マスクをした女

小山らみ

マスクをした女

「わたし、不安なんです。コロナ禍がおわってしまうんじゃないかって……」

 ここは精神科の一室。ほっそりとした色白の女性が椅子に座り、医師の面接を受けている。

 外来の患者によくある、病的なところはとくに感じさせない、ただとにかく悩みを聞いてもらいたい、そんな人。

 まっすぐこちらを見て話しかけてくる。

 黒々とした長い髪を耳の後ろに流し、切れ長の大きな目はややつりあがり気味。

 目から下はすっぽりと不織布のマスクに覆われている。

 彼女と向き合う男性医師は、やわらかい口調で問い返した。

「終わらないんじゃないか、ではなくて、終わってしまうんじゃないか、なんですか?」

「はい」

 女性は短く答えた。声はいたってふつう。何の問題もないようにみえる。

「どうしてですか。事情を聞かせてください」

 医師が話をうながす。

「じつは、私はコロナ禍になって、外出するのに不安がなくなったんです」

「ほお」

「ほら、外で見る人たち、みんなマスクをしているでしょう。私だけじゃない、みんながマスクを着けているんです」

「あなたは、ずっとマスクをしていたのですか?」

「はい、ずっと。ずっとです」

「何か理由があって?」

「顔を見られたくないのです。特に、下半分を」

 醜貌恐怖なのだろうか。医師は平静を保ったまま女性の顔を見る。マスクの上に光る目にはとくに化粧はしていないようだ。容貌を病的に気にする女性は濃い化粧をしていることがままあるのだが。

 まあ、いろいろな人がいる。この女性はそうではない。

「ずっとそうなのですか?」

「はい」

「でも、日常、とくに困ったりもしてない?」

「世間にめったに出ませんでしたからね」 

 みょうなことを言いはじめたかな。医師は相変わらず平静を保ったまま女の様子を見ていた。

「先生」

「はい」

「私の顔を見てもらえますか?」

「顔を?」

「はい。マスクを外しますから。先生に、私の顔を見てもらいたいんです」

「いいですよ、見ましょう」

 こういう相手にどう対応すればいいか、これまでの経験を踏まえつつ、医師は気持ちを整えた。

 女性はしばし間をとり、大きな目で医師を見つめ、いささかもったいをつけ、ゆっくりとマスクを外す。


 マスクの下からあらわれたのは、予想通り、耳まで裂けた口だった。

 こういう顔の妖怪は多い。

 イラストだと愛嬌のある描かれ方をすることもあるが、女の顔に唇が生物体の一部として伸び拡がっている様は、薄気味悪い眺めでしかない。

 女が口元をゆるめた。顎の力を抜きぶらさげたような状態にして、時々頬のあたりの筋肉を笑うように動かす。口という裂け目がそれ自体生きもののように蠢く。広がったり狭まったり。中から覗く歯はぬらぬらと光沢を帯び密に並び、歯と歯の境には黒い毛糸を梳きでもしたあとの残り滓みたいに黒い細かい毛のようなものが湿ってこびりついている。歯茎を含め、口腔内は黒ずんで見えるが、舌だけはピンク色でぶよぶよと独立しているかのように動いている。口の中に生息する軟体動物。舌の向こうは舌の色とつながる赤味を覚えるが、結局は黒々とした闇に通じていた。入口。出口。この世から黄泉へ。黄泉からこの世へ。わたしたちは皆、そこから現れ、またそこへ消えていく。それだけだ。諦念と共に反芻しつづけなければならない不快感、それをいやというほど見せつけてくれるこの裂け目。しかし、もし、これが男の口だったら? また印象はちがってくるのか…………

 医師は女性の口を見つめながらも、意識は女性本体の様子をうかがうことに向けていた。こちらに飛びかかろうとするような気配はまったく生じず、女性はただ静かに椅子に座って自分の口元を見せつけるだけだった。


 しばらく、会話もないまま、向き合っている時間が過ぎた。

 やがて女性はあきらめたように、ゆっくりとマスクを着け直す。

 医師は姿勢を正すと、女性の顔を正面から見直し、こう言った。

「だいじょうぶです」

 沈黙。医師がことばをつなぐ。

「不安になったら、またいらっしゃい」

 女は目を伏せ、静かに立ち上がる。長身だ。医師に背を向けた女性の腰まで届く黒い髪が重く揺れ、あいさつもせぬまま部屋を出て行った。


 女性は二度と現れることはなかった。




 ランドセルを背負い、とぼとぼ歩く帰り道。道の周りは、田んぼを挟んで民家がぽつぽつ並ぶ田舎の道。

 一人歩く道の前方に女の人が立っている。長身で長い髪。見慣れた風景の中でぽつんと浮き上がって見える。

 距離が近づき、その女がマスクをつけているのが分かった。

 その横を通り過ぎようとした時、声をかけてきた。

「ねえ」

 えっとなり、声のした方に顔を向ける。

「わたし、きれい?」

 女がマスクを外す。

 耳まで裂けた口が目の前に広がる。

「わー!」

 思わず叫び、走って逃げようとする。ところが、足が思うように動かない。

 どうすればいいのか、混乱する。いつもの風景が周りから消え、暗黒の中に女と二人だけ閉じ込められたような。

 髪の長い大女が上からかぶさろうとするように迫ってくる。こわい。

 大きな口の上で見開かれた目は血走り、あざけるように舌がひらひらしている。

「ぎゃー!」

 さっきよりも、もっと大きな声で叫び、女に背を向けてもつれる足で走り出す。

 必死に逃げる背後から、女の笑い声が響き続けた。……


 はっとして目を開け、時計を見ると深夜二時。

 目が覚めてしまったので、トイレに行き、用を足した後キッチンで、冷たい水をひとくち飲む。

 子供の頃の怖い記憶。夢の中では風景ごと自分も物語の中に取り込まれてしまう。現実に戻るには夢から覚めるしかない。

 そして、さらに苦い過去も思い出した。

 怖いことがあったんだと話しても、誰にも信じてもらえなかったのだ。

 それ、流行ってるんでしょう、テレビで言ってたよ、バカじゃないの、本気にしてるの、それともそれでだませると思ってるの?

 なかよしだと思っていた子たちにもうそつき呼ばわりされ、先生もそういう子たちに同調し、うそをつかないようにと親からも注意された。

 ともだちがいなくなり、一人で本を読む時間が増えた。

 まず、口のことを知りたくて人体の図鑑を観るようになり、筋肉や内臓など身体のことをもっと知りたくなった。

 それから、うそつき呼ばわりされ孤立したときに見せられた周りの人たちの表情や言動に一様なものがあったこと、そもそもなぜほんとうのことを言ったのに信じてもらえなかったのか、など、人の心の動きにも興味が湧き、そのようなことが書かれた本も読むようになった。

 そして、精神医学の道に進み、今は医師として悩んでいる人を助けている。

 そのクリニックでの "再会" を思い起こしてみた。

 相変わらず、あの口は、怖い。でも、そのときの状況は日常のままだった。対面しているのはいつもの見慣れた室内。自分は医師として相手に向き合い、目の前に開いた口を観察し、適切に対応できた。

「もう、だいじょうぶなんだ」

 そして医師はつぶやいた。

「ありがとう、口裂け女さん」




 



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マスクをした女 小山らみ @rammie

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