☆10

 別世界の樹は見た目が現実世界のものと、さほど変わらない。ただし一つだけ大きく異なる点があった。こちらの樹は、実によくしゃべるのだ。

 多様な言葉が四方八方から飛んでくる。どれも無意味なつぶやきばかりと、気にもとめなかったが、

「そっちじゃないよ。右だよ」

 アリスをナビゲートする声が耳に飛び込んできた。言われるまま右折する。

「そこを左に」

 したがう。

「斜め右方向です」

「斜め?」

 適当に斜めの方向へ進んだところで、

「右へ」「左へ」「前に」「バック」「上」「下」と同時に言われた。

 アリスはそれ以上、指示を聞くのをやめた。

 森には人はおろか、動物も、鳥も、虫もいなかった。

 手始めに、この世界の住人を探さないといけない。別世界について、まるっきり不案内なのだ。誰かに一から教えてもらわないと、この先どうすればいいのか見当もつかない。

 アリスは急に不安になった。

 現実世界には、帰る家があった。自分専用の部屋もあった。安心してベッドで眠ることができた。のんびりとお風呂に入れた。

 食事を作ってもらえた。かわいい洋服を買ってもらえた。靴も、本も、頼めば何でも買ってもらえた。

 それら一切を、捨ててきたのだ。

 何もかも無くして、その後どうするかなんて考えもしなかった。ただただ別世界に行きたい一心で、やって来てしまった。

 帰れる保証もないというのに。

「がんばれ」アリスは自分自身を励ました。

 まず住む場所を決めること。次に収入を得ること。住み込みで働けるところがあれば、一番いい。

「親切な人に出会えるといいんだけど……」

 誰かに会いたい。誰かと話したい。久しぶりに、そんなことを思った。

 森に相変わらず人影は見つからないが、よくしゃべる手合いはたくさんいる。

 目についたブナ似の樹に、アリスは話しかけた。

「ちょっとお聞きしたいのですが」

「ちょっとお聞きしたいのですが」

 ブナ似の樹はアリスにそっくりな声音で繰り返した。

「この世界の住人とお会いしたいんです」

「この世界の住人とお会いしたいんです」

「どこか町はありますか?」

「どこか町はありますか?」

「真似しないでください」

「真似しないでください」

「…………」

「…………」

「バスガス爆発バスガス爆発」

「バフバクガツ……」

「……馬鹿みたい」

「……馬鹿みたい」

 アリスは肩をすくめて、先へ進む。

 深い森。歩いても歩いてもきりがない。誰かに出遭うでもなく。鬱陶しい雑音を四方から浴びっぱなしで。

 無理。リモコンの▲を押し、上半身だけ森から抜け出した。

「ああ、静かになった」

 眺望が開け、森の終端が見えた。その向こうに見えるのは海のようだ。

 嬉しくなって、樹々を上回る背丈のまま、駆け出す。大股なので、思いのほか一気に進んだ。

 ほどなく、森を抜けた。

 砂浜。スポンジを踏んでいるようだ。つんのめって転びそうになる。

 海の向こうに陸影を見つけた。アリスは海を渡ろうと思いつく。あちらに別世界の住人がいると、直感したのだ。

 ▲で上限まで背を伸ばす。浅瀬に足を浸し、歩を進める。次第に海は深さを増し、巨大化したアリスの身体が沈み込んでいく。

「あっ」

 踏み外した。一気に深くなったのだ。

 頭の先まで海に沈んだ。溺れる気配はない。地上と変わらず呼吸できた。

 身体は濡れていない。腕や脚は水の抵抗を確かに受けているというのに。

 別世界の海水は「水の性質」と「空気の性質」を兼ね備えているようだった。

 青い大気。視界はサファイアブルーに覆われている。

 魚は一切泳いでいない。森と同じく、生物は存在しないらしい。

 足下は草原。黄色の花が点在している。緑の斜面。低木から垂れた細長い枝が、海水の流れにたゆたう。

 地面を覆うピンク色。海の底に花園が広がる。

 もっと近くで見ようと、アリスは背丈を戻した。

 ポピーに似た花。海水が花びらを一斉に揺らす。そのたび、風鈴のような音が鳴る。きらきらした音楽が海中に漂う。

 アリスは飛び上がり、蝶になった気分で、花の上を泳ぎ回る。

 たっぷり楽しんだところで、また巨大化し、先を急ぐ。

 陸地が近づき、進むにつれて徐々に上昇していく。

 海面から顔が出た。遠くにぼんやり見えていた陸地は、もはや眼前にあった。

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