第四十三話 虹の女神

 ――ヴェルドール聖王国 騎士団領 東部森林――


 ラウリール侯の屋敷からファリナが姿を消した。その数時間後には、ファリナは白馬を駆って屋敷から遥か東、森の中にいた。


 聖騎士の装備は剣を除いて屋敷に残し、ファリナは外套のフードを深く被って素性を隠している。


 一目で彼女だと分かる者はいない――彼女に近しい数人を除いては。


「……そろそろ、この子を屋敷に帰してあげないと」

「ええ、そうね。そろそろ転移魔法の範囲から外れてしまうから」


 ファリナが白馬を止めると、後ろに乗っていたシェスカが先に降りた。ファリナも降りたあと、白馬の首を撫でながら頬を寄せる。


「よく走ってくれたわね。私の転移魔法では、知らない土地には行けないから……」


 ファリナとシェスカは、ともに歓楽都市フォーチュンのある西大陸よりも高いレベル帯の地域で生まれた。


 レベル帯が低い地域に移動するには、満たさなければならない条件がある。移動先の国から入国許可を得るため、『封具』を装着する必要があった。


 魔龍を討伐するためにレベル99に達しているファリナとシェスカは、すでに封具を着けて力を抑えていた。


「女神よ、しるべの地に続く扉を開きたまえ……“帰還リターン”」


 シェスカが詠唱を終えると白馬の足元に陣が浮かび上がり、発光を始める――そして白馬は光に包まれ、姿を消した。行き先はもとの居場所、ラウリール侯爵領の牧草地である。


 ファリナはしばらく目を閉じて祈ったあと、シェスカを見る。


「ありがとう。シェスカ、あなたにはいつも……」


 言葉の途中で、シェスカは気づく。


 何の気配もなかった。シェスカが今そうしたように転移の魔法を使ったわけでもない。


 忽然と、ファリナの背後に誰かが姿を現した。


 ファリナの白い頬に、後ろから伸ばされた手が触れている。ファリナの手は剣の柄に届いてすらいなかった。


「しばらく会わなかっただけで、私のことを忘れてしまったの?」

「……女神……様……」


 白く長い髪と、金色の瞳を持つ女性――魔竜を倒したあと、ファリナとシェスカの前に姿を見せた『女神』がそこにいた。


「なぜ、私たちのところに……私たちの願いは、聞き入れられないのではなかったのですか?」

「あなたたちの仲間……盗賊の男を生き返らせてほしい、だったかしらね」

「っ……」


 『女神』は立ちすくんでいるファリナに絡みつくようにして、その耳元で囁くように言う。


「あなたたちは魔竜を倒し、楽園の扉に通じる道を開いてくれた。そのことには感謝しているけれど、一度失われた命を戻すには相応のの試練が必要なのよ」

「……試練……それを受ければ、マイトは……」

「ファリナ……ッ!」


 シェスカは気づいていた。ファリナが剣に伸ばしかけた手から、力が失われている。


 突如として現れ、こちらを翻弄するようなことばかり口にしても、女神をしいするという選択はない。そう分かっていても、シェスカはファリナが抵抗の意志を持たないことに焦燥していた。


「女神……様。貴女の力があれば、あの人を蘇生させられるの……?」


 女神ルナリス――神託を下し、魔竜討伐の志願者を募った存在。


 聖騎士団においても信奉される存在であり、ファリナが魔竜討伐の旅に出たことも、その神託によるものだった。


 だが、シェスカはその姿を実際に見た時から違和感を覚えていた。


 魔竜を討伐し、生き残った三人に対して女神が向けた視線には――隠しもしないほどの恍惚があった。


「あなたはとても友人想いだけれど、ファリナには一人で試練を受けてもらわなければいけない。それくらいのことを望んでいるのだものね」

「っ……待ってください、女神様! 今のファリナはまだ……っ」


 女神に抱かれたまま、ファリナの身体が光を放ち始める――転移陣の展開すら介さない、まさに神のみが可能とする御業。ファリナの姿が消え、女神はシェスカの前まで悠然と歩いてくる。


「あなたも我慢しないで、望むものを選びなさい。いくらでも待っていてあげるけど」

「……マイト君が生きていなければ、何を望んでも意味はありません」

「ふふっ……可愛いのね。エルフにしては若いもの、仕方がないわね」


 女神はシェスカの頬に触れようとするが、シェスカは一歩下がる――そして、そのまま転移して姿を消した。


 英雄二人がいなくなり、女神は空を仰ぐ。


 ――女神の髪と瞳の色が、変化を始める。ルナリスと呼ばれて否定しなかった存在は、別の姿に変容した。


 女神イリス。金色の髪と灼眼を持つ女神は、この事態を知りえない姉に向けて笑っていた。


「姉さまの選んだ駒も、上手く動いてくれるといいのだけど」


 抜けるように晴れた空から雨粒が落ちてくる。にわか雨に濡れながら、イリスは踊るように走っていく。


 そして雨が止み、空に虹がかかるころ、女神イリスの姿は忽然と消えていた。

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