第2話 告白

 あの日。


 彼女を商店街で見かけた、あの日。

 息が詰まって。心臓が驚く程跳ねて。俺はつい、死んでしまうのではないかと思った。


「ま、まって……!」


 手を伸ばしていた。その頼り無く零れた声が届く程の距離に、彼女は居なかった。だから、走った。声が届くまで、その距離を詰めた。

 行き交う人達は、突然走り出した俺のことを別に気にも留めてない。誰もが、自分だけの“当たり前の日常”の中に居た。

 この日。この時。俺だけが、その“日常”の外に居た。



「俺の事、覚えてますか?」



 自分でもつい笑い出してしまいそうになるほど、切羽詰まった声が出た。少し走っただけなのに、なかなか呼吸が調わない。カバンがずり落ちないようにと抑えた手が、情けなく震えていた。


 彼女は目を丸め、そして、泳がせた。

 それだけで、全てを悟る。


 続く「ごめんなさい」なんて聞かなくても分かった。

 でも、実際に「ごめんなさい」と否定の意味を持つその言葉が鼓膜を打った時、彼女を見付けて逸っていた気持ちが一気に谷底に突き落とされた。アスファルトが崩れる。世界から、音が消える。色を無くす。




 かつて、貴女が俺に与えてくれたその全てが、貴女によって、無に還る。




 そんな、絶望を。

 しかし、「それでも、また出逢えた。巡り会えた」と言う気持ちがなんとか俺を支えた。立っていさせてくれた。

 そうすると、浮かぶ欲。人間という生き物は、本当に、強かで、強欲だ。


「突然で、すみません。ずっと、貴女が好きでした」


 かつて、叶うことのなかったこの想いを。現世では何とか成就させられやしないだろうか、と。俺は既に、そんなことを考えていた。


「トモダチからで構いません。俺と、縁を結んで下さい」


 そう言って差し伸べた手を、彼女は少しだけ躊躇って、それでも、その温かな手で確かに握ってくれた。









 彼女とは、慎重に距離を詰めた。

 警戒されるのが何よりもいけないことだと思った。只でさえ、俺は見ず知らずの高校生だったから。遊びや悪戯と思われるのも良くないし、不審者と思われるのは以ての外である。

 まずは他愛のない些細なやり取りから。どんなにつまらない内容だろうと、性格なのだろう、彼女は律儀に返してくれた。

 朝、『おはようございます』から始まるメッセージ。『おやすみなさい』で終わる日々が重なった。

 大体、俺は彼女のことを質問した。好きな本のタイトルや、アーティスト。何色が好きか?好きなお菓子は?今、食べたいものは?晩御飯に何食べてますか?ーーー沢山の脈絡の無い質問も、彼女は律儀に回答してくれた。

 現世の彼女の情報が増えていく。まるで、その度に自分が受け入れられて行くようだと錯覚する。

 それでも、眠りにつけば悪夢を見る夜がある。彼女に出逢ってから、寧ろ、増えた気さえする。


 俺は前世で、人を殺した事がある。

 彼女は、医者だった。


 俺と彼女はかつて、同じ学校の先輩後輩関係にあった。

 病院でのその再会は、本当に偶然だった。

 自分の正体を隠して偽って、再会した彼女は優しく俺に笑いかける。

 かつての、俺の初恋の人。

 その再会は、すっかり荒みきっていた俺の心を癒した。彼女のことを再び好きになるなんてのは、用意された運命の上にあった。

 けれど、彼女の想い人は俺ではない。悪夢。


 前世の俺と先輩との最後の記憶。

『気が付いてたよ』と。静かに。


 月明かりが眩しい夜だった。満月だ。次の日が俺の退院の日だった。忘れられるわけもない、鮮明な記憶。貴女の、普段は太陽のように眩しい笑顔を浮かべるその顔が、少しだけ俯いて影になる。



 ああ。悪夢。



 蘇るどうしようもない過去に。後悔なんて言葉では言い表し切れない。

 人の命を絶った時のその感触も。次第に血の気が失せていくその表情も。ああーーー。


(生まれ変わったって、俺には、幸せになる権利なんて無いのに……)


 それでも、貴女が欲しいと思ってしまった。

 目を覚ましたその日は、月明かりがカーテンの隙間から零れて眩しい。既視感。ああ。また、現実が分からなくなる。吐きそうだ。俺は、どっちだ?かつての名前と今の名前とで、混乱した。



 前世の罪の為の罰なのだろう。



 記憶を持って生まれ堕ちた事も。その環境が、粗悪な事も。ーーー俺の家庭は“機能不全”にあたる。既に、崩壊していた。

 それでもその為に自分を不幸だと思ったことは無かった。不幸なのは、現世に彼女(せんぱい)が居ないことなのだから。



 でも、違った。



 ふわふわと揺れる焦げ茶色の長い髪。スラリと長く、それでいて、しなやかな体。不安に揺れても、奥にある芯の部分にはしっかりとした意思の籠る瞳。



 紛れもなく、彼女だった。



 彼女に出逢えた。

 一瞬にして、色が蘇る。音がする。心臓が鳴る。息が出来る。俺は、また、“人”になる。

 この不安に五月蝿い心臓を落ち着かせたくて、堪らずスマホを手に取った。

 そろそろ十一時が来る。迷惑に思われるだろうか。寝ているだろうか。少しだけ、そんなことが頭を過ったが、ツーコールで彼女の声がした。

 ホッと、鼓動が落ち着く。吹き出した汗が全身を濡らして冷えきっていた身体に、優しい熱が宿る。


「今から、会いに行ってもいいですか?」


 それでも、弱気に震えてしまったその声に、彼女は力強く「いいよ」と言った。ああ、紛れもなく、やっぱりこの人は先輩(あのひと)だーーー。

 知らず、頬には人間らしく、涙が伝っていた。








 俺の告白を、彼女は静かに聞いてくれた。

 勿論、「人を殺した事がある」なんてことは言えなかった。

「罪を犯した」と言葉を濁したけれど、彼女はそれについて言及したりしない。そんなところが、やっぱり好きだと思った。


「………信じてくれますか」


 話し終わると、再び訊いた。

 すっかり冷めてしまったナントカと言う紅茶を一口飲んだ。しかし、ゴクリ、と喉を鳴らしたのは俺ではなく、先輩の方だった。


「……信じ、難い……」


 表情を固くした先輩は、ぎこちなく口を開く。勿論、俺も信じて貰えるなんて毛頭思ってもいなかったし、それでいいとさえすら思っていた。けれど、先輩は「けど」と言葉を紡いだ。


「……信じようとは、出来る。だから、信じるよ」

「………ふ、」

「なんで笑うの?」


 俺の溢した吐息に、彼女は、普段見せるようなあどけない表情(かお)をして、首を傾げた。


「貴女が、あまりにも、貴女のままだったから…」

「何それ?言葉遊び?」


 彼女は少し不服そうな顔で頬を膨らませた。ああ、可愛い。幸せだ。尊い時間だ。



ーーー俺は、幸せになってもいいのだろうか。



 彼女の右手が俺の頬に触れた。突然のことに驚いていると、彼女がその理由を教えてくれる。


「なんで泣くの?」

「…………」


 俺の瞳から零れ落ちては頬を伝う涙を。彼女は右手で俺の左頬を包み込み、親指で拭った。


「………抱き締めても、いいですか?」


 彼女は一瞬目を丸め、少しだけ視線を泳がせてから、小さな声で「…いいよ」と言った。俯かせた顔が赤い。耳まで。可愛い。好きだ。

 俺がゆっくりと彼女を包み込むと、彼女はぎこちなく俺の背中に腕を回した。


「好きだ!」


 そう叫んだのは、テレビ。どうやら、映画もクライマックスのようだ。

 時が止まればいいのに、と。そう思った。でも、カチコチと秒針の音が確かに進んでいく時を刻んだ。


「………ずっと好きでした……。今度は、俺のことを好きになって下さい……」


 テレビから流れる感動的なBGMが、不覚にも俺の気持ちも盛り上げた。

 しかし彼女は、やっぱり何処か不服そうな声音で「『今度は』って何?」と言う。


「私は、君の話を信じるとは言ったけど。私自身は君とは初めましてのままだから。『今度は』なんて言われる覚えはないよ」


 彼女はさっきから、そこが気に食わなかったらしい。素直に謝罪しようと口を開くと、




「それにもう、君のこと、好きだよ………」




 そんな、爆弾を落とす。

 開けたままの口が何も紡げずにパクパクと開閉を繰り返していると、ぎゅっと抱き締める腕の力が強くなった。触れ合った体は、すっかり同じ体温になっている。

「だから、」とまた、彼女の方が先に言葉を紡いだ。


「君がどんなに、かつての君を許せなくても、絶望していても。私は、君を許すし、かつての君と今の君を別に捉えて考える。君は、『篝静夜(かがりせいや)』で、私の彼氏だよ」


 そうでしょ?と、俺の胸にすっぽりと埋めていた顔を上げて、彼女は笑った。その、太陽のような眩しさに、俺はやっぱり目を細めてしまう。


「………キスしても?」

「………いいよ」


 貴女はいつものようにそう言って、俺の全てを受け入れた。





 俺のこと、覚えていなくったって、いいんだ。

 だってまた、時が流れ、こうして巡り逢えたのだから。








―完―

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貴女が覚えてなくても 将平(或いは、夢羽) @mai_megumi

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