怪談ノスタルジア

川詩 夕

火哀

陽が沈みかけた放課後、演劇部での稽古が終わった。

 私は汗ばんだ体操着を脱ぎ、三階に有る教室の窓から校庭を眺め、学校の制服に着替えていた。部活動を終えた生徒達が疲れた表情を見せながらも、楽しそうに会話を弾ませ家へと帰って行く後ろ姿が見える。


「なっちゃん、着替え終わった?」

「ごめん、もう少しだけ待って」


 同じ演劇部に所属する知加が、飴玉の包装紙を開いている。飴玉を頬張る時に、口元から歯列強制器具がちらと輝き見えた。


「お待たせ、帰ろっか」


 装飾された色褪せている階段の手すりへ手を触れ、演劇部で稽古中の演出についての会話をしながら、ゆっくりと階段を降りて行く。下駄箱の設置された昇降口にさりげなく差し込むオレンジ色の夕陽、校庭を整備する運動部の生徒達が逆光の中で木製トンボを緩やかに引いている。木と砂が擦れる音を発し、夕暮れの情景と混ざり合って心地良く音が耳に入ってきた。


「ねぇねぇ、駅前のお肉屋さんに寄って行かない?コロッケ食べたくなってきちゃった」


 知加は笑顔で視線を投げ掛けてきた。


「良いね、行こっか、私もお腹空き過ぎてやばい」

「じゃがいもコロッケが食べたいよ」

「最高に美味しいコロッケじゃん、あの仄かな甘さが絶妙でたまらないよね。そうだ知加、色んな種類のコロッケ買ってさ、私の家でコロッケパーティしない?」

「コロッケパーティ?何それ楽しそう!良いの?」

「もちろんだよ、なんなら泊まってく?明日は土曜日で学校お休みだしさ」

「えぇ、そんな急にお泊まりしたら、なっちゃんの家族に悪いよ」

「全然平気だよ。だって今日はお家に私一人しか居ないし、それに知加が一緒に居てくれた方が心強いしさ」

「急にお泊りしちゃって大丈夫かな、お泊まりセットも用意してきてないよ?」

「知加のお母さんに今日は私の家に泊まるって連絡してみたら?着替えは私の服を貸してあげるよ?」


 知加は普段通り微笑みながら、学校指定のリュックサックからスマホを取り出し、スマホケースに取付けた名前の分からない妖怪根付けを揺らして電話を掛けていた。

 夕陽に彩られた校舎の脇に設営されている駐輪場まで歩き、普段から乗り慣れている通学用の自転車に跨った。

 夕暮れの街並みは行き交う人達で溢れ、私と知加はあえて喧騒から少し離れた帰り道を選んで通る事にしている。自転車に乗っていると、柔らかな風が汗で湿った髪を乾かすかの様に通り抜ける。日々過ごしている住宅街から、歩いて十五分程度の所に、片側が雑木林と隣接している古い感じのする公園が有る。

 公園の横道を通り過ぎようとしていたその時、不意にブレーキレバーを引き自転車を停めた。

 知加は急な出来事に驚いた様子で、慌てながら自転車を停めて私の方を見た。


「どうしたの?」


 知加の問いかける声は耳に入ってきたけれど、私は呆然としてしまい言葉の意味を上手く噛み砕くができずに、公園の中のとある方を見詰めていた。


「なっちゃん?」


 怪訝な表情を浮かべた知加が、私と視線を合わせた後に公園の中を覗き込む。


「ねぇ、なにあれ?知加、見える?」

「えっ?」


 知加は奥二重の目を細め、じぃっと公園の中を凝視した。公園の中は人の気配が無く、雨風や日光に晒され続けた遊具が幾つかぽつぽつと悲しげに佇んでいた。夕闇のグラデーションが相俟って、寂れた雰囲気を醸し出している。


「ほら、あそこ。青白い光がさ、宙に浮いてるよ」

「わっ!」


 知加もようやく公園の中の只ならぬ異変に気付いた。丁度砂場の上辺りで、ゆらゆらと宙で揺れている青白い光の存在に。


「ねぇ、これってやばいやつ?見るとやばくなるやつ?」

「なっちゃん!は、はやく、早く行こうよ!」


 それ以上の言葉を発さずに顔を見合わせた後、急いで自転車のペダルを漕ぎ公園の横道を通り抜けて行った。無我夢中でペダルを漕ぎ、公園から少し離れた住宅街に辿り着いた。私と知加は息を切らしながら、その場に自転車を停める。


「ねぇ、さっきのって何?」

「わかんない、何か燃えてる様にも見えたけど」

「おばけかな?」

「おばけ?あれって、おばけなの?」

「わかんない、初めておばけ見ちゃったよ」

「ど、どうしよう。見ちゃったね」

「びっくりしたけど、少し綺麗だったね」

「えぇ?そう言われると、綺麗だったかも」


 遠く幼い頃の記憶が脳裏を霞んだ。その記憶は宛ても無く宙をゆらりと漂い、沈黙と共に消え去る。あの時の空気感に似ていると思ったその時、お腹が空いたと可愛い欲望の音が辺りを取り巻く沈黙を割った。

 私と知加はお互い顔を見合わせて、声を出して笑い合った。


「やだぁ、お腹空いたし早く帰ろ!」

「うん、そうだね!」

「美味しいコロッケ達が私の帰りを待ってるよ」

「うん、急げ急げ」


 駅前のお肉屋さんで、いくつかの種類のコロッケを注文をして、コロッケを揚げてもらっている最中に知加がサラダも食べたいねと言った。家に帰る途中にある青果店にも寄り、キャベツを一玉買った。私はキャベツを細く切る千切りは苦手だから、知加に頼んで上手に切ってもらおう。胡麻ドレッシング、まだ残ってたかな?無かったらマヨネーズをかけようかな。


「ただいま」

「こんばんは、おじゃまします」


 家の玄関で靴を脱いでいる時、不意にどこか違和感を感じた。


「お線香の匂いがする」

「本当だ、ほんのりお花の香りがするね」

「お母さん、今日はお家に居ないはず何だけどな」


 私のお母さんは香玉堂のお線香の匂いが好きで、一日に一度は好きな匂いを楽しむ為に線香を焚く事が日課だった。気持ちを落ち着かせる為に焚く線香の匂いが、微量な違和感を纏い鼻を擽ぐる。


「やだなぁ、やだなぁ、怖いなぁ、怖いなぁ」

「それは、怖い話をする人?」

「うん、正解」

「物真似してたの?」

「にひひっ」

「似てないよぉ」


 知加を背にし、私は薄闇に包まれた洗面所の扉にそっと手を掛ける。


「ぎいぃぃ……」

「もういいよぉ」

「それなっ」


 知加はミニュチュアダックスフンドの様に顎を下に引き、困り眉毛を浮かべて上目遣いで私を見詰めた。家の様子がいつもと違い少し不安だけれど、夕飯を食べる為にわざわざこの家まで遊びに来てくれた知加を怖がらせてしまう訳にはいかない。


「とりあえず、手洗いうがいをしちゃおっか」

「うん、そうだね」


 洗面台に置いてある、ピンク色の容器に入ったハンドソープで手を泡だらけにして不安な要素も一緒に水で洗い流してしまおう、そう思った。


「そういえば、知加は料理が得意でしょ?」

「得意って程じゃないけどね、料理をするのは好きだよ」

「にひひっ」

「うん?」

「キャベツの千切りよろしくね」

「キャベツの千切りは簡単だよ」

「私は食卓準備担当大臣だからね」

「大臣?それは何をするの?」

「テーブルを拭いたり、お茶を入れたり、食器の準備かな」


 知加はいつもの様に微笑んで歯列矯正器具をちらと見せた。普段から見慣れている為か、知加の歯に取り付けられた歯列矯正器具はアクセサリの様に見える。笑う度に小さな口の中できらりと輝きを放ち、知加の可愛さを一層際立たせ、とても素敵で似合っていた。

 リビングルームのテレビをリモコンで点けると、刑事ドラマが追悼番組という名目で再放送されていた。主人公の警部補が犯人を取り調べる際、様々な言葉を巧みに取扱い、のらりくらりと寄せては引き、引いては寄せ、見事に心理を揺さぶる話術と抜群の推理力を発揮する主演俳優の演技が妙に心地良く、延々と見続けていられそうな不思議なドラマだった。主演俳優の独特な癖の有る演技に魅せられて、私も演技をしてみたいという夢を抱く様になった。知加と二人で食卓を囲みながら刑事ドラマを観る。私はコロッケを食べながら、胸の奥底で静かに主人公となり感情移入する。この事件、必ず解決してみせる。なんてね。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした、美味しかったね」

「うん、美味しいコロッケをたくさん食べれて幸せだよ」

「お腹いっぱいだね」

「知加、先にお風呂入っておいで」

「えぇ、先に入っちゃって良いの?」

「良いよ、着替えとバスタオルは用意して後で置いとくね」

「ありがとう、お先にお風呂いただくね」

「あいよ、いってら」


 鼻歌を歌いながら洗い物をしていると、テレビ放送はニュース番組に変わっていた。見出しは凄惨な事件から一年、残された家族達の時は止まったままと映し出されていた。暗いニュースを見ていると気が滅入りそうになるから、テレビ画面は見ず洗い物に集中する事にしよう。洗い物をしていると、テレビの音は流水音に掻き消されて鮮明には聞こえてこない。洗い物界では常識で世の常だ。そうだ、知加のパジャマとバスタオルを用意しなきゃ、知加はパステルカラーが好きなんだよね、パステルカラーのパジャマはどこに仕舞ったかな。


「ねぇ、誰かが悪戯してたって事は考えられない?」

「悪戯?砂場の周りには誰も居なかったと思うけど」


 火照った首を傾げて、先程の公園での出来事を思いだそうと脳内の記憶を遡る。


「砂場の周りには、姿を隠せそうな遮蔽物なんてのも無かったよね?」

「うん、たしかに何も無かったかな」

「ねぇ知加、コンビニまでアイスクリーム買いに行かない?甘い物が食べたくなってきたよ」

「アイスクリーム?良いよ、買いに行こう」

「ついでにさ、公園に行って確かめてみない?」

「確かめるって、何を?」

「お・ば・け」


 知加の顔は引き攣り首を横に振った。奥二重に包まれた黒目がちの瞳は澄み切っていて潤んでいる様に見える。

 玄関を出ると辺りはすっかり暗く、街灯がポツポツと道路を寂しく照らし出し、光源の周りを小さな虫達が当てもなく彷徨っていた。気でも狂ったかの様に同じ動作を反復している。体力が尽き、希望を見失うまで羽ばたき続ける死の舞。あの虫も地の果ての絶望に苛まれ、精神的に追い詰められた人間と同様に、気が狂れてしまうという事は有りえるのだろうか。まだ目にした事の無い、気が狂れた虫の姿を想像していると、何だか切ない気持ちになった。

 私と知加はそれぞれの自転車に跨り、コンビニへ向かう途中に有る先程通った

公園の横道を通ろうとした時、ふいと砂場の方へ視線を向ける。

 公園を挟むフェンス越しに、私と知加の視線の先には青白い光がゆらゆらと宙を漂っていた。


「ねぇ、はっきりと私の目に映ってるよ」

「うん、確かに見えるね」

「ねぇ、近づいてみる?」

「えぇ、やめようよ」


 恐怖という感情は、これっぽっちも一切無かった。どこか愛しく、儚げで、無垢を纏う青白い光。


「なんだろう、怖いって感じが全くしないんだよね。例える事が難しいけど、直接触れてみたい」

「えぇ、本当に?」

「にひひっ」


 私と知加は、公園の入り口まで移動し自転車を横並びにして停めた。知加は幼い子どもが隠れんぼをする時みたいに、慌てて私の後ろ側へと回り込み、身を潜める。お風呂上がりの薄着な火照った私の肩に両手を乗せて、恐る恐る砂場周辺の様子を覗き見ている。

 私はゆっくりと青白い光を目指して歩き出した。目的の場所に少しずつ近付く度、知加の指先が私の肩にぐぐっと食い込んできた。


「知加、痛いよ」

「だ、だって怖いもん」

「心配しなくても大丈夫だよ」


 知加と密着している為、少し熱を帯びた温もりと緊張の渦に揺れる息づかいが、ひしひしと私の身体へと伝わってくる。青白い光との距離が二メートル程までに近付いた。目の前でゆらゆらと宙を漂う不思議な幻惑に目を凝らす。


 それは煌々と燃える青白い火の玉だった。


 火の玉は私と知加の視線の高さ辺りをゆらゆらと小さく揺れ動いた後、ゆっくりと何処かへ移動し始めた。


「なんだろう……この感覚……」


 私と知加は不思議な出来事を目の当たりにし、ごく自然な流れに吸い寄せられる様に火の玉の後を目で追う。

 火の玉は砂場を通り抜けて公園の片側を囲っている浅い水路を通り越し、ゆっくりと薄暗い雑木林の中へと入って行く、私と知加を誘っている様にも感じ取れた。


「ねぇ、ついて行ってみる?」

「ほ、本当に?」

「うん」

「大丈夫かな?」

「わかんない」

「わかんないって」

「にひひっ」


 怖くは無いけれど、これから何が起こるのかは皆目検討が付かなかった。知加に不安を悟られない様に、少しだけ強がって笑顔を意識する。

 僅かに水が流れている浅い水路を渡り、白い運動靴の底面を水で濡らしながら火の玉の後を追って雑木林の中へと足を踏み入れる。静かで鬱蒼とする雑木林、木々の合間を差し込む月明かりが視界の手助けしてくれている。辺り一面に一陣の風がさぁっと吹き流れ、木の枝がしなり葉と葉が擦れ合う音が頭上から聞こえてくる。

 ゆらゆらと宙を漂いながら移動を続ける火の玉の動きが緩やかに止まり、ぬらり煙と空が交わる時みたいに、さぁっと消え去ってしまった。


「あっ」

「消えちゃった」


 私と知加は火の玉が消えて去ってしまった場所まで歩き、辺りを注意深く見渡した。


「この辺りだったよね?」

「うん、そうだと思うけど」

「どこへ行っちゃったんだろう」

「消えちゃったね」

「痛っ」

「どうしたの?」

「何かに躓いたみたい」

「大丈夫?」


 木々を揺らす風がふっと止み、陰鬱な雑木林一帯を不気味な静寂が包み込む。夜闇の中、木々の合間をまばらに照らす月明かりだけを頼りにしながら足元にじっと目を凝らした。湿ったような黒い土を踏む運動靴が数センチ地面へと沈み、辺りは落ち葉や木の枝が散乱し名前の知らない植物がたくさん根付いている。剥がれ落ちた木の表面の下に、泥に塗れ色褪せた衣類の様な物が、細めた目に映り込んだ。


「人形? 人形が落ちてるよ?」

「えぇ、人形?」


 私はすくっとしゃがみ込んで、背中を向け倒れている表情の見えない人形に手で触れ、右手でごろりとひっくり返す。


「きゃあ!」

「わわっ!」


 それは人形ではなく、パステルカラーのロンパースを着せられた、恐らく生後間もないであろう、赤ん坊の姿だった。

 小さな顔の表情を見た刹那、私は背筋が凍りつき、背中越しに知加の呼吸が止まったのを感じ取った。赤ん坊の顔には眼球が無く、ぽっかりと二つの真っ暗な空洞が横並びで見えた。

 眼窩の片方の中に、じゅるじゅると粘膜が纏わりついた蛇の様に先端部が割れた舌が見え隠れし、もう片方の中には細長い尻尾の様な漆黒の影がちらつく。腹部の辺りをぎゅっと何者かの手で掴まれた様な感覚がして、恐怖と悲しみが頭の中でぐちゃぐちゃと混ざり合う。気持ちが勢い激しく沈み込み、全身が暗闇の底無し沼へと引きずり込まれそうな錯覚に陥った。


「あぁ……」

「ひぃ……」


 赤ん坊は古びれたぜんまい式の人形の様に、ゆらゆらと首を左右に動かし、その動作につられ両手はぎこちなく小刻みに震えている。

 小さな口がわなわなと揺れ、その隙間から闇に染められた悍ましい物が見えたその刹那、声を発すると悟った。身体中雁字搦めに張り詰めていた糸が千切れ、知加は強張った身体から悲鳴にならない叫び声を上げ、夜闇に歪む雑木林の中を駆け出した。


「えっ?知加!待って!」


 木々の隙間を差し込む月明かりが、知加の後ろ姿をまばらに照らし、だんだんと小さくなり、その姿が見えなくなった。私は知加の後を追おうと一歩踏み出した、湿った土の上を歩く足取りは泥が纏わり付いた様に重たく、自分の足じゃ無い感覚がして気味が悪かった。

 蛇に睨まれた蛙と同様みたく、胸が苦しく、心が痛み、頬を伝う雫は汗なのか涙なのかは理解する事ができなかった。


「はぁはぁ……」


 息を切らしながら振り返るとそこには、風に揺れ動く雑木林が蛇の群れの様に蠢き、瞳を細長い舌で舐め回す様に映り込んできた。私は思わず視線を下に逸らして、湿った土で汚れた運動靴を見詰める。鼓動が鈍く、重く感じられ、身体中をどろどろとした汗が滲み出てくる。


「あれ……?なっちゃん……?」


 周囲を見渡しても、なっちゃんの姿はどこにも見当たらなかった。

 

そんな……どうして……私……一人で……逃げて来ちゃったの……早く……戻らなきゃ……なっちゃん……ごめん……ごめんね……。


 夏が近いというのに、妙に肌寒かった。気が付けば、呆然と立ち竦んで居た

 濁った水の中をぼんやりと沈んでいるみたい。感情の膜に穴が開き、その隙間から少しずつ意識が散り散りに漏れてゆく。

 声?どこからか、微かに声が聞こえる、誰の声だろう?何か聞き覚えのある声、けれども、中々思い出せない、その声は次第に大きく木霊する。

 淀んでいた私の目の焦点が少しずつ定まってくる、もう、何も見たくないんだけどな。でも、暖かい、甘ったるくて、優しい、私の好きな声なんだ。


「なっちゃん!」


その声が聞こえてきた方へ振り向くと、前方から知加が駆け寄って来る姿が見えた。


「知加……」

「なっちゃん……」


 知加は息を切らして泣きながら私の身体をぎゅっと抱きしめた。知加の華奢な身体の体温が、じんわりと暖かく伝わってくる。知加の温もりのおかげで、私の思考回路がしゃんしゃんと次第に繋がり始める。


「あの子さ……呼んでたんだよ……」

「え……?」

「私たちを……」

「うん……?」 

「小さな身体で……力いっぱいにさ……」

「なっちゃん……」

「ここに……いるよって……」

「うん……」


 私と知加はもう一度、先程の場所へ戻って来たけれど、そこに赤ん坊の姿は無かった。二人で目にしたものは、ずたぼろで色褪せた布切れの上に、薄汚れた小さな人骨らしきものが散乱している有様だった。

 私と知加は一言も言葉を発する事ができず、ただただその場に立ち尽くしていた。何をするべきなのか考えを巡らせていると、様々な感情が込み上げきて、ぐるぐると行く当ての無い白と黒の心が混ざり合い、自分の不甲斐なさに涙が溢れてきた。


「そうだ、紗江花だ、紗江花だよ!」

「紗江花ちゃん?」

「紗江花の家は神社でさ、幼い頃から度々不思議な体験を聞かせてくれた事があったの、紗江花に聞けば、どうすれば良いのか分かるかもしれない」

「う、うん」


 私はジャージの右ポケットからスマホを取り出して、幼馴染みの狗神紗江花に電話を掛けた。しばらく呼び出しの音が聞こえ、後に電話は通話状態となった。


「もしもし、夏子どうしたのさ?元気?」

「う、うん」

「病気?」

「違う違う。紗江花、今ね、凄く不思議な事が起きてさ」

「不思議な事?そりゃあ、いったい、なんじゃらほい?」


 事の発端から先程までの出来事を伝え終えると、紗江花は「これから向かうから待っとりなはれ」と私と知加を憐れむ様子でそう告げた。私と紗江花は小学校以前からの友達で、家もご近所さんで家族同士の交流も有った。この雑木林の隣接している公園までに辿り着く時間は、およそ数十分だろう。

 紗江花はすらりとした長身で運動神経が良さそうに見えるけれど、凛とした見た目とは裏腹に、どこか天然でぼうっとしてる所がある。授業中もよく居眠りをして、テストの順位も下から数えた方が早い。けれども、人一倍心は優しく、誰からも憎まれない、いや、正確に言うと存在感があまりなく、角が立つ事が無い。私はそんな紗江花を見ていると心が安らいで、いつも自然と笑みが溢れてしまう。 

 二十分後、公園の周りを走る自転車が一台見えた、私服姿の紗江花を見るのは久しぶりだった。私の目に映る紗江花の顔は、夜に紛れていつもより一層青白く見えた。自転車を公園の入り口に止める際、ききぃとブレーキレバーを引く錆び付いた耳障りな音が辺りに響いた。


「やぁやぁ待たせたね、夏子に知加、大丈夫かい?」

「紗江花、夜遅くに呼び出したりしてごめん」

「大丈夫さ、気にしないで。夏子と知加が無事でなによりだよ」

「紗江花、何か感じる?」


 紗江花は目を瞑り、綺麗に整えられていた長髪を掻き上げながら、わしゃわしゃと捏ねくり回した。


「少しだけ、気配を感じるよ。さっき話してくれた場所まで案内してくれるかな?」

「わかった」


 私と知加は、骨の姿に変わってしまった赤ん坊を見た場所まで紗江花を連れて行った。紗江花は時折、何か匂いを嗅ぐ様に鼻をひくひくさせたり、髪を手でわしゃわしゃと弄りながら「あぁ、うんうん。はぁん」と奇妙な独り言を呟いていた。

 不思議な事に、私と知加は不安よりも安堵感の方が優っていた。紗江花は私と知加と目が合う度に、首を傾けながら満面の笑みを見せてくれた。この緊張感の無い和やかな雰囲気は、きっと天性の生まれ持った物なんだろうと心の中で思った。


「紗江花、ここだよ」

「どうも」


 紗江花は長い睫毛を纏う切長の目を少し細め、湿った地面に散乱した骨をじっと見詰めていた。雑木林へと差し込む月明かりに照らされた紗江花の青白い顔は、より一層美しく映えて見えた。


「紗江花、私と知加に何かできる事は有る?」

「ううん、何もしなくて大丈夫さ。隣に、一緒に居てくれるだけで十分だよ」


 紗江花は穏やかな表情を浮かべ、艶やかな口元をそっと開いた。

 それは、幻想的で優しさに溢れた不思議なメロディーだった。

 さざ波の様な柔らかな風が通り、遠く幼い記憶がくすぐったい感覚。どこかノスタルジックで、心地良く胸の奥底へと響いてくる歌声。私と知加が立って居る地面の周りが微かに振動し、その刹那ふわりと身体が空中へ舞い上がったかの様な錯覚を感じた。眠りへと誘われる様に自然と瞼が閉じてゆく、目の前に存在する景色が炭酸の泡沫の様に緩やかに弾け飛ぶ感覚。

 柔らかな風と共に奏で合う紗江花の歌声は、ふぅっと静かに息を吐く音と同時に現実の世界と溶け合った。経過した時間は一分かもしれないし、一時間かもしれない。体感時間は全く検討がつかなかった。

 閉じていた瞼を開くと、先程まで目の前に有ったはずの小さな骨は衣類と共に、跡形も残らず消え去っていた。


「もう、大丈夫だよ」

「ねぇ、何が起きたの?」

「すやすやと眠ったよ」


 私は鈍っていた賢くない頭を回転させ思考を巡らていた。


「夏子と知加は、心が優しいからさ、素敵だね」


 紗江花はそう言って、髪をぼさぼさにしながら穏やかに微笑んだ。


「紗江花、ありがとう」

「うん、ほんじゃあ帰る」


 背を向けた紗江花の後ろ姿は、夜闇に輝き咲く一輪の花の様に凛としていて、息を呑む程に綺麗だった。


 星瞬き月は姿を変え、私と知加はいつも通りの平穏な日常を過ごしていた。紗江花と学校で顔を合わせても、あの日に起きた不思議な出来事について語る事は無かった。話題になる事を避けているのではなく、日常生活において話題になる事が無いだけだ。それに加え、あの時の記憶は本当に夢の中の出来事だったかの様にも思えてしまう。

 晴れた日曜日の昼下がりの公園では、小さな子ども達がたくさんの笑顔を見せ合い、かけっこをしたり、砂遊びをしたり、とても楽しそうにはしゃぎながら明るい声を響かせている。寂れた遊具は光を宿し、まるで甦ったかの様に色彩と自らの使命を取り戻していた。


「私ね、なっちゃんに謝らなきゃいけない事があるの」

「うん?」

「あの夜の、不思議な事」

「あの夜?」

「凄く……悲しくて……胸が苦しくなって……」


 知加は目に涙を一杯に浮かべ、今にも溢れてしまいそうだった。


「知加っ!アイスクリーム溶けてるよ!早くぺろぺろして!」

「わわっ!」


 知加の焦る表情が面白くて、私は自然と「にひひっ」と笑みがこぼれる。


「知加は超怖がりなのに、勇気だして急いで私の所まで戻って来てくれたんだよね。ありがとう、大好き」


 そう言って知加の肩をぽんっと大好きの気持ちを込めて軽く叩くと、屈託のない満面の笑顔が返ってきた。

 梅雨が通り過ぎ初夏の日差しが雑木林の中へと降り注ぎ、そよ風は新緑の葉とまだまだ成長途中の木々を揺らしている。

 季節が移り変わる時に感じられる心模様は、私と知加の肌を静かに撫でて爽やかに通り過ぎて行った。

 どこまでも無垢に晴れ渡る青い空。ゆっくりと私の胸の内側へ、穏やかで優しい声が聞こえた。


「ありがとう」

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