回想①

 ふ、と顔を上げる。

 夜の十二時になろうとしていた。

 私はソファーから身を起こし、壁の「風呂自動」のボタンを押す。十五分ほどで、お湯がたっぷり入った湯船ができあがる。

 今日は金曜日だから、私と浅賀はふたりでくっついてお風呂に入るだろう。汗を流しているのだかかいているのだかわからない入浴の後、ふたりでベットにもぐりこむだろう。いつものように、もう何度も繰り返してきた作法のように。

 浅賀と恋愛関係になってから、四年が経っていた。

 それは、とても長いように思えた。

 私はもう一度ソファーに倒れこんで、うつ伏せになった。時計の進む音が妙に大きく聞こえる。

 浅賀の帰りを待ち遠しく思う一方で、もうずいぶん前からある胸の思いしこりに気付かざるを得なかった。

 そもそもが、私は浅賀とこんなに長く一緒にいるつもりではなかったのだ。

 浅賀は私にとって、魅力的な男だった。

 何かがいつも足りないような顔をしていて、貪欲に私を必要とした。与えても与えても満足しなかった。はじめから慣れた手つきで扱われ、私は、まるで自分が何もできない子供になったような気がした。

 それでいて浅賀は時々、彼自身が子供のように無邪気な顔で意外なことをした。突然二十万もする自転車を二台購入し、きらきらした目で、ふたりで出かけようと言ったこともあった。奔放で刺激的な男だった。

 けれど、と思う。

 けれど。私は今日で二十九歳になるのだ。

 私のあらを探し、陰で嘲笑していた同僚にはふたりめの子供ができたという。大学で一緒だった同年代の女は、ほとんどがとうに結婚して、食事の支度だけを悩みの種として、穏やかで退屈な幸せを満喫している。

 幸せは世の中のどこにだってあるような気がするのに、どうして私は幸せとは遠いところに、こうしてからめ捕られているのだろう。

 初めて出会ったとき、浅賀にはすでに妻と二歳になる娘がいて、それはもう、私の力ではどうしようもないことだった。

 インターホンが鳴った。

 浅賀だ。私は玄関に向かう。浅賀は合鍵を持っているのに、必ずインターホンを押してから鍵を開ける。それがマナーとでも思っているみたいに。

 いつまでたっても、他人なのだと感じる。


「誕生日おめでとう、るり子」


 入ってきた浅賀が笑顔でそう言って、近所のケーキ屋の箱を私に渡す。


「この時間だから、ホールケーキはなかったよ」


 浅賀がスーツを脱ぎながら言った。私は冷蔵庫にケーキを入れる。

 昨日買ったキャベツが邪魔だった。まずはキャベツを取り出す。


「いいの、ひとりじゃ食べきれないから」

「俺が食べるよ」


 週に一度しかこないのに、とは言えない。

 ケーキの箱を冷蔵庫の中に押し込んで、振り返ろうとしたところで後ろから抱きすくめられた。

 浅賀からは、外のにおいがする。電車と香水とたばこのにおい。

 首元に唇を押し付けられると、何も考えられなくなった。

 こうなると、浅賀が与えてくる快感におぼれるしかないのだ。心は乾いて端っこからぼろぼろ崩れてなくなっていくのに、体を重ねるたびにむなしさは大きくなっていくのに、体はそれすらもスパイスとばかりに悦ぶのだ。

 私の体は、いつも私を裏切る。泣き出したいのに叫びたいのに、どうしてもやめられない。

 浅賀が私の中に入ってきたとき、私は声をあげた。


「待って、つけてよ」


 浅賀は避妊が嫌いだ。快感が損なわれるし、私も痛がるからだ。彼に言わせれば「誰のためにもならない」のだそうだ。

 けれど私はいつも要求する。未婚の母になる気は毛頭ない。だが私の声は真剣そうにではなく、やや笑いながら出されることになる。そうしないと、浅賀はもう二度とこないと知っているからだ。


「できたらどうするの、もう」


 私にのしかかる浅賀の頭を、ぺしんと軽く叩く。浅賀は薄く笑った。


「ドブに捨てればいいじゃないか」


 まるで、傑作のジョークとばかりににやにやしていた。

 その瞬間を、私は一生忘れない。

 世界が終った、と感じた。

 私のこれまで信じていたすべてのものが、この世から永遠に引きはがされてしまった。

 浅賀と行った楽しかった思い出、クリスマスイブのデイズニ―ランドや観覧車の真上でのキス、夜中のバーが頭をよぎり、次に浅賀によく似た彼の娘と美しい妻の顔――実は隠し持っていて、憎しみをもって穴が開くほど見つめた写真の顔――が思い出された。

 それらが全部ぐしゃりと潰れた音が、私には鮮明に聞こえた。

 私はベットから起き上がった。

 無表情の私に気圧されたのか、浅賀は素直に体をどけた。浅賀はベットの縁に腰掛け、壁を見つめた。叱られた子供のように、すねたような顔をしていた。私が猛然と怒り狂っていることに気付いたらしい。

「謝って」とだけ私は言った。

「それはできない」当然のように浅賀は答える。

 なぜかと問うと、「無意識から出た言葉は、注意しようがない」と言った。そしてこうも言った。


「期待しても、俺は変わらない。嫌だと言うなら別れればいいだろう?」



 ふと気づくと、私は血だまりの中に立っていた。

 足元には何十回も刺されて、顔も胸も背中も足も真っ赤に染まり、不自然に顔だけが白い浅賀が倒れていた。

 目は恐怖に見開かれ、もはや生きていないのは、素人の私にも一瞬で分かった。

 ああ、やってしまった、と思った。

 裸で股間を晒したまま、間抜けに倒れている浅賀をまたいでベットに近づき、服を着ようとした。しかし、服を着ていない自分の肌も血まみれなことに気付いた。

 もうこうなったら慌ててもどうしようもない、まずはシャワーを浴びよう、とふたりで入るつもりだった風呂に向かう。

 シャワーで血を流す。

 赤い液体が自分の体を滑って排水溝に流れていくとき、寒くはないはずなのに首の後ろがぞくっとした。

 しかし、シャワーの水が染まらなくなると、だんだんと先ほどの出来事が遠く感じられた。ゆっくり考えようと、あたたかい湯船につかる。

 早く別れるべきだったのだ。

 浅賀に持っていた愛情や親しみは、さっきの一言で消し炭になっていた。今となっては、いやに冷静に自分の執着を見つめられた。

 あんな男のために、人生を棒に振ることなんて全くなかったのだ。別れられなかったのは、自分の弱さだった。

 必要とされることに、異常に飢えていた。あの男に価値がないと薄々気づいていたのに、分からないふりをした。注いだ時間や愛情や体や金が、無駄になったと思いたくなかった。愛しているから別れられないのだと、自分に言い訳をしていた。

 意識はぼんやりしていたが、浅賀を刺した感触はしっかりと手に残っている。

 思っていたよりもずっと重い肉を切る感触。ドラマで聞くような音が、本当はしないと知った。静かに、何度も何度も包丁を振り下ろした。顔や胸を刺して動かなくなった後は、明らかな殺意を持って太ももや首の動脈を断ち切った。

 湯船から出て、新しい服を着る。

 浴室を出たときに、寝室から浴室まで、自分の足跡が血に縁取られて残っているのに初めて気づいた。

 頭の中は冷え切っているような気がしているのに、全く動いていないのだと愕然とした。それは、連日の徹夜明け後のドライブに近い感覚だった。分かっていないことに気付けない。

 下着姿で寝室に向かう。

 当たり前だが、そこには血まみれの浅賀が倒れていた。さっきと全く同じく、情けなく転がり、私の人生を終わらせた屑のような男がいた。

 猛烈に、腹が立ってきた。

 こんな下らない人間のために、私の一生が台無しになるなんて。

 そんなこと絶対に許せない。私はまだ若いのだ。これからいくらでも未来があるのだ。

 それを、この男のせいで刑務所に入り、青春の多くを食いつぶされ、人殺しの烙印を押されて過ごすだなんて。

 ふと、思いついた。

 私には絶対的な味方である人間がいる。きっと、犯罪であっても。

 私は携帯電話を手に取り、その番号を発信した。私の未来を永遠に変える、辻村の電話番号を。


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 辻村がるり子を初めて見たのは大学のキャンパス内で、授業後の時間だった。

 中央前方に黒板があり、席に高低がつくことで多くの学生が授業を受けることができる大講堂だった。

 一年生の夏だった。

 窓の外では日差しが照りつけ、学生たちはもうすぐ来る定期試験のためだけに授業に出席し、講義中はせっせと他の授業の内職をしていた。きっと違う授業の時間に今の講義の内職をするのだろうから、なんて非効率的だろうと辻村は思っていた。

 るり子はその日の授業も、ひとりで端っこの席に座っていた。

 というのも、彼女は授業の前後にいつも本を読んでいて、同級生たちが話しかける機会を与えなかったからだ。るり子がそうしている理由を、辻村はなんとなく分かっていた。

 るり子はとても整った顔をしていた。

 瞳は大きく、鼻筋がすうっと通っていた。唇はぽってりと赤く、対して肌は白く、脚も長かった。ゆるくパーマをかけた髪はしっとりとした光沢があり、本を読むときの癖なのか、無造作にかきあげられても絵のようだった。

 気取らない仕草に、少しの諦観、少しの哀しみが滲んでいた。

 あまりにも美しい顔立ちなので、同性からは嫉まれ、異性からはへつらわれることが容易に想像できた。辻村もまた、彼女の顔と、独特の雰囲気に魅せられた。

 しかし辻村は、るり子に話しかけることができなかった。それは、辻村が、自分の容姿にひどく劣等感を抱いていたからだ。

 辻村は背が低く小太りで、鼻は団子のように大きかった。おまけに眼がひどく悪く、分厚いレンズの眼鏡をかけていた。眼鏡のせいで、一重で細い目が、より小さく見えた。そんな顔をるり子に向けて話す自信がなかった。

 るり子と辻村が初めて言葉を交わしたのは、辻村が同級生にからかわれことがきっかけだった。辻村にとっては慣れっこの、女子からの差別的な振る舞いだった。


「あの眼鏡やばくない?顔見えないんだけど」


 くすくすという笑い声が、講義の途中にも耳に入った。辻村は目の前の講義に集中しているふりをした。


「この間、朋美が言ってたんだけど、あいつの隣ってすごいんだって」

「何が?」

「におうんだってさ」


 辻村は、物心ついたときから、人に好かれなかった。外見がマイナスになっていることで、実際にコミュニケーションをとるときは負債を取り返さねばと焦った。何か面白いことを言わなければいけない気がして、結局失敗し、また焦り、軽いパニックに陥ってしまうのだ。

 人からどう思われるかを気にしすぎて、自分の意見を言うことできない。周囲から、理解できない気持ち悪い人間だと思われていると、知ってはいた。


「ちょっと」


 辻村の真後ろから、不機嫌そうな声が聞こえた。るり子だった。

 このとき辻村は、初めてるり子の声を聞いた。想像していたよりも低く、妙に説得力のある声をしていた。

 るり子は机を睨みながらぼそりと言った。


「今のとこ試験に出るって。聞こえなかったの、あんたらのせいだから。外でやれよ」


 それきり、辻村を表立ってどうこう言う学生はいなくなった。それをきっかけに、辻村とるり子は会話するようになった。


「眼鏡、重くない? コンタクトにしないの?」

「角膜に傷があって、できないって医者が」

「なるほどね」


 他愛もない会話でも、辻村にとってはとんでもなく素晴らしいことだった。

 るり子は辻村に、何も要求しなかった。いじられる立ち位置になるよう圧迫したり、るり子を楽しませないと場が白けることもなかった。

 大学生活の一年がたち二年がたち、いつの間にか辻村は、るり子のことを愛していた。

 るり子の家庭が複雑で、高校卒業と同時に家を出たこと。高校の頃、同級生からひどいいじめに逢ったこと。

 るり子は辻村になんでも話した。辻村は自分の気持ちを抑え、じっくりと話を聞き、常に彼女の良き理解者であろうとした。

 るり子が合コンで知り合った大学生と付き合っても、辻村はただ見守っていた。こんな自分では、彼女を幸せにできないと思っていた。

 辻村は、るり子がどんどん美しくなり、また、だまされたり裏切られたりして、疲れていくのを一番近くで見守っていた。

 るり子が大学生と別れ、就職しても、その友人のような関係は続き、るり子が会社の上司と不倫し始めても、それが原因で会社を辞めても、何も、何も変わらなかった。

 だから、電話が鳴ったとき、辻村は思ったのだ。


 ようやく、自分がるり子を守れるのだと。

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