静かな隣人

吉良 朗

第1話 和雄とひかり、そして隣人

 ベランダの窓から真っ赤な月を眺めていると背後で和雄の舌打ちをする音が聞こえたので、ひかりはゆっくりと振り返った。


 和雄がしかめっ面をして隣室との境界になった壁を殴る。

「毎晩毎晩うるせーんだよ、まったく」


 ひかりが呆れたように言う。

「もうやめときなよぉ。無駄無駄」


 和雄がまた舌打ちをする。

 思い切り壁を殴ったものの、隣の部屋の大声が止まることはなかった。



 この2LDKの賃貸マンションは都心部の高級マンションには遠く及ばないものの、地方都市とはいえ駅が近くてわりと新しく、専有面積も一般的な2LDKより広く設備も整っていて、そのわりには家賃もこの辺りの相場より少し安いくらいの優良物件だった。

 とはいえ、隣人のような二十歳そこそこの男がひとりで住むには必要以上の広さであり贅沢といえた。


 和雄とひかりはその隣人よりもちょっと下くらいの年齢なので、むしろ他人のことを言えないといえばそうなのだが、こちらは夫婦ふたりだ。

 しかも、半年以上も前の話しではあるが、以前はシュンという名の赤ん坊もいて3人暮らしだった。

 実際、それぐらいがちょうどいい使い勝手の部屋だった。



 和雄とひかりは2年前、ひかりが18歳で妊娠したのをきっかけに結婚した。

 その後、ひかりは出産までは実家で暮らしたが、シュンを出産してからはこのマンションで暮らしている。

 それからもう、かれこれ一年半くらいになる。


 隣人が引っ越して来たのは3か月ほど前だった。

 その前に隣の部屋に住んでいたのは、何の仕事をしているのか分からない50代と思われるおばさんで、これもまた贅沢にひとりで住んでいた。

 おばさんはあまり生活パターンが定まっておらず、しばらくいない日が続いたかと思えば、一週間くらいずっと部屋にいることもあった。


 おばさんが部屋にいるのかいないのかというのはすぐに分かった。

 シュンが泣く度におばさんが壁を叩いたからだ。

 最初は、赤ん坊の泣き声がうるさい、とマンションの管理会社を通して苦情を言われたのだが、それが何度か繰り返されると、おばさん自ら壁を叩いてうったえてくるようになった。


 和雄は共用廊下などでたまにそのおばさんに会うとにらみつけていたが、おばさんは動揺することもなく淡々とした態度で同じようににらみ返してきた。

 それからは、和雄が部屋にいる時は、おばさんが壁を叩けば和雄も壁を叩き返すという攻防が繰り返されるようになった。


 しかし、その攻防と育児に板挟みになったひかりは次第に育児ノイローゼになっていき、遂には何かが弾けたようにネグレクトになってしまった。

 なので、後にが起こらなかったとしても、シュンがひかりの実家に引き取られていくのは時間の問題だっただろう……

 そして、シュンが引き取られた後、しばらくして隣のおばさんもどこかへ消えてしまった。



 今ではすっかり治ったといっていいひかりのノイローゼだが、その原因はあのおばさんのせいだと和雄は思っている。

 ちなみに、一時衰弱しきっていたシュンも今ではひかりの実家ですくすくと育っている。



 前の住人だったおばさん同様にこの大声ではしゃいでいる隣人も、引っ越してきた当初は何の仕事をしているのかよく分からなかった。


 昼間はだいたい静かなのだが夜中になると連日のように騒ぎ出すので、ある日、何をそんなにはしゃいでいるのかと、ひかりがベランダからこっそり隣の部屋を覗いてみた。

 すると、ゲーミングチェアに座り、ヘッドセットをして一心不乱にコントローラーを操作している隣人、そしてその向こうのモニターにゾンビが銃で撃たれているゲーム画面が映っているのが見えた。

 そして、そのゲームのプレイ動画を編集し動画サイトにアップしたりしているのを見て、隣人がゲーム実況者であることが分かった。


 × × ×



 和雄が壁を殴っても、一向に静かになる気配もなければ、何か反応が返ってくるわけでもなかった。

 ただただ、興奮気味に一喜一憂いっきいちゆうするゲーム実況の声が聞こえてくるだけだ。

 その声は、壁を通してというよりも、ベランダを介してよく聞こえてくる。


 和雄は思う。

 ゲームして騒いで……そんなんで、ひとりこんな広い部屋に住んでやがるのか……贅沢なヤローだ……

 こっちは自分の手を汚して、そのうえヤクザにまで目をつけられてやってきたっていうのに……

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