☆26
アスファルト。頬に触れている。硬くて、乾いていて、冷たい。
アリスは顔を横向け、うつ伏せで倒れていた。上半身を起こすと、非常階段が目に入った。最上階を仰ぎ見る。身がすくむような高さだ。
階段の右手で、立ち並ぶ竹が一斉にそよいでいる。揺れる竹をぼんやり眺め、アリスはぶるっと肩を震わせた。
夜空。スーパームーンが南西の方角で輝いている。
「別世界に行く方法」を実行したとき、南に見えたスーパームーン。現在の月の位置から、二時間くらい経過していると推察できた。
非常階段の頂から身を投げ、地面に激突し、意識を失った。およそ二時間後、意識が戻った。その二時間のあいだに、別世界へ行く夢を見た――。
夢。別世界で過ごした数日の出来事はすべて夢。フシギノクニも、トランプ大女王も、ウサギも、チチカカも、ハートのJも、サンソンも、みんな夢……。
アリスはふらつくこともなく、しっかりと起き上がった。全身、痛みは一切ない。出血もない。手足は普通に動かせる。呼吸、脈、ともに正常だ。
「あー、あー」声も問題なく出せる。
アリスは首をひねって、トラックヤードを突っ切る。
振り向くと、倉庫ビルの外壁にペイントされた、大きな虹。別世界へと運んでくれるはずだった。改めて見ると、チープで頼りない。
歩きながら思う。もしかすると「別世界に行く方法」を実行するところから、夢だったのかもしれない、と。
「別世界に行く方法」を実行するために倉庫ビルへやって来た。そして非常階段の下までたどり着いたところで――原因は分からないが――気を失って、アスファルトの上に倒れた。しかし「別世界に行く方法」は夢の中で続いていて、入口のチェーンをくぐり抜け、非常階段を登り始めた……。
出入口をふさぐ門。アリスの肩くらいの高さ。
ジャンパースカートをひらめかせ、アリスは門を軽々と飛び越えた。ハリウッド映画のアクション俳優さながらに。
「え?」
敷地の外に降り立ち、思わず振り返る。自らの手と脚を確認して、顔を上げる。
「チチカカさん……」
チチカカの指導を受け、トレーニングを積んだ記憶が、現実世界にいる今、まざまざと思い出された。
――威力抜群の蹴り技「ソバット」を教えてやるよ。まず左足を相手の左外側に置く。そこから左足を支点に、身体を右へ回転させる。同時に右足を裏側から振り回す。で、相手の腹を目がけて、右の踵を打ち込むんだ。
アリスは誰もいない倉庫ビルの前で、ソバットを繰り出した。見えない敵を次々薙ぎ倒していく。月下、バレリーナのようにくるくると廻って。
息を弾ませ、スーパームーンを見返す。その光はやはり強く、神々しかった。
アリスは月に向かって吠えた。地面を蹴り、停めておいた自転車に飛び乗ると、ペダルを思いきり踏み込んだ。
「アリス!」
玄関に立つ愛娘の姿を見つけ、セイヨクは顔をくしゃくしゃにした。
「ちょうど警察に行くところだったよ。何度も家と外を行ったり来たりしてたんだぞ。今までどこにいたんだ?」
言いながらセイヨクが近づいて来る。その足が、ふいに止まった。
「アリス……?」
眼光。言葉を用いず、アリスは目配せだけで制した。
セイヨクはもどかしそうに、足踏みをする。泣き出しそうな顔をアリスに向け、何か言おうとして、飲み込んだ。
アリスは靴を脱がず、玄関に立ったまま、父に対峙する。落ち着き払った態度で、微動だにしない。
そのときセイヨクはあることに気づき、眉をひそめた。
「アリス……どうしたんだ、その髪は?」震える手で指差し、「ツインテールの片方が無いじゃないか」
返事なし。なにを今さら。
「一体何があったんだ? まさか……」顎がわななく。「まさか、襲われたんじゃないだろうな?」
セイヨクは激しくかぶりを振った。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ!」
壁を拳で叩き、額を打ちつけた。
「ハハハ! ハハハ!」
今度はにわかに笑い出す。
アリスは顔色一つ変えず、度を失った父を見つめ続けている。
「アリスは俺のものだ……アリスは俺のものだ……アリスは俺の……」
セイヨクは繰り言をつぶやきながら、興奮を鎮めていく。それからアリスに向き直り、気持ち悪いほどの柔和な笑顔を表した。
「さあアリス、家に入ってきなさい。いつまでそこに突っ立っているつもりだい?」
アリスは動く気配もない。
「安心しなさい。もう大丈夫だから。ベッドでゆっくり休むといい」
唇を引き結んで。
「もしかして怪我を? 痛むところは? 血は出てない?」
だんまり。
「わかったよ、アリス」ニコニコしながら歩み寄り、「服を脱いで、見せてみなさい。パパが薬を塗ってあげるから」
アリスは土足で家に踏み込んだ。左足を斜め前に出し、セイヨクの左手側に置く。身体を素早くひねり、回転させ、右足を裏から振り回す。
パンプスの踵がセイヨクのみぞおちに食い込んだ。セイヨクは腹を押さえ、両膝をつく。顔面から前に倒れ伏し、メガネがひしゃげた。
苦しげに閉じたまぶたから、涙が漏れ出す。
アリスは無表情のまま、くるりと背を向けた。自分の部屋に戻ろうともせずに。
ドアノブをつかむ。
「待ってくれ、アリス」倒れたまま、セイヨクは片手を伸ばす。「行かないでくれ。パパを一人にしないでくれ」
アリスは振り返りもしない。
「アリス……」ついにぼろぼろと涙をこぼし、「いつかこんな日が来るんじゃないかって、パパはずっと怖かったんだ……アリスがいなくなってしまうのが、何よりも怖かったんだよ……」
涙と鼻水が入り交じり、床に溜まっていく。
「アリスがいなくなったら、パパは悲しくて死んでしまうよ……いいのかい、アリス……パパが死んでしまっても、いいのかい」
アリスはドアを開き、外に出る。背後で仰々しい泣き声が響いた。ドアを閉め、耳障りな騒音を消す。
家の前の道路。周辺は寝入っているようだ。ほぼ無音の静謐な夜更け。
スーパームーン。明るさを保ったまま、地上を見渡している。
月に向かい両手を伸ばし、アリスは胸のうちで訴える。
――もっと強くなりたい。力を。わたしに力を与えてください。御月さま。
アリスの願いは38万キロメートルの距離を瞬く間に飛び抜けた。
スーパームーンが輝きを増していく。爆発的に明るくなる。太陽さながらに。もはや直視できないほどの強い光。
月から放たれた光は異常で、恐ろしいくらいに非現実的だった。
アリス、アリス、アリスノフシギ エキセントリクウ @RikuPPP
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