消える薬 ~世紀の大発明が生まれた夜~

長尾隆生

消える薬

 ある街外れの丘の上。

 そこにぽつんと一件だけ怪しげな家が建っていた。

 表札には、簡易な手書き文字で『研究所』とだけ書かれている平屋の家は、もともとは一組の老夫婦が住んでいたという。

 老夫婦が亡くなったあと、この家を買い取り、自らの研究所としたのは世界的に有名な科学者であった。


 そのことはごく一部の者以外には秘密にされ、彼はたった一人の弟子だけをお供にその家である研究を始めた。

 秘密裏に行われていたはずの研究であったが、ある時その研究内容の一部がどういうわけか漏洩し噂になる。


 しかし噂の内容があまりに眉唾ものだったため信じる者はほとんどおらず、やがて噂は噂として消えていった。

 噂の内容は「科学者は透明人間になることが出来る『消える薬』というものを作っている」というものだった。


 思春期の子供が考えるような薬を著名な科学者が作っているはずはない。

 噂は噂のままいつしか誰もが口にしなくなっていった。


 だがある日、一人の盗人がその噂を聞きつけた。

 しかもその噂には『消える薬がもうすぐ完成するらしい』という尾ひれまでついていた。


 それでもいつもの盗人ならそんな噂に飛びついたりはしない。

 しかし盗人は少し前に大きな盗みに失敗して、仲間もわずかばかりの財産も失ったところであった。


 なので透明になれる『消える薬』が本当に実在しているというのぞみに書けることにした。

 もし実際に透明人間になれるのであればちゃちな盗みどころか、もっと大きなことが出来ると盗人は妄想をふくらませる。

 様々な妄想を頭の中に浮かべながら盗人は噂の真偽を確かめるために研究所に向かうことにした。


 研究所のある場所は見晴らしがよい丘の上なので、陽の高いうちに近づけば直ぐに見つかってしまう可能性がある。

 なので盗人は月の光もない新月の夜に計画を実行に移した。

 それほど大きくない街の外れの道は明かりも届かず該当もない。

 そんな真っ暗な闇の中にぽつんと浮かぶ研究所の窓からこぼれる光だけが目印だ。


 街のざわめきも届かない丘。

 聞こえるのは犬の遠吠えとくさきが風に揺れる音だけ。

 そんな中、盗人は暗闇の中たどり着いた研究所の周りを足音を忍ばせて壁沿いに歩いていく。


 正面玄関を通り過ぎ建物の裏に回る。

 そこには大きめの窓が四つほどならんでいて、そのうちの一つから光が漏れていた。

 そして窓の中に二人の人影を盗賊は見つけた。


 きっと科学者とその弟子に違いない。

 盗人は窓の外から中の様子をうかがい、見つからないように聞き耳を立てる。


「それでは最終実験の準備をしてくれたまえ」


 初老の男が言う。


 多分かれが例の科学者なのだろう。

 そしてその横でゲージに入った実験用のマウスを取り出しているのが彼の助手に違いない。


「博士、準備ができました」


 助手は実験用のマウスを固定用の台に拘束具で縛り付けると博士に報告する。


「それでは今から最終実験を始めるとする。この実験が成功し、薬が完成すれば世界は大きく変わるだろう」


 盗人は窓の外から息を呑んでその実験を見守る。


 実験の成功を確認次第に乗り込んで、あの薬と研究資料を盗むつもりなのだ。


 もうすぐ完成すると噂で聞いてはいたが、まさか今日この時にちょうど完成する所に出くわすとは。

 俺はなんという幸運の持ち主なんだろうと盗人はほくそ笑んだ。


 そうこうしていると科学者が何やら不思議な色合いをした液体の入った2つのビーカーを持ち出してきた。


「……の実験は既に成功した。次は……機物に効果が……」


 ボソボソと独り言のように呟く声は先ほどまでとは違い小さくてよく聞こえない。


「薬の効果は10分程度で切れるがそれくらいがちょうどいいだろう」


 科学者は手に持ったビーカーからスポイトを使って二種類の液体をそれぞれ吸い出すと、二つの液体を同時に実験用マウスに振りかけた。

 科学者と助手、そして盗人が固唾を呑んで見守る中、実験用マウスはゆっくりとその姿を消してく。


 数分後、完全にマウスの姿が消えたのを確認した科学者が助手に握手を求めた。


「成功です、博士」


 マウスを固定していた台も含めて、液体がかかった部分はすべて完全に透明になってる。

 間違いなく『消える薬』は完成したと博士も助手も、そして盗人も確信した瞬間だった。


「ふむ『消える薬』は正しく機能したようだ。消えるのを防ぐ特殊加工をした敷物以外は全て消えた。完璧だ」


 科学者は実験結果にホッとしたような声を出す。

 対して助手は感極まったような、嬉しさがあふれる声音で喜びを爆発させていた。


「やりましたね博士! 遂に『消える薬』が完成しましたね。この発明は世界を変えます!」

「ありがとう、これで私達の努力は報われるだろう。我々がこの瞬間に世界を変えたのだ」


 固い握手をして喜びあっている二人の様子をしばらく見たあと盗人は遂に行動を起こした。

 この日のために用意した拳銃を握り、空きを突いてガラスを叩き割って窓から侵入する。


「お喜びの所失礼」


 科学者と助手は突然の闖入差に一瞬戸惑ったものの、盗人が持つ拳銃が目に入り全てを理解したように動きを止める。

 そして盗人に向けて確認するように科学者が口を開いた。


「お前の目的はこの『消える薬』か?」

「その通り。その薬と研究資料全て頂いていく。さぁこのケースに全て詰め込むんだ」


 盗人はそう言って大きなケースを助手に投げつけた。


 助手は一瞬怒りの表情で盗人を睨みつけたが、科学者の指示で研究資料を悔しげな表情で全てケースに詰め込んだ。

 科学者は言う。


「この研究所は街から離れている。その用心として何かあったときは警察へすぐ通報できるように家中に通報ボタンがあってな。 すでに通報済みなのだ」


 その言葉通り、遠くからサイレンの音が聞こえて来る。

 助手が資料集めのどさくさに紛れて警察への通報装置を操作していたのだ。


「ちっ」


 盗人は慌ててケースを助手から奪い取るように自分の方へ引き寄せた。


「観念して研究資料と『消える薬』を返したまえ。それは君には使いこなせないものだ」

「そういうわけにはいかねぇな。やっと大金を手に入れられるチャンスが巡ってきたんだ。こんな所で捕まる訳にはいかない」


 盗人はそう言うと机の上に置いてあるビーカーに目を向ける。

 それは鞄の中に入っているものと同じ、先ほど実験に使われた『消える薬』だ。


「研究資料さえあれば薬は後でいくらでも作れる」


 そう言うと盗人は迷いなくその2つのビーカーを手に取り、その中身を自分の頭の上から降りかけ、続けて資料を詰め込んだケースにも振りかける。


「姿を消せば警察の包囲網なんて簡単に抜けられるさ!」


 盗人はそう高笑いした後、拳銃を科学者と助手に向けた。


「この『消える薬』は俺一人のものだ。だからお前らには死んでもらわないとな」

「馬鹿なことを……」


 博士は盗人を哀れみを込めた目で見ながらそう呟く。


「馬鹿はお前らだ。最後の最後に情報を流出させたお前らが悪いんだぜ」


 そう言って邪悪な笑みを浮かべた盗人は、拳銃の引き金を引いた。



* * * *



 盗人が引き金を引こうと指に力を入れて五分ほどした頃、研究所の扉がノックされた。


「警察です。通報を受けまして」


 その声に助手はゆっくりと玄関へ向かい扉を開けた。

 扉の外には二人の警察官が立っていた。


「通報ですか?」


 助手は不思議そうに警察官に尋ねる。


「ええ、何か問題でもありましたか?」


 その質問に家の奥から科学者がやって来て応える。


「ご苦労様です。今少し調べたのですが、どうやら実験の最中に逃げ出したマウスが誤って通報装置を押してしまったようでしてね」


 科学者は心底すまなそうに「ご迷惑をおかけしました。せっかくなので珈琲でも一杯お詫びにいかがでしょう?」と警察官達を誘った。


「いえ、問題がないのならよかった。私達はまだ仕事中ですのでこれにて引き上げさせていただきます。珈琲はまた非番のときにでも」


 二人の警官の内、年上の方の警官がそう答えパトカーに乗り込む。

 家の裏のガラスが割れていることは、彼らが北方向からではわからない。


「それでは失礼します」

「申し訳ございませんでした」


 最後に警察官がパトカーの窓から顔を出して手を振ると、助手が頭を下げて再度謝る。

 そして警察官は窓を閉めると何やらパトカーの中で書類にいくつか文字を書くとそのままパトカーを発車させた。


 パトカーの光を見送った後、助手は疲れた表情で科学者と今日の話をする。


「いやぁ危なかったですね。『消える薬』の効果が出るのがあと数秒遅ければ我々は今頃あの世行きでした」


 ぶるるっと助手はその様子を思い出して身震いさせた。


「そうだな。一種の賭けだったが、賭けに勝ったのは我々だ」


 科学者は助手と違い冷静な口調で入れたばかりの珈琲を一口飲む。


「あの盗人に『消える薬』の効果を勘違いさせる博士の演技もすばらしかったですよ」

「とっさに思いついたにしては上手く行ったものだよ。市民団体の様な輩の目をそらすために我々の研究が『透明人間になる薬』だという嘘の噂を流して置いたのもよかった」

「最終実験のために盗人をおびき寄せる最後の噂も上手くいきましたしね」


 科学者と助手の顔にあの盗人のようないやらしい笑みが一瞬浮かび消えた。


「あの盗人は最後の最後まであの薬が『透明になる薬』だと勘違いしてたがね」

「そうですね。我々が作っていたのは『透明になる薬』じゃなくて『物質が消える薬』なんですから。マウスだけじゃ心配でしたが、きちんと人も消滅させられることがわかったのは収穫ですよ」


 少し前まで盗人が立っていた場所。

 研究室の床に空いた一つの穴を見ながら助手はニヤリと笑う。


「人体実験なんて普通は出来ませんからね」


 教授はそんな助手に向かって、自分の部屋から持って来たのであろう高級な酒の瓶を掲げ、心底楽しそうな表情を浮かべ言った。


「さて君も一杯どうだい? 一休みしたら盗人と一緒に消えてしまった研究資料を復活させる作業があるからね。既に私と君の頭のなかに全て詰まっているのだからそれをもう一度整理して書き出すチャンスでもある。そんな機会をくれた盗人には感謝せねばね」


 その夜、世界を今後揺るがす大発明が小さな研究所で生まれた。


 それと同時に一人の盗人がこの世から跡形もなく消え去ったことは二人の研究者以外は誰も知らない。

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