マキヒコとリフア

 木綿の布に書きまとめられた事案を台国補たいこくほハルト遥人が次々と読み上げていく。

 芯の紐を垂らした獣脂蝋じゅしろうがボスボスと音を立て幻惑的で穏やかな灯りを室内に与える。

 橙色の陰影が美しいハルトの顔を彩る。ハルトを<人買い>の奴隷の身分から買いとったのはマキヒコ巻彦自身だった。


「狗奴国と我が国の城内の交換所、交易所が次々と閉められていきます」

「うむ」


 マキヒコは軽く答える。

 当然だろう。国主は兵を連れてくるとまでマキヒコに言ったのだ。


「邪馬台国の城壁の外壕で若い<古人いにしえびと>の女性の刺殺体がまたもや見つかりました。見事な太刀筋です。女性の股には睦み事の跡が」

「うん。被害者が<古人いにしえびと>とはいえ<女王の言いつけ>にきちっとした捜査を行うように正式な指示を、人出が足りなければ本営の直営隊も動員せよ」

「はっ」


 ハルトが答え頭を下げる。

 マキヒコは疲れている。どこか上の空だ。

 首輪をしていたときのハルトを思い出していた。

 当然今はしていない。

 高貴な身分を表す入れ墨まで顔に施しているほどだ。


「本日は以上です」

「そうか、下がって休んでよい」

「はっ」


 ハルトはマキヒコが喜ぶように邪馬台国では誰もしない右手で左手を包み込む中国式のお辞儀をして下がる。

 下がっていくハルトを見てマキヒコは思う。本当は下がってほしくない。

 しかし言い出せなかった。

 修練場と<御子みこ>の件で姉と相談しなければならないことが憂鬱だった。

 夜は特にだ。

 昼間か夕方に済ませておくべきだった。


 マキヒコは執務の館を出た。

 夜空はこわいぐらい高くかなり冷える。

 もうすぐ冬の神託が姫巫女ひめみこによってなされる。

 それもきっちり姉に促さなければならない。

 篝火の灯りの中、姉の居る禁宮の館へ向かう。

 この館は誰も侵してはならない、姉が認めた者以外は。

 館の前には巨大な篝火と白銀の鎧に身を固めた直営隊が二名、番兵として左右に別れ完全武装で立っている。

 この白銀の鎧を着ることを許されているのは最精鋭の直営隊の兵だけである。

 直営兵はマキヒコに一瞬目を合わせただけで視線は合わせない。

 それが邪馬台国の儀礼である。

 マキヒコは木製の観音開きの門を自分で開け入っていく。

 姉のよがり声が中から弱く小さく聞こえてくる。

 館に入ると嬌声の声がさらに大きくなる。

 館の中心には四辺を北の海との交易で得た薄手の絹で囲まれた一角があった。

 絹の覆いの中の灯りが一人の女に群がる複数の男性の影絵を作っていた。

 嬌声はそこから上がっている。

 マキヒコの目の前には床に手を付いたままの侍従女長のビレア微麗亜かしずいていた。


 マキヒコは静かに言った。


「姫巫女様に対し拝謁をお願いしたい」


 ビレアは手を床に付きこうべを垂れたまま答えた。


「姫巫女様はお休み中です。どなたともお会いになりません」


 姉のよがり声が更に大きく響く。


司台国したいこくが用向きがあり訪れたことを明日の朝にお伝えいただきたい」

「ははーっ」


 ビレアが手をついたまま床に額がつくほどさらに頭を下げて答えた。

 こうなることは、分かっていたが弟として最大に圧力をかけたに過ぎなかった。


 マキヒコはさっさと禁営の館を出ると自分の小さな館に向かった。

 夕餉は執務の館で仕事をしながらハルトとともに済ませていた。

 かんたんに湯浴みを行い、寝屋へと向かった。

 

 そこには湯帷子ゆかたびら姿の妻にして司台国婦人のリフア理布亜が寝具の上でマキヒコを見るや手を付き侍従女長のビレアより綺麗な座り姿で待っていた。立ち振る舞いは完璧でまるで北の海の向こうの美人画のようだ。

 目元には瞳が美しく映えるように薄い入れ墨が入っている。

 この時代入れ墨は高貴な身分を表す。

 マキヒコの妻にして司大国婦人まさに貴人のあかしなのである。


「なれ様、御仕事ご苦労さまでした。このあが揉みしだき疲れをとって差し上げましょう」


 リフアが言った。完璧だ。だがこの完璧が辛かった。


「よい。疲れているので休みたい」


 マキヒコはリフアの方に背を向けゴロンと横になった。

 リフアは無言だった。

 やや間があった後にリフアが言った。


「お疲れのご様子、あがが揉みしだきながら眠られれば明日には、、、」


 そう言いながらリフアは細い手をマキヒコの腰に伸ばしてきた。

 そのリフアの手を背中を向けていたとはいえマキヒコは空いている方の手で払い除けてしまった。

 リフアも手を払われるとは思っていなかったようだ。

 驚愕の表情を浮かべうしを付いた。

 もう夫婦めおとになって長い。

 リフアが睦み事を求めていることは分かっていた。

 リフアはマキヒコより歳上だった。

 マキヒコは出自もわからぬ男だったが、リフアは北兎国の国主ウルド卯留都の娘。

 つまりは姫君だった。

 建国間もない頃の邪馬台国にとって北兎国の後ろ盾は絶対だった。

 邪馬台国は襤褸らんるの如く乱れに乱れた混乱に乗じ五カ国か七カ国の真ん中を掠めとり建国したのである。

 周囲すべてが領土を奪われた敵国だった。

 背中を守ってくれる国はどこか必要だった。

 しかも縁談を持ちかけたのは、北兎国の国主ウルド卯留都のほうだった。

 ただ、きっちり上座はウルドに取られた。

 リフアは、一度北兎国からみれば格下の匈夷国の太子に嫁いだ後、何があったのか誰も知らないが、離縁され北兎国に戻っていた<出戻り>だった。

 歳上なのもそのせいだ。

 この婚礼に何より乗り気になったのが姉だった。

 そしてそれがマキヒコにとっては決定打になった。

 否定する理由より否定する意思も権利もなかった。

 実は嫁ぎ先の匈夷国の太子の喉仏を噛み切ったとか、見るに耐えぬ醜女だとか、兎や鼠を生で食うとか、白目も黒目も血のように赤いとか、女陰が横に裂けているとか、マキヒコはいろんな噂を聞いたが、会ってみると姫と呼ばれるほどの美人ではなく器量は人並みで極々普通の女性であった。

 要は実に単純な政略結婚なのである。

 邪馬台国は北の守りと強い背中を得てなおかつ北の海に対する安全な道を得、さらに北の海の向こうの海外の国々との交易の機会を得た。

 北兎国は喉から手の出るほどほしい冬に積雪のない肥沃な南への出口とその土地そのものを得た。

 北兎国の国主ウルド卯留都は今でも、マキヒコのしゅうととして壮健にして健在である。


 新婚当初は、マキヒコはリフアと身体を躱した。

 それも姉の勧めで夫婦の契りを交わした義理として行っていただけである。

 マキヒコとリフアの間に子は居なかった。

 人間誰しも辛いことは続かない。

 問題はリフアにあるのではななかった。

 マキヒコにあった。

 マキヒコも悩み何度も自分に問いかけたものだが、正確には姉か。

 手をまるで汚れたもののように払われたリフアはかなり大きな声で叫んだ。


「ハルトのところへ行くのですか!」


 夫婦めおとに秘密などない。

 どうしてだか、自分でもわからなかったが、女性と身を躱すのはマキヒコにとっては大きな苦痛だった。

 よがる女性を見るのが苦痛だった。

 よがる姉を散々みせつけられたからか?

 まだ姉弟で流浪していた時期だが姉に無理やり童貞を奪われたからか? 

 リフアに強い口調で言い当てられ、マキヒコは横になったまましばらく立ち上がれなかったが、ここに居ることすらもう耐えれなかった。

 姉に尽くし邪馬台国のために尽くす自分に多少のやすらぎがあっても良いはずだった。

 それほど間を置かずしてマキヒコは寝所から立ち上がった。

 

 あの美しく優しいハルトなら自分を優しく慰めてくれるはずだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る