八手目「囲碁の経済学」

 1000人以上収容出来る大学講堂の出入り口から学生達が続々と外に出て来る。

 講堂の時計が4時を指している。

 出入口の横に掲げられている白地の看板に黒字で書かれている。

『経済アナリスト 海坂彰平 特別講義:日本経済の基礎教養』


 亘と香織もバックを持ちながら、大勢の学生達の群れの中から歩いて出て来る。

 日没はしていないが、太陽は橙色を少し強めて、快晴の青空を少しずつ夕焼け空に染めようとしている。

 亘と香織は最寄り駅へ通ずる敷地の校門を目指して、キャンパスの中を歩く。

 亘は左の香織に歩幅や歩調を合わせて、ゆっくり歩いた。

海坂うなさかさん、話上手だったね」

「テレビによく出ているから、人前で話すのも慣れているんだろうね」

「香織ちゃんもテレビ出ているじゃん」

「私は『囲碁アングル』以外出ていないし」

「大学で声掛けられない?」

「あんまり無いかな。囲碁部の男の子達から「ファンです!」って告白されたことは何度かあるけど」

「俺もその一人か」

「ワタル君みたいに囲碁知らない男の子に誘われたことは無いかも」

「江繋さんに感謝だな。あの子と知り合いじゃなかったら絶対に香織ちゃんと友達になれなかっただろうし」

「そうかな? 私はりっちゃんが居なくても、ワタル君と仲良くなれた気がする」

「どうして?」

「安心するのかな。勝負を忘れられるって言うか」

「囲碁から離れたいって思う時があるの?」

「囲碁から離れたいと思ったことは一度も無い。勝負から離れたいの」

「なるほど」

「なんだろう。嫌な負け方したり、力の差を見せつけられたりすると、しんどくなるから」

「香織ちゃん……」

「棋士同士って皆、基本的に仲は良いんだよ。でも強い人は偉いけど、弱い人は……みたいなところってやっぱりあるんだよね」

「厳しい世界なんだね」

「好きなことを仕事にするのも、結構つらいんだ」

(好きなこと、か……。好きな人はいるんだが)

「香織ちゃんは高校生の時にプロになったよね?」

「うん」

「プロ棋士になろうと思ったのっていつぐらい?」

「小学校1年生の時ぐらい」

「そっか。香織ちゃんは大人になるのが早かったんだね」

「大人って、そんな大それたもんじゃないけど」

 香織は照れ笑いを微かに浮かべた。

「いや、大人だよ。香織ちゃんは」

 香織は照れ笑いを浮かべつつ、真っ直ぐ前を見て自分の右を歩く亘を見つめる。

「言ってしまえば日本棋院も一つの会社なんだから、プロ棋士になるって云うことは就職するってことだからね」

「まぁ、そうだね」

「プロになれなかった子もいっぱい見てきたんでしょ?」

「うん。私より一生懸命囲碁に打ち込んでいた子もいっぱいいた。だから酷い負け方しちゃうと、時々妙に思うことがあるもん。どうして私なんかがプロ棋士になれたんだろうって」

「“予言の自己成就”じゃない?」

 亘がそう言うと、香織は「あった、あった」と言ったような表情で少し吹き出して笑った。亘は続ける。

「小学校1年生の時にプロ棋士になると予言して、どうしたらプロ棋士になれるか? と行動していったら、本当にプロ棋士になってしまう」

「株の暴落と一緒にしないでよ」

「だから香織ちゃんの場合は逆だよ。株が高騰して景気も良くなるんだ」

「景気かぁ。私達、日本が景気良かった時代を知らないもんね」

「囲碁界はどうなの?」

「私もその辺りは詳しいわけじゃないけど、日本棋院もバブルの頃までは良くて、その後は赤字が出たり、黒字を確保したり、上げ下げを繰り返しているって聞いたことある。でも「日本棋院 財政状況」で検索すると、暗い話ばかり出て来るから、もう自分からは見ないことにしている」

「日本経済と一緒か」

「そうだよ。日本経済が調子良かった頃は囲碁も日本が一番強くて、経済的に韓国や中国が調子良くなると、囲碁の方でも日本を追い越していったの」

「囲碁界は日本経済を映す鏡なんだね」

「と思う。韓国や中国でプロ棋士って云うと、スポーツ選手や金メダリストみたいな有名人だけど、でも今の日本だと棋士って云っても全然有名になれないからね」

「そうなの?」

「だって私がテレビに出ていることだって知らなかったじゃん」

「ああ、そうだね」

「でも昔は、藤沢秀行しゅうこう先生が世界的に有名だったんだから」

「藤沢? 前も聞いたことあるな」

「藤沢里菜ちゃんのおじいちゃん」

「へぇ。三代に渡って囲碁一家なんだ」

「やっぱり、ずっと囲碁を打ってきた家系には敵わないのかな?」

「そんなことないでしょ。じゃあ、しゅうこう先生のお父さんやお母さんは囲碁の達人だったの?」

「秀行先生のお父さんは囲碁強かったって聞いている」

「全く囲碁を打ってこなかった家系でも、香織ちゃんみたいに棋士になれる子を産んでくれたんだから、むしろお父様やお母様に感謝した方が良いよ」

 香織は黙った。

 苦い表情になる亘。

(ちょっと説教臭かったな……話題を修正しなくちゃ)

「そっか……じゃあ今日の海坂さんの話も囲碁界に通じると思った?」

「うん。海坂さんが“産業の空洞化”って話をしているのを聴いて、ぞっとしちゃったもんね。囲碁を打つ人が日本から居なくなったら、私どうなっちゃうんだろうって」

「香織ちゃん」

 亘と香織が歩いて行くと、駅へ通じる校門が少しずつ見えてくる。

「香織ちゃん、この後は?」

「バイト」

「ニギリに行くの?」

「そう」

「先約入っているかな?」

「どういうこと?」

「また教えてもらいたいなぁって」

「はぁ!? そんなお金あるの?」

「今日俺の誕生日だけど、親父が仕事で会えないからってまたお小遣いくれて」

「お坊ちゃまだね、ワタル君」

「だから昨日、香織ちゃんに「ワタル君は、人生をナメてんのよ」って言われた時、もう完全にフラれて、二度と喋ってくれないんだろうなって覚悟したんだ」

「ああ、ごめんね」

「ううぅうん、僕は確かにあまちゃんなんだ。兄さん達は会社を継がせるって思いが父さん達に有ったから、凄く厳しく躾けられたって兄さん達から聞いた。兄さん達は立派な社会人になったけど、父さんに感謝している反面、あまり仲は良くないんだ。僕は末っ子で何の責任も無いし、父さんや母さんにも可愛がってもらえて、反抗期も無かった」

「そうなの?」

「うん。怒ったのなんて、本当に昨日のみのる君ぐらいだよ。それより前に、最後に怒ったのなんていつだろう? って感じ。反抗期あった?」

「私は、プロ棋士になる直前は、パパやママにストレスで当たることはあったかも」

「今は仲良い?」

「すっごく仲良い」

「良かった」

 微笑み合う亘と香織。


 二人は他の学生達と共に、校門を出て、駅までの道を歩き出した。

 香織は歩きながら、バッグからスマホを取り出す。

「じゃあ、ニギリに予約入れとく?」

「お願い。仁村先生にも改めて謝らなきゃ」

「気にしてないと思うよ」

「僕が気にするんだ」

「だろうね」

 香織は歩きながらスマホでフリック入力して、仁村に送るメッセージを作り出す。歩きスマホの形になってしまったので、亘は香織が不意な事故に遭わないように香織の傍へしっかり随いて、香織の代わりに前方を注意しながら見つめた。

「今日は何を教えようかな」

「囲碁の世界にもインフレやデフレは有るのか? みたいな」

 亘はふざけて訊いたが、香織はスマホから目を離して真顔で亘を見た。

「あるよ」

「そうなの?」

 香織はスマホをバッグにしまう。

「どうせだし、歩きながら教えようか」

「囲碁界におけるインフレ・デフレみたいな?」

「さっきの海坂さんの講演のタイトルみたいな題名が良いなぁ」

「何だろう、『囲碁棋士 稲穂香織 特別講義:囲碁経済の基礎教養』みたいな?」

「あっ、そんな感じ」

「面白そう」

「海坂さんはお金の話をしていたけど、囲碁でも石の価値が対局によって上がったり下がったりって現象は普通に起きる」

「囲碁にも、海坂さんが言ったような“ディマンド・プル・インフレ”とか“コスト・プッシュ・インフレ”とかあるの?」

「そういう言い方をする棋士の先生は一人もいないけど、しょっちゅう起きる」

「しょっちゅうなんだ」

「例えば、互いに重要だと思って石を打ち合っている場所が在った場合、まさに海坂さんが言ってた“ディマンド・プル・インフレ”だよね」

「需要に引っ張られて、どんどん石を打ち込んでいる状態だね」

 亘と香織は、高値で取引されるタワーマンションが建っている傍を通り過ぎる。

「そう。逆に“コスト・プッシュ・インフレ”は負けている時が多いかな」

「どういうこと?」

「いや、このままだと地合いで負けると分かっているから、苦しくなって相手の石を取ろうとしたり、盤面を荒そうとしたりして、打ち込まざるを得なくて打っている時って、なんだか碁石達にコストを押し付けて打っている感じがするの」

 亘と香織が歩く歩道の反対側で、飲食店で代金を踏み倒そうとした男が警察官達に連行されて、道路に横付けしたパトカーの後部座席に乱暴に詰め込まれている。

「負けそうって云う事情がそういう風に打たせるのか」

「たまにはそれでも勝てるけど、大抵は負けちゃうよね」

「追い詰められてから逆転するのって、やっぱり難しいんだ」

「そして投了しちゃう。会社で言えば倒産。アメリカだったら政府機関閉鎖」

「クリントンもオバマも民主党って言ってたね」

「あれは共和党に赤字国債発行や予算案を否決されちゃったから」

「政府だったら、それだと困るから共和党も予算を通すけどね」

「囲碁の場合は投了に追い込みたいから、容赦しないんだ」

「囲碁の方が怖いかも」

「確かに」

 赤信号を灯った交差点の横断歩道に差し掛かり、亘と香織は足を止める。

 青信号の車道を走る乗用車が交差点で左折したり、右折したりする様子を見つめていると、車両の曲線軌道が香織の脳に講演の記憶を呼び起こす。

「スライドで出たじゃん? フィリップス曲線って」

「なんだっけ。物価が上昇すると、失業率が下がるって奴だよね」

「戦いが起きたり、価値が高い場所だったりすると、どんどん碁石を打つの。だけど打っても価値が無い場所にはあんまり打たない」

「仕事のある都会と失業率の高い地方みたいだね」

「仕事がある都会に人が集まるみたいに、やっぱり布石も隅から打つし」

「フセキ?」

「対局の初めの方での石の並べ方を布石って云うの」

「どうして隅の方が良いの?」

 香織は走行している車道側の信号が黄色に変わり、間もなく赤になるのを見る。

「歩きながらだとなんだから、電車の中で折り畳みの碁盤使って教えようか?」

「そうだね、座れたらの話だけど」

 歩行者用信号が青になり、亘と香織は歩き出した。


 亘と香織は最寄り駅に着くと、特に会話を交えることもなく、構内を歩いて改札を通過し、ホームへと進んで行った。

 タイミング良く電車が到着して、すぐに車両へと乗り込んだが、如何せん自分達と同じ学生の乗客が多いから、二人は席に座ることが出来なかった。

 亘と香織は吊り革を掴んで、亘は右、香織は左に並んで立った。

「座れなかったね」

「しょうがないよ」

「ニギリに着いたら、布石については教えるから」

「ありがとう」

 列車が発進する。

 車両の中は学生達が多いので、賑わってべちゃくちゃ喋っている。

 窓の外を見ながら、亘も香織に話し掛ける。

 電車の外に広がる、黄昏時の東京の街。

「さっき、布石は隅の方から打つ方が良いって言ってたじゃん?」

「うん」

「日本もそうだと思わない?」

「どういうこと?」

「日本も都会って言ったら、東京とか大阪とか横浜とか福岡とか北海道とか大体海があるじゃない?」

「海があれば都会になるってわけじゃないけど」

「でも海無し県で都会ってあるかな。せいぜい東京に近い埼玉くらいじゃない?」

「奈良県も海無いよ」

「そうなんだ? だけど奈良は平城京があったからね。それに大阪も近いし」

「さっき、アメリカの話をしたじゃん?」

「うん」

「アメリカも都会って言ったら、大体西海岸か東海岸じゃない?」

「確かに。ニューヨークもロサンゼルスも海あるよね」

「アメリカってデカいから、海無し州でも都会ってあると思うの。だけど埼玉や奈良みたいに、隣には必ず海在り州があると思うよ」

「何が原因だろ?」

「たぶん、流通だと思うよ。今は飛行機とかトラックとかがあるけど、昔は舟で輸送するのが主流だったって高校の日本史で教わった」

「日本史で」

「そう、高崎先生」

「知らないよ、香織ちゃん」

 互いの顔を見て、微笑み合う亘と香織。

「じゃあ、碁盤ってイメージで云うと“国”とか“島”に近いんじゃない?」

「島?」

「碁盤の隅は港が整備し易いんだよ。だから布石にも有利なのかなって」

(そういうことじゃないんだけどなぁ)

「でも碁盤を島に例える先生は居るよ」

「そうなの?」

「下島陽平先生」

「名前に島が入っているからかな?」

「2、3年前に出した子供向けの本で、亀のお母さんが碁盤の島で子供の亀に陣取りゲームを教えるって話を書いて、囲碁を紹介していた」

「素敵な先生だね」

「海岸まで石を置く必要は無い。島の特性を生かそうって教えてたの」

「特性か」

「囲碁界だと、碁盤のことは“宇宙”って言う人が多いかな」

「でも宇宙って無限大じゃん。それに立体だし」

「確かに碁盤は361目しかないし、宇宙は平面ではないよね」

「囲碁は陣取りゲームって言うくらいだから、なんとなく地理って感じがする」 

「境界線も決めるしね」

「国境や土地の権利を巡って、法廷で争うような感じか」

 香織が鼻から吹き出して笑う。

「どうしたの?」

「いや、そんな現実には絶対にしたくないような土地の争いを、私って碁盤の上では普通にやっているんだなぁって思うと、なんだか可笑しくて」

「そうだよ。それを小学校1年生の時に、プロとしてやりたいって香織ちゃん思ったんだから凄いよね」

 自嘲的な笑いを見せる香織。

「香織ちゃん、地上げ屋じゃん」

「地上げ屋じゃない!」

 香織は猫のように右の拳を伸ばして、亘の左の二の腕にこつんと優しくぶつけた。

(香織ちゃんが俺の身体に触ってくれた……)

 香織の笑顔を見ると、亘は安堵の表情を浮かべて、前に向き直す。

(女の子って不思議だよな。こちらから一生懸命面白いこと言って笑わそうとしても中々楽しんでくれなかったり、特に楽しませようと思ってもいない言葉を聴いて凄く笑ってくれたりする)

 窓の外に広がるビル群や住宅街を見て、亘は呟く。

「土地か」

「東京ってなんだかんだで今でも地価は高いよね」

「バブルが弾けたって言うけどね」

「バブルで思い出したけど、あの頃って“土地神話”があったって海坂さんが言ってたじゃない」

「“財テク”って奴でしょ」

「布石の段階では初期投資なんだよね。隅の方が地を大きく取り易いから、最初にはどんどん打っていくの」

「碁盤の隅は都会だからね」

「でも碁石が増えてくると、だんだん、地として大きくならなくなっていく」

「人が集まり過ぎて、地価も上がって、家を買ったり、アパートを借りたりするのも無理になってくるわけか」

「そしてバブルが崩壊する」

「なるほど」

「終局してみたら、全然地が取れなかったってことよくあるもん」

「碁石って不思議だね」

「そうだね」

「都会に集まって来る“人”に例えたかと思えば、布石段階では初期投資って言ったりして企業の設備投資みたい。お昼に食堂でも香織ちゃん、相手に自分の石を取らせるのを企業が不採算事業を他社に売却するって云う風に例えたじゃない?」

「そうだね」

「だけど、碁石にはそれぞれ名前も無いし、一個一個の力は皆一緒なんだよね」

「そう。でも自分の判断によって、石は強くもなるし、弱くもなる。性格も変わってくるし、役割も全然違う。そこが奥深くて、私、囲碁が好きなのかな」

「人と一緒じゃん」

「そう?」

「皆、同じ“人”って生き物。だけど、一人として“同じ人”は居ない」

 電車の中にさまざまな人々が乗っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る