君の声をもう一度

徳田雄一

失声

 俺は三十五になった日、一般的には遅いであろう年齢で結婚をした。彼女は三つ歳下の三十二歳。


 結婚式は彼女の願いからしなかった。彼女はとてつもない程の恥ずかしがり屋で、ウエディングドレスを着て綺麗に身を包むことすらも恥ずかしいと言った。

 だが俺はそれを許容した。なんせ俺も君と同じくらい恥ずかしがり屋だからだ。


 そんな彼女との日々は幸せ続きであった。

 独身の今まではベッドに横たわり、ただ寝て、次の朝を待ち、誰もいないベッドから身体を起こす。

 という哀しさで溢れる生活だったが、今では隣には綺麗な彼女が可愛い寝顔を見せ寝ている。


 今日も可愛い寝顔の彼女の頬に冷たい手を当て、彼女を起こす。


「おはよう。詩音しおん

「んぅ……」

「ほら起きて。朝だよ」

「うぅん……」


 彼女は朝が弱く、起こしても十分は起き上がれない。だけどそんな彼女がとても可愛い。

 だが今日は大事な用がある。さっさと起こさなければならないと心を鬼にして彼女を揺すり起こす。


「今日は大事な用があるだろ。起きないと」

「あーそっかぁ……」


 ふわふわとした返事を彼女はする。そんな彼女もまた可愛い。可愛い以外の感情が見当たらず、ただただ褒めるだけの日々。それにも満足していた。


 彼女が起き上がったところで、着替えをさせるよう急かしたが、これまた時間がかかりそうであった。毎日着替えるまで三十分は使う。


 だが今日は大事な用事がある。彼女のパジャマを脱がし着替えさせる。


 たわわな果実が揺れる。自分の理性を保つためにも今は視界に入れないよう着替えをすませる。


「ありがとぉー」

「いいんだよ。さ。行こう」


 歯磨きも顔を洗わせることもせず、すぐに車に乗り込みに行く。なぜなら今日は大事な大事な用事がある。結婚から一年が早くも経っており、そして今日がその結婚記念日だからだ。


 早く出掛けて、彼女と共に一日を満喫したい。そう思っていた。彼女も嬉しそうに車に乗ると、シートベルトを着用し先程よりも元気になっていた。


「さ。どこ行こうか」

「んー。としちゃんと一緒ならどこでもいいよ」

「お。じゃあパチンコでも行くかぁ?」

「どこでもって行ったけどそこは嫌だー」

「冗談冗談〜」


 普段通り冗談交じりで会話を交わしながら、車を走らせ、一時間ほどかけて着いた場所は遊園地。彼女と付き合ってから初デートをした想い出の場所だ。


「ここ久々〜」

「どこがいいかなって考えてたんだけど、詩音と初めて来たここがいいかなって思ったんだ」

「嬉しいよ」


 彼女は恥ずかしがりながら笑みを零す。俺はその笑顔に心臓を締め付けられるほどキュンキュンしていた。


 ジェットコースターに乗り、コーヒーカップでグルグル目が回るほど回し、メリーゴーランドに乗っている彼女を動画を回し、楽しく過ごした。

 俺は彼女の楽しむ姿がただただ好きだった。


 一日楽しんだ後、彼女は疲れ気味にはなりつつも予約していたホテルへ頑張って歩いていた。


「もう少しで着くからな」

「うん。あのね。としちゃん」

「んー?」

「……後で言う!」


 彼女は何か秘密を隠しているかのような素振りを見せる。早くそれを知りたくて俺は彼女をおんぶし、走り始めていた。彼女は背中の温かさ、そしてスピード感に楽しそうに微笑んでいた。


 ☆☆☆


 ホテルに着き、色々と荷物を置いたあとベッドに座り、彼女から言葉を待っていた。


「ね。としちゃん」

「んー?」

「あのね。私さ、としちゃんと結婚してよかったよ」

「俺もだよ」

「それでね。今夜はあの。私を抱いて欲しいの!」


 普段俺から誘わなければヤりもしなかったのを彼女から誘ってくることに少し違和感を覚えた。彼女は嘘をつく時、何かを隠している時に目をそらす傾向がある。

 彼女の目を見て、何か大事なことをごまかしていないかジッと見つめるが、目をそらすことなく、むしろ目を瞑りキスをする。


「……としちゃ」

「し……おん?」


 今までは楽しく心がウキウキするような、そして彼女との愛を深めれるようなキスだったはずなのに、何故こんな気持ちになるのだろうか。


「ね。としちゃ」

「……」

「乗るね?」


 やけに積極的な彼女に俺の身体は彼女を拒んだ。


「としちゃ。疲れちゃってた?」

「しおん。何隠してるんだ」

「……何も?」

「教えろよ」

「ううん」


 彼女は脱いでいた服を着始め、部屋の扉を開けどこかへ行ってしまっていた。俺は何故か彼女に隠し事をされた屈辱感、苛立ちから彼女を追いかけることなく、ベッドに寝っ転がり目を瞑った。


 ☆☆☆


 翌朝のこと、バッと跳ね起き隣に彼女が居るのかチラッと横目で確認したが彼女は帰ってこず。

 どこへ行ってしまったのか、彼女を何故昨日追いかけなかったのか自分を責めていた。

 そんなことをする前に探しに行かなければと気づき、すぐ俺はホテルを飛び出した。


 するとホテル前に彼女の姿が。

 フラフラと歩きながら、服は何故かヨレヨレで。


「お、おい。しおん?」

「……」

「……なんて言っているんだ?」


 詩音から何も聴こえなかった。

 口をパクパク開き、何かを発声しているのは分かったが、何を言っているのかさっぱりだった。


「しおん。声出せよ」

「……」

「……お前」

「……」


 ☆☆☆


 翌朝のこと、彼女を病院へと連れて行った。失声なんて有り得ないと思った。

 だが病院からは原因不明だと言われ、何もわからずじまいだった。


 家に帰宅しても尚出ない声。あの綺麗で美しい声をまた聴きたい。原因を知りたい。そう思い、彼女にペンと紙を用意し、そこに言いたいことを書いてもらった。


 すると衝撃の事実が襲った。


【としちゃ。別れて】


 彼女が書いた文字に目を疑った。

 信じられなかった。


「な、なんでだよ」


【わたしうわきしたの】


「う、浮気?」


【ホテルからいなくなった日、わたしちがう男のモノをうけいれたの】


 信じられなかった。純粋で俺とする時も恥ずかしさから後ろからしかさせてくれなかった彼女が他の男のモノを受け入れたなど信じたくなかった。


【わたしおそわれたの。でね、としちゃと別れなきゃって】


「わ、別れなくていいんだよ。俺が昨日追いかけなかったのが悪いんだから……」


【ううん。としちゃわたしが出てったからわるいんだよ。としちゃ。別れて。お願い】


 彼女は声を出し泣きたいはずなのに出ない声に苛立ちを見せた。


「な、なぁ。声出なくなったのってなんでなんだ」


【わたし昨日までは声出てたの。だけどあの人におそわれてから声が出なくなったの】


 苦しそうに涙だけを零し、出ない声に、そして俺の方を見る悲しげな目に、俺はただその場に座り込むしかなかった。


 彼女の失声の原因は男に襲われた恐怖からだった。


【としちゃ。別れて?】


「別れるわけない。君の声をもう一度」


【ほかの男のモノを入れた汚いわたしだよ?】


「汚くない。君は綺麗だ」


【としちゃはなんでそんな優しいの?】


「君が。しおん。君を愛しているからだ」


【ね。わたし喜んでもいいのかな。うわきしたわたしにそんな】


「いいんだよ」


 彼女は大粒の涙を流しながら俺に抱きついてきていた。優しく腰に手を回し、俺は静かに彼女を抱き寄せた。


 全ては昨夜の俺が原因で起こった事件。

 俺が追いかけていればこんなことにはならなかった。


 俺は自分を責めながら、彼女の傍に一生居ようと思った。


 ☆☆☆


 その日から俺は彼女の声を戻すために色々と試行錯誤し、治すために尽力を注いだ。


【としちゃ。あさごはんはー?】


「パンでいいよ〜」


【わかったー】


 一年経っても未だに紙で会話だが、俺はそれで満足していた。


 だが彼女は。苦しんでいた。それを汲み取れず俺は一人満足していた。


 ☆☆☆


 ある日の事。彼女は死んだ。


 飛び降り自殺だった。


 テーブルにポツンと置かれた遺書。


 彼女は声を出せないことに苦しみ、悲しみ、そしてやがてそれは死に直結していた。


 彼女は俺に感謝の言葉を残していた。


 俺は今のままで良かったと思っていたが、彼女からすれば、俺と声で会話が出来なかったこと。一度でも俺以外の男を受け入れたことに心を締め付けられていたようだった。


 そんな彼女の気持ちに気づけなかった自分に嫌気が刺した。

 彼女を追い、俺もマンションの屋上に侵入し、マンションから下を見下ろした。

 彼女の、遺書の中身をもう一度確認すると、最後のページにちっちゃく書いてあった文に衝撃を受けた。


【としちゃ。わたしは貴方と一緒にいれてたのしかった。わたしは死ぬけど、としちゃは生きてね。としちゃはわたしよりもっと良い人に会ってね】


 もう一度君の声を


 聴きたかったよ。


 しおん。次会った時はもっと幸せにする。


 だから君も今は天国で俺が天寿をまっとうするのを待っていてくれ。

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君の声をもう一度 徳田雄一 @kumosaki

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