今朝のことだ。

 約1時間の犬の散歩から帰ると、妻は細長い包みを差しだした。片手に載るほどの大きさだ。

「あなたに荷物が届いているわよ」

 僕は散歩に持って出たタオルで額を拭いながら言った。

「こんなに朝早く? 配達員、もう働いているのか?」

 時間は7時になったばかりだ。小説が書けなくなって以来早起きの習慣が身につき、早朝の散歩は日課になっていた。

 僕は近所の子供たちの登校時間を避けるために、いつも早めに家へ戻る。歩道を占拠して集団で練り歩く中学生たちのだらけたジャージ姿には、我慢がならないからだ。

 妻もかすかに首を捻った。

「差出人も書いていないのよ」

 ジョギングシューズの紐を緩めていた僕は、嫌な予感を感じて妻を見上げた。

「消印は? まさか、誰かが直接持ってきたんじゃないんだろうね?」

 妻は、改めて封筒を裏返して確認した。

「一応郵便受けに入っていたんだけど……そういえば、消印もないわね」

 僕に言われて初めて気づいた妻の粗雑さに、わずかに苛立った。

 作家には、見知らぬ読者が数多く存在する。

 こちらが知らない相手でも、向こうはこっちを知っている気になることもある。さらには、作品に対する愛憎を作家に直接ぶつけてくる者も少なくはない。

 幸い僕にはそのような経験はなかったが、剃刀や干涸びたカエルを送り付けられた同業者は知っている。中には、びりびりに破かれた作品に灯油をしみ込ませたものを受け取ったという女流作家もいる。

 ある種の読者にとっては作中の人物が〈実在〉し、その運命が気に入らない場合に『作者に抗議しなければならない』と思い込むこともあるようなのだ。

 程度の違いこそあれ、『ミザリー』の恐怖は不特定多数を対象に作品を発表する立場の者にとっては避けがたいリスクだった。

 そこまで思い詰めたものでなくとも、近所の中学生たちの悪戯だということは考えられる。

 僕は重苦しい溜め息をもらした。

「妙な嫌がらせじゃなければいいけど……」

 妻は屈託のない微笑みを返す。

「嫌がらせ……って? 何かそんなことを書いたの?」

 僕は廊下に上がり、なんの心配事もないようなあけっぴろげな表情の妻からその荷物を受け取った。

「身に覚えはないが……逆恨みに理屈なんかないからね。君も昔は小説を書いていたんだ、分かるんじゃないのか?」

 妻は軽く肩をすくめると背を向ける。キッチンへ戻りながら、答えた。

「今じゃ、ただのおばさんよ。おばさんは逆恨みなんか恐がらないわ。頭の中は、ご主人さまの朝食でいっぱいですから」

 僕は妻の明るい口調につられるように、微笑みをもらした。

 16歳で純文学の賞を取った妻は、かつて〈有望な新人〉と目されて文壇を騒がせた。

 だがそれも、もはや過ぎ去った栄光の断片に過ぎないのだ。

 僕たちが知り合ったのは、大学のミステリー研究会だ。キリスト教系の女子学校で育った彼女は、共学の大学での生活に戸惑うウブな少女だった。つい数年前に文学賞を手にしたとは思えないほど垢抜けない服装が、逆に目だったものだ。

 その頃の彼女は、純文学に行き詰まって新たな可能性を開こうと模索していたように見えた。

 全く書けなくなった――と知ったのは、同棲のような状態になってからだ。

 それ以後彼女は僕の支えになり、結婚後も2人で貧乏暮しを切り抜けてきた。弱小出版社の編集部員を辞めて専業作家になった僕が、長年の望みだった一戸建の家を買える程度に売れるようになったのも、彼女の助言の力が大きい。

 実際に、初めて僕が収入を得た短篇も、彼女がふと口にしたアイデアが核になっていた。しかも雑誌掲載が決まったのは、妻が何度も彼女の担当編集者を訪れた結果だった。

 今でも筆が進まなくなると彼女は僕に寄り添い、ともに作品世界を練り上げる。難産の末に生み出された作品が口の悪い評論家たちに高く評価されることも稀ではない。

 たとえ作品は僕1人の名で発表されていても、僕は全ては2人の協同作業の上に成り立っていると考えている。

 そればかりではない。

 妻は僕にとって文字通り命の恩人なのだ。

 ミステリー研究会で海へキャンプに行った時だった。

 ビールを呑みすぎた僕ははしゃいで親友と2人で夜の海に入り、危うく溺れかけた。僕の危機を救ってくれたのは妻だった。ともに潮に流された友人は、残念ながら助からなかった。

 病院で意識を回復した僕に、妻は『海育ちだから』といって目を伏せた。

 そして僕はその微笑みに恋をした。

 妻は僕にとって最愛の女性であり、決して裏切ることのできない恩人であり、最も厳しい編集者であり、有能な秘書だったのだ。

 僕がスランプに陥ってからも、妻はあれこれとアイデアを出し、環境を整え、突破口を探そうとしてきた。気力を失った僕にとっては苦痛には違いないが、2人の努力は遠からず報いられるだろう。

 僕はそう信じている。

 彼女さえ隣にいれば、僕はどんな困難とも戦えるのだ。

 僕は堂々たる主婦の風格を滲ませる妻の背を見ながら、1人つぶやいた。

「確かに、心配のしすぎだよな。まさか、封を切ったとたんに爆発する――なんてことはないだろうからな」

 僕は居間に入ると、封筒を切って中から細長い箱を引き抜いた。頑丈なボール紙でできた箱はひどく古びて傷んでいた。2、30年程度の年代を感じさせる。

 その直感が当たっているなら、子供たちの悪戯などではなさそうだ。

 僕は、かすかな安堵と共につぶやいていた。

「なんだい、これ……?」 

 きつく閉まった箱の蓋を、力を入れて開けた。

 中には脅迫めいた痕跡はもちろん、手紙さえ入っていなかった。

 ただ、問題の万年筆が1本、納まっていただけだった。

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