第35話 磯波芳仁という男




 磯波が保健所から解放された旨の連絡が入ったのは、終業時間をとうに過ぎた午後六時である。

 若者二人は今頃自宅だ。

 心の疲弊が激しい葛野はもとより、明日から担当を持って動く予定の伊織も休ませておきたくて定時に帰した。

 小宮山は少し前から課の増員を図るべく人事課に赴いている。

 結果的にその電話を取ったのは龍生で、今の時点での情報をすり合わせるため課長宅へ赴く役目も必然的に龍生が担うこととなった。

 豪奢ではないが、白を基調にした清潔感のある一戸建てに迎え入れられた龍生は、猫が引っ掻いたというところどころ剥げたソファに案内された。


「こんなことになって、面目ないです」


 龍生の向いに座った磯波がいつもの困り顔で頭を掻く。一見して発芽の跡は見られず、まるで悪い冗談のようだと龍生は思った。

 龍生の視線に気づいたのか、磯波が頬を撫でる。


「保健所で確認してもらってから、発芽した芽は抜いたんです。目立つ場所だったし、抜ける範囲で抜いた方が根付くのも遅れるので」


 眉を八の字に下げたまま磯波がゆるく笑った。

 そこへ、伴侶であるかさねが盆に乗せたティーセットを持ってきた。

 美しい所作で上品なカップを置くものの、細かく震えた指先が紅い水面が僅かに揺らす。

 波打つ紅い水面を見下ろして磯波が妻に声をかける。


「ありがとう。君は向こうで休んでいていいよ」


 何か言いた気に磯波を見たものの、かさねは大人しくその場を離れた。

 思ったよりもずっと落ち着いた磯波とともにお互いの現状を報告し合う。

 磯波は寄生の【初期】段階で、最初の発芽以降はまだこれといった芽吹きはないという、極めて平均的な経過を辿っていた。


「そうですか、葛野君が……」


 特事課に起きた変化を告げると、磯波が心を痛めた様子で紅茶に目を落とした。少し長い間を開けて、磯波がぽつりと言う。


「私としては嘘花に理解のある課であることもあって、足留めまでは働きたいと思っていたのですが……」


 再び間を開けて、磯波が何事か心の内で葛藤する。やがて上がった顔には、いつもとは違う決断の色が見て取れた。


「明日にでも辞表を出しましょう。一ヶ月ほどは課の在籍となりますが、有給消化という形で課には行きません。何かある時は君か小宮山君を通して連絡をください」


「課長、しかしそれでは」


 磯波のクオリティオブライフはどうなる。

 言いかけた言葉を、龍生はすんでの所で飲み込んだ。

 先が短いからこそ、磯波本人の希望を実現してやりたい。だが一方で、同時に葛野の心を守るのは無理だと警鐘を鳴らす理性もあった。


「いいんですよ」


 穏やかに言った磯波の手の甲からむくりと細い芽が頭をもたげる。ああ、嫌だなと苦笑して磯波がそれを反対の手で隠すようにした。


「……未練はあります。だけど周りの心象を考えていませんでした。葛野君だけを理由にするのではありませんよ。考えてみれば他の課の人にだって、通勤中の人にだって、影響を及ぼすことです」


 ふと、どこからか小さくすすり泣く声が聞こえる。

 キッチンの奥に引っ込んでいたかさねが、残酷すぎる現実に打ちのめされているようだ。


「かさねさん」


 身をよじって磯波が妻を呼ぶ。にゃん、と答えてやって来たのは奥方の腕から逃げてきたらしい猫だった。

 磯波の膝に飛び乗る白い猫を追うように、かさねがおずおず姿を見せる。


「すみません……すみません……私」


 頼りない磯波よりも更に頼りなく見えるかさねが、顔中涙だらけにしてどちらにともなく謝った。


「大丈夫ですよ、奥さん。家族が嘘花になったと知れば誰だって動揺します。仕事上、慣れていますのでお気になさらず」


 龍生のフォローにますます涙を流して、すみません、とかさねが繰り返す。


「嘘花のことは主人から聞いていくらか知っていたのですが……まさか主人が寄生される日が来るなんて思いもしなくて……。どうして主人が……どうして他の人じゃないの」


 はらはらと涙を流すかさねを見て磯波がソファから立ち上がる。

 優しく肩を抱く磯波は、課長としては不出来だったかもしれないが、夫としては優秀だった。


「泣かないで。嘘花に寄生されたのは不運だったけど、幸い来週の結婚式には出られる。美来の花嫁姿を一緒に見られるよ」


 写真を撮ろうね、と慰める磯波の胸にかさねが縋りつく。

 仲睦まじい夫婦に訪れた容赦のない不幸を目の当たりにして、龍生は心臓を握り潰されるような痛みを覚えた。

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