九手目「布石の算数」

 香織が扉を開いて、亘と共に囲碁サロン「ニギリ」の中に入って来る。

 サロンの中では、スーツ姿の仁村が、自分を中心に長机を四角く並べて、小学生くらいの児童を五、六人をソファに座らせて囲わせ、一度に相手にしていた。児童達の後ろに、その子の母親と思われる中年の女性が立って見守っている。

 仁村が扉の方を向く。

 亘は仁村の顔を見ると、深々と頭を下げた。

 仁村はすぐに振り返って、子供達に集中した。

(謝るのは後にしよう)

「ワタル君、行こう?」

「えっ、お会計は」

「後でいいから」


 亘と香織は、仁村達から離れた席まで歩くと、碁笥が乗った碁盤を挟んで、向かい合わせに座る。

 亘の座る方向から、仁村や子供達の姿が見えた。

「じゃあ、まずは挨拶」

「挨拶?」

「礼に始まって、礼に終わるのが囲碁でしょ」

「そうだけど、何か不思議。今日、一日中一緒に居たのに」

「挨拶しないと、打ってあげないよ」

「分かった」

 ソファの上で背筋を正す亘と香織。

 真っ直ぐ相手の顔を見ると、それだけで笑顔が零れる二人。

「お願いします」

「お願いします」

 香織の顔が少しだけ真面目な顔付きに変わる。

(香織ちゃんカッコいいなぁ)

「囲碁は陣取りゲームだから、出来るだけ早く、いい場所を自分のものにすることが重要です」

「Youtuberみたい」

 呆れながらも堪え切れず小さく笑う香織。

「面白いね、ワタル君」

「伝統ある会社って言ったって、所詮は先に始めただけだって父さん言ってたんだ」

「なるほどね。囲碁にも似たようなところがあって、を大きく取るために布石が非常に重要になってくるの」

「ジって何だっけ?」

「陣地のこと」

「ああ、点数ね」

「それで地を大きく取るには、隅が一番取り易いのね」

「どうして?」

「これはもう実際に打ってもらうしかないな。碁石を出してくれる?」

「分かった」

 亘と香織は自分の前にある碁笥を取って手前に寄せると、互いに蓋を開けて自分の側から見て碁盤の右側に碁笥の蓋をそれぞれ置いた。


<対局中のマナー>

「じゃあ、まずは……」

 手持無沙汰の亘は何気なく碁笥の中に右手を突っ込み、指先を動かして黒い碁石の触感を楽しんでいると、無数の碁石達が互いに擦れてジャラジャラと音を鳴らす。

 すると、香織はムキになって母親のように怒鳴る。

「ジャラジャラしない!」

「じゃらじゃら?」

「ぬぅっ!」

 香織は両手で亘の右手を強引に取って、碁笥の中から亘の手を離す。

 亘の右手指が碁石を何子か掴んでいる。

「碁笥の中の石を掻き混ぜて、音を鳴らすのはマナー違反だよ」

「そうなの?」

「子供達を見て!」

 香織は自分の後ろで、仁村から指導を受けている小学生達を指差す。

 子供達は盤面に集中し、石を打つ時だけ碁笥に手を伸ばして石を打っている。

「皆、打つ場所が決まってから、初めて碁石に手を伸ばして打ってるでしょ」

「ああ……」

 仁村は香織に怒られている亘に気付いて、真面目な顔付きを崩さないように努めているが、さすがに口角が僅かに吊り上がっていた。

 子供の保護者の何人かの女性が、香織に怒られている亘の姿を微笑ましく見つめている。

 亘の顔が見える方向に座っている子供は、怒られている亘を見て、呆れた表情。

「だから碁笥に手を入れてジャラジャラしないの」

「はい……」

「あと、たくさん石を手に持つのもやめて」

「ごめんなさい……」

 亘は右手に持っていた黒石を碁笥の中に戻した。

「石を持ったまま考えたり、盤上で手を移動させながら打つ場所を考えたりするのもマナー違反だからね」

「なるほど……」

「打つ場所が決まってから石を持って、すぐに打つの。石を持たないで考えらえるようになると、上達にも繋がるから」

「分かりました」

 腕組みする香織。

「じゃあ早速だけどワタル君、右上隅を使って25目の地を作って」

「どうして25目?」

「5×5で分かり易いから」

「はい……」

(俺、香織ちゃんと結婚したら尻に敷かれるんだろうな……)


※19路盤の座標は、亘(黒番)から見て、左から右へアラビア数字で1~19、上から下は漢数字で一~十九と示す。

※交点座標は黒番から見て、(横の縦{アラビア数字の漢数字})と記す。


布石のセオリー❶:隅を1とした時、辺は1.5倍、中央は2倍の石が必要

 亘は香織に言われた通り、19路盤の右上隅に狙いを定める。

 右から左に19、18、17、16、15、上から下に一、二、三、四、五。

 これを地にするため、亘はその左隣(14の一)から一子ずつ黒石を打っていく。(14の一)(14の二)(14の三)(14の四)(14の五)(14の六)まで打つと、(15の六)(16の六)(17の六)(18の六)(19の六)と黒石を右折させて、右上隅の25目の陣地を囲ってみせた。

「出来たよ」

 亘は知らせるが、香織は腕組みしたまま白い眼差しを亘に浴びせる。

「うん、幼稚園児の時の私も同じ間違いを犯した」

「えっ?」

 香織は右手を伸ばして、(14の六)の黒石を取り上げて、亘側の碁笥に戻す。

「斜めは関係ないって言ったよね」

「あっ、そうか」

「これでも陣地はちゃんと取れているから。実戦だと繋げることが大事な場合もあるけど、少ない碁石で同じ効果を出すことに集中して」

「分かった」

「それで石は何子ある?」

「えっと、10子あるね」

「じゃあ、次はその左隣で隅っこを使わないで、碁盤の中央だけで25目囲って」

「この10子も使っていい?」

「ダメ。新しい石を使って」

「了解」

「この辺りに打って」

 香織は右手の人差し指を伸ばして、4つの黒い点、(4の四)の左上隅星、(4の十)の左辺星、(10の十)の天元、(10の四)の上辺星を指し示す。

「分かった」

 亘は碁盤を見つめる。

 すると、亘は気が付く。

(香織ちゃんが指差した四つの星を一直線に結ぶと、丁度線の内側に25目作れる。だけど斜めは関係無いから、星の部分には石を置かなければ良いんだ)

 亘は黒石を打つ。

 まず、左上隅星の下から(4の五)(4の六)(4の七)(4の八)(4の九)と縦に並べていき、左辺星を飛ばして、(5の十)(6の十)(7の十)(8の十)(9の十)と右に伸びて、天元を無視した後、(10の九)(10の八)(10の七)(10の六)(10の五)と上がっていった。上辺星に辿り着くと左折して、(9の四)(8の四)(7の四)(6の四)(5の四)と打って、これにて25目の地を作り上げた。

「出来たよ」

「うん、今度は大丈夫」

「良かった」

「何子ある?」

「えっと、5×4で20子」

「隅を使うと10子で済むけど、中だけで同じ地を作ろうとすると2倍の石が必要になるの」

「本当だね」

「だから隅は中央に比べて2倍の費用対効果があってコスパが良い」

「石をコストって考えるのか」

「一度に好き放題打てるわけじゃないからね」

「それで隅から打った方が良いってわけね」

「一応、隅や角を使わずに、辺だけを使った場合も打ってみようか?」

「分かった」

「じゃあ、この辺りに打って」

 香織は少し身を乗り出して右手を伸ばし、下辺の真ん中ら辺を指し示す。

 亘は7線を上がるようにして(7の十九)(7の十八)(7の十七)(7の十六)(7の十五)と黒石を打ち、右斜め上の(8の十四)(9の十四)(10の十四)(11の十四)(12の十四)と右へ打ち進める。右斜め下へ進んで(13の十五)(13の十六)(13の十七)(13の十八)(13の十九)と打ち、25目の地を作り上げた。

「15子使ったね。ってことは中央だけの場合より3/4の石の数で済んでいるけど隅と比べると1.5倍か。やっぱり、隅が一番良いんだね」

「逆の言い方も出来る。辺は中央の4/3倍、隅は中央の2倍も効率が良い」

「そうだね」

「隅は碁盤の端っこの縦と横の二つの碁線の力を使えるから、2倍の効率を発揮することが出来るの。だから囲う地の数を何目にしても、やっぱり必要な石の数の割合は『隅1:辺1.5:中央2』でほとんど変わらない」

「『1:1.5:2』か」

「『2:3:4』の方が分かり易いかな?」

「まぁ、でも小数を教わるのって小3の頃だから大丈夫だと思うけどね。俺なんかは公文式やってたから、少数の計算くらいは小2で覚えられたよ」

「私も幼稚園生に教えることがあるから、どうしようかなぁ? って思って」

 ふと、亘はの目に、仁村から指導を受ける子供達やその親御さん達の姿が見える。

「幼稚園生には難しいと思うなぁ」

「そうだよね」

「でも囲碁は小学生や中学生でプロになるのを目指す世界だから、早めに始める方が良いかもしれないね」

「参考にするね」とでも言うのに、黙って頷く香織。

(早期教育なんて何の役にも立たないって批判する人も居るって言いたかったけど、仁村先生や親御さんのことを考えると、止めておいた方が良いな。話題を変えるか)

「『1:1.5:2』の割合って絶対に変わらないの?」

「絶対ではないかな。大体って感じ」

「大体か」

「ちょっと違う角度からも教えるから、右上隅以外の黒石を片付けてくれる?」

「分かった」


布石のセオリー❷:隅4倍(4倍+1目の場合あり)/辺2倍/中央1倍の生産性

 亘は左上と中央下の碁石達を片付けて、全て碁笥の中に入れる。

 盤上は、右上をL字に囲って25目を囲う10子の黒石だけになった。

 すると、香織が指示する。

「次は10子使って、隅や辺を使わないで中央だけで四角を描いて地を作ってみて」

「中央だけで?」

 亘は碁盤を見つめるが、目標がすぐには定まらない。

「出来るだけ多くの地を作るように意識して」

「分かった」

 やがて、亘は上辺星の(10の四)に黒石を打つと、(9の四)(11の四)にも打って3子を横並びさせるが、

(4子で横辺を作っても、4×2で8子、そしたら残り2子で縦に1子しか置けないから縦1×横4=4目しか地を作れない)

 亘は上辺を3子だけに留め、(8の五)(8の六)と(12の五)(12の六)に打って2子で左右の縦列を作り、(9の七)(10の七)(11の七)に打って下辺3子の横列を作って四角く囲ってみせた。

「6目が限界かな」

「うん、正解」

「隅は10子で25目も取れたのに、中央だけだと6目しか取れないんだね」

「今度は碁盤の辺を使って地を作ってみて」

「分かった」

 亘は碁盤の下辺を見つめる。

(碁線の端が縦だろうが横だろうが関係無い。四角を作るけども、10子って制限があるから、これは図形の問題と云うより九九くくの応用だ。

 せっかく碁線を一本使えるんだから、横の長さを出来るだけ長くしたい。でも縦に二列作らないといけないから、必然的に横の長さは偶数個になる。横の長さが奇数の場合、石が余ったり足りなくなったりするから採用出来ない。

 横に8子、左右に1子だと、8子×1(左右で2子)=8目。

 横に6子、左右に2子だと、6子×2(左右で4子)=12目。

 横に4子、左右に3子だと、4子×3(左右で6子)=12目。

 横に2子、左右に4子だと、2子×4(左右で8子)=8目。

 よって、辺だけを使って作れる陣地は12目が限界だな)

 亘は(8の十七)(9の十七)(10の十七)(11の十七)(12の十七)(13の十七)と黒石を打って横列を作り、(7の十八)(7の十九)、(14の十八)(14の十九)と打って縦列を完成させる。

「6×2で12目。これ以上大きくするのは無理」

「うん、正解」

「良かった」

「実際には相手も邪魔してくるから、こんな単純には作れないけどね」

「それで、顔をちょっと引いて、盤面全体を見て」

 亘は香織の指示通り、顔を後ろに引き、盤面全体を見渡せるように視野を広げる。

「同じ10子の石でも、隅を使えば25目。辺だと12目で、中央だけだと6目しか地を作れないの」

「確かに」

「隅は1子につき2.5目の力が発揮出来ているけど、辺だと1子につき1.2目の力しか発揮出来ていなくて、中央だけだと1子につき0.6目の力しか出せていないことになるよね」

「隅や辺を使わないと、そんなに差が出ちゃうってわけか」

「中央だけで地を囲った時の石の力を1とすると、辺を使った場合は2倍になって、隅を使うと4倍以上の力が発揮出来るんだよね」

「逆に言えば、辺は隅の1/2、中央だけだと隅の1/4しか地を稼げないのか」


布石のセオリー❸:隅が中央の4倍+1目(辺の2倍+1目)になるケース

「まぁ、これはあくまで分かり易く、四角く囲った場合だから、実戦では単純計算は成り立たない盤面がほとんどだけどね」

「石の強さって、いつも隅だと1子につき2.5目、辺だと1子1.2目、中央だと1子0.6目って決まってるの?」

「そんなことないよ。一番隅で地を稼げるのって、縦1列と横一列に石を18子ずつ置いて陣地にした325目なんだけど、これを36子で取ったことになるでしょ」

「うん」

(計算速いな)

「325÷36=9と1/36目で、1子あたり約9目以上の力がある計算になる」

「石って数が多くなればなるほど力が増すわけか」

「現実的じゃないけど、例えば縦一列に全部石を置いて左右のどちらも地にしたら、19子で342目の地を確定させたことになるから、1子につき18目分の力を発揮出来ている計算になる」

「碁石1子だけでそんな力を発揮することも出来るんだね」

「そう。しかもこれってあくまで地を取った時だけの話で、碁石には相手の石を取ったりする力もあるから、石一個の働きって、打ち方によっていくらでも強くなるから無限の可能性があるし、悪手を打つと逆にマイナスにもなっちゃうし」

「へぇ、人間みたい」

 亘は改めて碁盤を見下ろして考える。

「なんで隅はキッチリ4倍じゃないんだろう? 中央だけで6目、辺で12目なら、隅は24目って単純に倍々になれば分かり易いのに、実際には25目で4倍より地が大きくなるよね」

「ワタル君、四角形の辺の長さを計ってみて」

「香織ちゃん、算数の先生みたい」

「いいから早く」

「えっと、中央だけの奴は3×2、辺の奴は6×2或いは3×4でも12目作れる。隅の場合は5×5だよね」

「ワタル君、辺で地を囲っている時、横の長さが奇数にならないの気付いた?」

「そうだよ。8×1、6×2、4×3、2×4でしか四角く囲えないんだ」

「でも隅だと、どちらの辺も5×5で奇数に出来るじゃん?」

「それが中央の4倍より1目だけ地が多くなるカラクリか」

「10子の石だけで考えるから分かりやすいけど、足し算で10になる組み合わせは10+0、9+1、8+2、7+3、6+4、5+5の6種類。それより下は左右を反転させただけだから同じじゃない?」

(4+6、3+7、2+8、1+9、0+10。確かに)

 亘は微笑んで、香織を見つめる。

(あっ、香織ちゃん。俺を使って、算数は分かる小学校低学年の子供に囲碁を教えるシミュレーションをしているんだな)

「それでその左右の数同士を今度は掛け算してみるの。10×0=0、9×1=9、8×2=16、7×3=21、6×4=24、5×5=25」

「10子で一番を地を大きく出来る組み合わせは5×5の25目になんだね」

(まぁ、ここで終わるだろう)

「確か片方でも一辺が偶数になる組み合わせだと、36子の18×18以外はどれも丁度隅4倍、辺2倍、中央1倍になるんだけど」

「うんうん」

「一辺が両方とも奇数になる2子の1×1、6子の3×3、10子の5×5、14子の7×7、18子の9×9、22子の11×11、26子の13×13、30子の15×15、34子の17×17の9種類と、36子の18×18の計10種類は」

(えっ、そんな大きい数字まで行く?)

「やっぱり、中央だけで地を作った一番大きい目数の、辺を使うと2倍、隅を使うと4倍+1の地が出来るんだよね。2子の1×1は辺や中央だけだとそもそも地が作れないから違うけど」

「それ以上は?」

「碁盤は19路盤までだから」

「そうか、それ以上は無いのか」

「無いよ」

「なんで36子の18×18はどちらも偶数なのに、4倍+1になるの?」

「実際に打ってみれば?」

「うん」

 亘は盤上の石を一旦全て片付けた後、縦1列と横一列の碁盤左端と上端に石を打っていく。少し時間は掛かったが、(1の一)以外の1線と一線を36子の黒石で埋め尽くした。

「出来たよ」

「まず大きく囲ったところが18×18で324目」

「そうだね」

「でも(1の一)を見て」

「うん?」

「この1点も黒の地って言えない?」

「本当だ! 黒に囲われてるって言える」

「だから18×18は算数だと偶数になるんだけど、囲碁だと奇数になっちゃうの」


「へぇ……」


 亘はソファに一旦背凭れて背伸びした。

「囲碁って面白いね。囲碁も算数じゃん」

「そうだよ、整地する時も算数だから」

「セイチって?」

 姿勢を正す亘。

「対局が終わった後に地を数え易くするために石を並び替えるんだけど」

「そんなことするんだ」

「整地する時も5×2=10目、4×5=20目、5×6=30目、8×5=40目みたいに一桁目が0になった方が数え易いから、棋士の先生達もそんな風にして並び替えている人が多いんだよ」

「プロの先生達もそこは一緒なんだ」

「だから私、学校の算数の授業に囲碁を取り入れて欲しいと思っているの」

「足し算、引き算、掛け算、割り算?」

「分数、少数、倍数、約数」

「表とグラフに、三角形、四角形」

「円と球、正の数、負の数」

「そして」


「「囲碁!」」


 亘と香織は互いの目を見ながら揃って言って、笑い合った。

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