の目を大きく見張った。

「ジャン」

 むしろ嬉しげに輝いた相手の栗色の瞳と同じ色の豊かな巻き毛、蒼白い顔に比してそこだけけばけばしい紅を引いた小さな唇、この寒空の下で薄っぺらい布地のドレスを纏った痩せぎすで小柄な体。

「ポーレット」

 いいや、別に驚くような話ではなかった。

 孤児院から出てきた貧しく身寄りのない娘、特にこの子のような、幾つになっても心は幼い子供のままの娘が得てしてどういうことになるか。

 娼婦はこういう女の子が堕ちやすく、かつ一度ひとたびそこに堕ちれば極めて抜け難い生業だ。

「久し振りね」

 相手は孤児院にいた頃と同じ曇りのない笑顔で近付いてきてこちらの手を取った。

 何て冷たい手だろう。

 思わずこちらの背筋が寒くなって、ポーレットの小さな荒れた手を握り締める。まだ孤児院にいた時にしたように。

 あの頃も、他人に逆らうことを知らないこの子は面倒な仕事をいつも押し付けられてこんな風に寒い季節には真っ赤に荒れた手をしていたのだった。

「仕立て屋に勤めたんじゃないのか」

 こんなことを今更訊ねてもこの子を惨めにするだけだ、というよりこちらが暗い気分になるだけだ。

 そう知っていても問わずにいられない。

「そこのご主人が死んだの」

 栗色の瞳が曇ったのを見ると、最初の勤め先での雇い主はこの心が幼子のまま止まった娘に優しかったようだ。

 そう察せられるのが余計に痛々しい。

「他の子たちは家に帰ったけど、あたしは行くとこがなくて、迷って歩いてる時に今の娼家うち女将かあさんに拾われたの」

 かあさん、と語る小さな唇にはけばけばしいながらも器用に紅が塗られているから、この化粧もその「かあさん」に施されたものだろうか。

「そうか」

 相手の小さな手を包んだ自分の手が同じ冷たさにまで落ち込んでいくのを感じた。

「知らなかったよ」

 女を買おうなどと思ってこんな場所に来たから、知りたくないことをまた一つ知ることになった。

「ジャン」

 けばけばしい口紅の下から寒さで紫色に染まった地の色が微かに透けて見える、小さな唇が僕の名を呼んで、こちらが包み込んだ小さな手からギュッと握り返された。

「買って」

――水汲み、手伝って。

――あたし届かないから、棚のあれ、取って。

 孤児院にいた頃に何度も聞いた、無邪気な頼み事の口調だ。

 にも関わらず、こちらは尻の辺りにぞわっとする感じを覚えた。

 顔を合わせて互いと気付いてから、一番、聞くのを恐れていた言葉だ。

 言い出される前にさっさと別れて逃げれば良かったのに何故グダグダやり取りを引き延ばしてしまったのだろう。

 愚にもつかない後悔に襲われる。

 同時に、自分が心のどこかで相手がそう言い出すのを待っていたようにも思えて接した手と手の間が汗でぬめるのを感じた。

 自分はこの気の毒な、知恵も人並みでない子を恐らくは相場よりも割り引かれた金と引き換えに弄びたいのだろうか。

 体だって大人の服を着た子供のように見えるのに。

 露出の多い服はポーレットの「細い」というより「薄い」体つきを際立たせていた。

 この子は確か十六になるはずだが、十四歳のマーゴよりも顔も体も幼く見える。

 よくこんな子に体を売らせる、娼婦として買う気になる人間がいるものだ。

 と、こちらを見上げる澄んだ栗色の瞳が潤んだ。

「お客と一緒じゃないと、娼家うちに入れてもらえない」

 溝臭い匂いを含んだ風がそこだけ豊かな栗色の髪を揺らして通り過ぎる。

 冬の午後の陽射しが一瞬翳かげって、次の瞬間には目の前が白々と眩しくなった。

 僕の手を捉えたポーレットの髪が幾多の蛇のようにうねる輝きを放った。

「お願い、ジャン」

 僕はポーレットの手を取ったまま、空を見上げた。

 冬の午後の空は高く澄んでいた。

 もし、天国があの上にあるとしたら、僕らにはあまりにも遠過ぎる。

 フーッと大きく息を吐くと幽かに白い靄が出来てすぐに空のあおに紛れた。

「分かったよ」

 こちらを見上げていた栗色の瞳がパッと輝く。

 同時に緩んだ小さなあかぎれの手を僕は極力穏やかに振りほどいた。

 サッと冷たい空気が汗ばんだ手を通り過ぎる。

 僕は纏っていた外套を脱ぐと、ポカンとした顔つきで棒立ちになっている相手の剥き出しの肩に掛けた。

 ポーレットはそこで初めて気付いた風に自分の体を抱くようにして外套がずり落ちないように荒れた小さな手で掴んだ。

「寒かったよね」

 冷え冷えとした空気が服の背中や腕を浸して肌が粟立つのを感じながら、懐から財布を出して半分以上のコインを鷲掴みにして取り出す。

娼家うちに戻る前に、まずこれで温かいものでも食べな」

 これで、この子の一食と一晩の料金を賄って余りある額のはずだ。

 十六歳の娼婦は表情の消えた顔でこちらの掌に載った貨幣を見詰めた。

 小さな体を男物の外套ですっぽり包んで、まだ小刻みに震えながら。

「僕は君の兄さんだから、買うわけにいかない」

 兄さんなのに、助けてもやれない。

 どこか恐る恐る差し出された小さな片方の手に半ば押し付けるようにして両手で金を握らせる。

娼家うちに帰る前に、今、好きな物を買って食べるんだ」

 疑うことも逆らうことも知らない、持つものをひたすら奪われていくこの子にはそう伝えなくてはならない。

「分かった」

 栗色の瞳を潤ませたポーレットは叱られた子供のように頷いた。

 というより、この子の心は十六歳の今でも大人の狡さを身に付けるに至っていないのだ。

「ありがとう、ジャン」

 相手の蒼白い頬に涙が一筋伝うのを尻目に早足で歩き出す。

 外套を失くした無防備な体を冬の冷め切った空気が背中にも胸にも刺さってくる。

 ポーレットはこんな寒い中に今の自分より剥き出しの姿で立たされていたのだ。

 そう思うと、改めて居たたまれない気持ちが襲ってくる。

 これであの子を救ったことにはならない。

 ほんの一時ひととき寒さと餓えを和らげられるだけで、僕が渡した外套も金の残りもすぐにあの憐れな妹の手から奪われてしまうだろう。

――君の兄さんだから、買うわけにいかない。

 あの子の客にならなかったのは、結局、自分のためだ。

 ゴーッと炎の燃え上がる音が頭の中に鳴り響いて、心はまた暗い穴に沈み込んでいく。

 とにかく早くうちに帰ろう。

 自分の体を抱き締めるようにして酒と腐った泥水の臭いの漂う道を急ぐ。

 帰ったら暖炉の火を起こして手を少し温めてからリュートの練習をしよう。

 御前で演奏する曲もそうだが、明日は午後から公爵家のお屋敷での仕事も入っているから公爵夫妻のお好きな曲も……。

「じゃ、また来るよ」

「そんなこと言ってなかなか来ないんだから」

 客の男と娼婦らしいやり取りが横合いから聞こえてきた。

 この界隈ではありふれたやり取りだろう。

「ジャン?」

 不意にガラガラした男の声が耳に飛び込んできて振り返る。

「リュカ……」

 今しがた娼家から出てきたばかりの、縮れた黒髪に小さな鳶色の目、浅黒い肌をした大男は、知り合いのショーム吹きだった。

「やっぱりジャンなんだ」

 頼むから大きい声で言わないで。

 しかし、相手はガラガラした声でいかつい肩を震わせて笑って続ける。

「ここで会うとは思わなかったなあ」

 ここで出会でくわすと知っていたら僕も来なかった。

 僕より四、五歳上のこの大男は演奏の腕は良いのだが、いわゆる飲む買う打つ全てを好むたちで揉め事の噂が絶えなかった。

「リュート弾きのジャンもやっぱり男だな」

 放蕩者のショーム吹きは苦笑はされても本当には憎まれない人懐っこい笑顔で縮れた黒髪の頭をちょっと傾げると、今度はどこか窘める風に潜めた声で語りかける。

 確かに女を買いに来ようと思ってここに来たわけだから反論出来ない。

 むしろ割り切って後腐れなく楽しんでいるリュカより自分の方が偽善的で嫌らしくすら思えた。

「寒いだろ、その格好」

 こじゃれた外套を着込んだ相手はぽつりと言うと鳶色の目で自分より頭半分は小さな僕の姿を見詰めた。

「ちょっと揉め事があってね」

 あはは、と情けなく笑う僕の肩に手を回すようにしてリュカは道を歩き出す。

 大きな体が風避かぜよけになったおかげで幾分寒さが和らいだ。

 この放蕩者が揉め事続きでも楽士仲間から本当には見放されないのはこういう優しさがあるからだと頭の片隅で思う。

「慣れない遊びなんかやっぱりするもんじゃないね」

 辛い気持ちを慰めるはずが知りたくもないことを知るはめになる。

 隣の相手は浅黒い横顔を見せたまま肯定も否定もしない。

 縮れた黒い髪が風になぶられて後ろに流れた。

 そうすると、何だか異国の草花めいた香りがする。

 これはこの大男に近寄るといつもうっすら漂う匂いだ。

 リュカは僕のような孤児院育ちではないが、「ショーム吹きの父親がジプシー女に産ませた子」という噂があるし、実際、傍で見ていると、あながち嘘でもなさそうに思えてくる。

 本人もそうした風評を知らない訳はないし、それが心楽しい訳はない。

――女は好きだけど、一人に縛られるのは嫌だ。

 そう嘯いて二十四、五になる今も妻帯しないでいる。

「お前は何か辛かったからここに来たんだろ」

 こちらの肩に太い腕を回したリュカの声は低く苦かった。

 煤けた通りに浮かび上がる、縮れた黒髪を溝臭い木枯らしに靡かせた、肌の浅黒い鷲鼻気味の横顔は、正面から眺めるよりいっそうジプシーの血をあらわしているように見えた。

 僕も両親を知る人の目を通せばこんな風に忌まわしい罪人の面影があるのだろうか。

「でも、お前はいい奴なんだから自分を大切にしろよ」

 どこか寂しい調子で告げると、リュカの腕が外れて僕の肩にさっと冷たい風が吹き抜けた。

 元に戻っただけなのに温かい太い腕に守られる前より却って寒く感じる。

「俺んちはすぐそこだから、これは貸すよ」

 リュカは脱いだ小粋な外套を差し出した。

「演奏会の練習の時にでも返してくれ」

「ありがとう」

 野の花じみた匂いのする袖に腕を通すと、小柄な僕の体にはすっぽり覆って余りあった。

「必ず返してくれよ、それじゃないとレアの所に行けないから」

 放蕩者のショーム吹きは鳶色の小さな目をいたずらっぽく細めた。

「次までには必ず返すから」

 うちにまだボロにしていない古い方の外套があるから新しいのを仕立てるまではそれで間に合わせよう。

 ぶかぶかの外套を纏った僕に向かってリュカは潜めた声で続ける。

「王妃様が御病気らしいから今年は色々と予定が変わるかもしれないけど」

「え?」

 初めて知る話だ。

 最後に国王ご夫妻の前で演奏した時の、あの方の青ざめたお顔が頭を過る。

 もう寒くはないはずなのに足元が震えるのを感じた。


 *****

「じゃ、通しで一回やってみるか」

 クリスマスの御前演奏での命を仰せつかった楽士たち。

 忙しい中、それぞれの予定を擦り合わせて城の広間で練習だ。

「最初はジャンからだ」

 僕は背筋を伸ばしてリュートを構える。

 これは厳かな出だしの曲だから……。

 カツ、カツ、カツ……。

 広間の入り口から靴音が響いてきた。

 楽士たちは一斉に振り向く。

 そこには肩の広い長身に立派な服を纏った、薄暗がりにも艶めいて輝く金髪にどこか発光するように蒼白い顔の男が立っていた。

 あれは……。

 この前、不吉な話を伝えに来た騎士にも似ているが、また別な誰かにも思えた。

 僕の思いをよそに聖画に出てくる大天使に貴族の衣装を着せた風な男は低いがよく通る声で告げる。

「楽士たちよ」

 呼び掛け一つで広間全体の空気が不穏な予感でさっと張り詰めた。

 胸の早打つ音がしてきて思わず腕の中の楽器を抱き締める。

 楽器を形作る木と塗料の匂いだけが確かな生きたもののように思えた。

 氷のように澄んだあおい瞳の男は続ける。

「本日の午後をもって王妃様はお隠れになった」

 一瞬、耳の中から全ての物音が消えた。

 次の瞬間、隣に立つリュカを含めた他の楽士たちから無言のまま重たい、しかし、どこか予想していて諦めた風な空気が流れた。

――そうなるだろうと思ったよ。

――御病気と聞いてたしね。

――もう若くもないお年だし。

 そんな心の声が聞こえてくる気がした。

 そうだ、僕以外の皆にとっては予め知っていて受け止められることなのだ。

 隣から眼差しが向けられている気配がしたが、そちらを向く気になれないまま腕の中のリュートを抱いて崩れそうな体を支える。

「よって、予定されていたクリスマスの午前演奏会は中止する」

 離れた場所に立っている男の声だけが冷厳にこだました。

「今後のことは追って連絡を待て」


 *****

「ジャン」

 どこか恐れる風な呼び掛けに振り向くと、小洒落た外套(これは今日の練習前に僕が返したものだ)の肩に楽器入りの袋を提げたリュカが立っていた。

「大丈夫だよ」

 虚ろな声が答える。

 僕は今、きっと惨めったらしい顔つきをしているに違いない。

「今日はこれから伯爵の家での仕事もあるし」

 言ってからふと思い当たる。

「いや、それも今日は中止かな」

 王妃様は亡くなったのだから。

 高貴な方々も連絡が行き次第、数日は喪に服さなくてはならないだろう。

「とにかく行って確かめないと」

 ショーム吹きの大男に背を向けて街へと歩き出す。

――今日は予定通りやりますか?

――王妃様がお隠れになったから取り止めで。

 行き先の下男か女中とそんなやり取りをする場面が頭に浮かんで来た。

 そういえば、あのお宅にはマーゴが働きに出るという話だった。

――暫くは喪に服すので。

 エプロンを着けてどこかよそよそしげに語る灰色の目に雀斑の散った顔が浮かんできた。

 僕はこれからそんな風にしてあの方が世にないことをまた他人に確かめるのだろうか。

 胸に抱えた楽器の重さが思い出したように腕に蘇ってきて持ち直すと、吐き出す息は最初は幽かに白く、立ち上りながらすぐに透けて灰色の街並みに消え入っていく。

――無理をしてはいけませんよ。

 そう言って下さったあの方はもういない。

 あの方がいらっしゃるから、お会いできると思えるから、今日まで無理してでも生きてこられたのに。

――皆も良く分かっただろう。生まれを克服する者は確かにいるのだ。

 ご夫君の陛下の言葉に青ざめて固まったお姿を見たのが最後になった。

 どうしてこうなるんだ。せめていつも通り何も知らないまっさらな僕のまま、互いに笑顔で別れたかった。

 生まれるべきではなかった自分は、そんな風にして関わる相手まで不幸で染めて終わるのだ。

 ポツリ。

 不意に目の下に冷え切った雫が点るのを感じた。

 思わず見上げると、灰とも白ともつかない色をした空から白い羽に似た欠片がひらひらと群れを成して舞い落ちてくるところだった。

 ああそうだ、クリスマスも近いのだから、雪が降ってもおかしくはない。

 ここから見える山の嶺ももっと前から真っ白な化粧を施しているし。

 ポツリ、ポツリ。

 仰向いた顔に凍った欠片が次々と落ちてきてはすぐに融けて雨と変わらぬ雫に変わる。

 ジワリ。目に映る灰白の空がくすんだ色合いはそのままで熱く滲んだ。

 僕はこれからどうすればいいのだろう。楽士として日々の糧を得て死ぬまでそれで暮らすのだろうか。もう御前に呼ばれることはないにしても悪いことはしていないし、それなりに仕事は来るはずだ。

 そんな風にして息絶えるまでの時間を潰すのだろうか。

 そんな惨めな暮らしを自分はこれ以上続けたいのだろうか。

 家の中で独り首を吊って死んでいる自分の姿が浮かんできた。

 これは今、初めて思いついたことではなく自分の出生の秘密を知ってから繰り返し頭に思い描いていたことだ。

 まだあの方とお会い出来る内にはやってはいけない、「リュート弾きのジャンが縊れ死んだ」と伝え聞かれてあの優しい顔を再び曇らせることがあってはならない。

 それが今までの自分を生に引き留めていた。

 もはやそれも無くなった。

 死のう。

 何の感動も悲壮感もなくそう思った。少しばかり長く生きたところでどうせいつかは死ぬのだ。端からあの方と同じ場所には行けない。地獄に落ちるのが少し早くなるだけだ。

 そもそも、今こうして生きている以上の地獄があるだろうか。

 進んでいく街の景色にはうっすら白い霞が懸かり、靴底に感じる地面は泥濘ぬかるみから固まりつつあった。

 多分、この雪は積もるだろうから、今日首を吊って死んでも異変に気付いた隣近所から発見されるのは数日後だろう。冬だから死体もすぐには腐らないだろうし、そこは後始末する人たちにとっても良かったかもしれない。

 ふと、眼前の白く埋もれていく街の風景の一角から灰黒色の煙が立ち昇るのが認められた。

 火事だ。

 煙の色で察すると同時に、あれは恐らく娼館や家に男を連れ込む女性たちの住む界隈だと思い当たる。

 口紅の下の紫色の唇が透いて見えるポーレットの青ざめた顔が浮かんだ。

 次の瞬間、足が勝手に走り出す。

 今、燃えているのがあの子の娼家みせかどうかは分からない。

 だが、まだ無事に生きている姿をこの目で確かめたい。死ぬ前に確かめなければならない。自分の知る中で一番非力で不遇なあの妹分の命を。

 どうせ今日の夜には僕は首を吊ってしまうのだから、有り金も、この新しく作ったばかりの外套も、全部あの子に渡してやろう。

 せめてこんな雪の日には客引きをしなくて済むように。

 視野の中で黒い煙がどんどん近付いてくる。

「燃え移る前に皆、通りに出ろ!」

「おい、こっちにも水だ!」

 木桶に汲んだ水を掛けて消火に当たっている人たちの姿も見えてきた。

 どうやら焼け出されたらしい女性たちも着の身着のまま途方に暮れた顔つきで雪の降る通りに立ち尽くしている。

 僕はその中から求める姿を探す。栗色の髪をした、小柄で薄い体つきの……。

「ポーレット!」

 リュートを抱えたまま周囲の奇異の目も構わず駆け寄る。

「ジャン?」

 周りの女性たちより一際小さくて痩せぎすな体に夏に着るような薄っぺらい服を纏った相手は栗色の瞳を見開いた。

「無事で良かった」

 僕は楽器を雪の上に置いて外套を脱ぐと妹分の肩に掛けて半ば露わになった胸元まで覆った。

「うち、火事で焼けちゃった」

 けばけばしい化粧を施した顔の相手は迷子のように心細い声で告げる。

「せっかく来ていただいたのに申し訳ないんですけど」

 灰色の頭に雪をうっすら積もらせた、どうやら女将おかみらしい肥った中年の女が横から苦笑いして口を挟んだ。

「今日はちょっとうちも商売は出来ません」

「いや、そういうので来たんじゃ……」

「離して!」

 少し離れた場所から飛んできた叫び声が僕らの会話を打ち切った。

「火に巻かれて死にたいのか!」

 火消しに携わっていたらしい男がまだ若い、しかし派手な身なりと化粧から体を売る生業と一見して知れる女を羽交い締めにしている。

「二階に赤ちゃんが……」

 濃い化粧を施した顔をグシャグシャにした女は泣き崩れる。

「私の赤ちゃんが、あああ……!」

 女が見上げる建物からは黒い煙が立ち上り、どの窓の奥からも朱色の炎の影が揺れて見えた。

 ゴーッ。

 雪を含んだ風の吹き付ける音が耳朶を微かに凍てつかせながら通り過ぎた。

 僕は吸い寄せられるように母親に歩み寄った。

「この二階ですか?」

 涙にまみれた相手は頷いた。

「二階の部屋の奥の揺り籠に……」

 ゴーッ。

 炎なのか風なのか分からない音が耳の中に響く。

 僕は火消しの列に駆け寄る。

「貸してくれ」

 返事の前に木桶を奪った。

 頭から掛けると、井戸から汲んだらしい水は全身が一瞬、ビクリと震えるほど冷たかった。

「おい、やめろ!」

「ジャン!」

 様々な声の悲鳴を背に黒い煙の中に飛び込む。

 け付くような熱気と建物の焦げる臭気が一度に押し寄せた。


*****

「ホギャア、ホギャア!」

 赤ん坊の泣く声がどこか遠くから聞こえてくる。

「もう大丈夫よ」

 涙の混じった声が愛しげに言い聞かせる。

「私の坊や」

 微かに引きれてような痛みと共に瞼を開くと、そこには抜けるように高く晴れた空が広がっていた。

 吹雪はもう止んだらしい。

 ただ、時折まだひらひらと白い羽に似た雪の欠片が舞い降りてくる。

「ジャン」

 僕の外套で体を覆ったポーレットが栗色の瞳に涙を光らせて呼び掛けた。

「死んじゃ駄目」

 いつの間にやって来たのかエプロンの胸に買い物籠を抱き締めたマーゴも雀斑の顔を真っ赤にして泣いている。

「お前は死ぬな」

 リュカは広い肩を震わせて絞り出すように続けた。

「頼むから……」

「ああ」

 思わず笑うと、顔が余計に引き攣れて痛かった。

 もう火は消し止められたが、冷え切った空気の中には焦げ臭い匂いがまだ残っていて息する度に鼻の奥を刺す。

「僕は今日まで生きていて」

 見上げる青空を白い鳥が一羽、横切っていく。

 柔らかに舞い落ちてくるこの白い欠片は、雪なのか、翼なのか。

「本当に……」

 サッとの光が射して、全てが目映まばゆく包まれた。


*****

「これって全部本当の話なのかな?」

 カップルで観に来た二人の内、女の方がガラスケースの中で開かれている書物というより書物の化石と呼ぶに相応しい遺物を見詰めて呟いた。

「さあ」

 男の方が苦笑いする。

「王妃も全部を自分で見聞きしたわけじゃないからね」

 二人はまるで答え合わせのように繋いだ手の指を秘かに絡ませ合う。

「どういう結末にするつもりだったんだろうね」

 友達同士で来たらしい二人の少女の内、大柄で大人びた方が推し量る風な顔つきになった。

「本人の中でもまだ決まってなかったかも」

 小柄であどけない方がどこか寂しい笑顔で答える。

 それぞれが口にする感想を肯定も否定もせずに立っている僕を少し離れた場所から一人でこの展示を訪れたらしい女性が優しく見守っていた。(了)

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物語の続きを――七日物語《エプタメロン》断章 吾妻栄子 @gaoqiao412

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