半夏雨

麦原穣

半夏雨

降り続く雨に濡れて、薄汚れたスニーカーがぐずぐずと水を含んでいる。

 靴下どころか制服のズボンの裾まで泥まみれだ。

 置き勉禁止のために教科書やノートがぎっしり詰めこまれたバッグを背負い、かおるは梅雨の通学路を家に向かって歩いているのだった。

 中学生の登下校スタイルってなんてダサイんだろうと思いながら、住宅街を歩く。水滴が絶え間なく透明なビニール傘をたたき、周囲の水玉を集めて落ちた。

「馨、かおるー」

 ばしゃばしゃと濡れた道を走る音と共に近づく、自分を呼ぶ声に馨は面倒くさそうに振り向いた。幼なじみの葉雪はゆきだ。

「置き傘してたらなくしちゃってさ、入れてってよ」

 そういう彼女は、足元どころか全身ずぶ濡れだった。

 同級生である葉雪の白いブラウスが体に張りつき、まだそう大きくはない胸に浮かぶ水色のチェック模様を確認してしまった。馨はあわてて目をそらした。

「イヤだ、絶対ヤダ」

「なんでよ、いーじゃん」

「寄るなバカ」

 うろたえた顔を隠そうと必死で振り払う馨に、葉雪はむうっとふくれっ面で、

「もういいよ、馨のけちっ子」

 そう言い捨てて再び雨の中に駆け出した。

 普通は逆じゃないのか。

 思春期は女の子の方が成長は早いのだから、恥ずかしがるべきは葉雪なのではないか。なんだか負けたようで晴れやかではない。

 と、走り出して数歩とたたず、彼女は派手な水音を立てて転倒した。

 馨は全身の力をふり絞るようなため息をつき、スポーツバッグの中から取り出したフェイスタオルを葉雪に投げつけた。

「ほらタオル、ワイシャツも貸してやるから傘に入れ!」

 葉雪は腕やら頭やらをそのタオルで拭きながら、

「ワイシャツはいいよぉ、馨が裸になっちゃうし」

「なるか! 下に体操服着てるから大丈夫なんだよ、その上からでいいから隠せ……」

 言いかけて声が出なくなった。

 うつむいた横顔に。

 濡れた髪の毛から落ちるしずくに。

 そのしずくが吸い込まれていく胸元に。

 目が離せない。

 ポニーテールの後れ毛が頬に張りついていた。

 葉雪の黒い瞳がこちらを向く。

 しまった、と思った。

 ものすごく長い間見つめていたかもしれない。

 馨が言い訳も浮かばぬままに発声しようとすると、

「小さい頃は一緒にお風呂入ったじゃん」

 葉雪はぬけっと言った。

 雨足が一瞬、強まったような気がした。

「今さら服が透けてるくらいで騒ぐことないでしょー、変な馨っ」

 葉雪は自分のブラウスが透けて下着が見えていることも、それを見て馨が動揺していることもわかっているのだ。

 わかった上で平然としている。

 なんて無神経な女なんだ。

「じゃあ」

 何か言ってやらなくては。

「今でも一緒に入れるか?」

 傘の中の時間が止まった。

 葉雪の顔が一気に紅潮する。

 そして何かを振り切るように傘から飛び出して――また転んだ。

 静かな雨音と、二人分の足音だけが妙に響く。

「ワイシャツ汚れちゃったね……」

「……いいよ別に」

「洗って返すね……」

「……いいよ別に」

 傘の中で、葉雪が近い。

 ワイシャツを羽織って胸元を握りしめている葉雪の頬が、まだほんのり赤い。

 馨は体の奥からこみ上げてくる、正体不明の熱く大きなモノを盛大に壊したくなった。

 突然雄叫びをあげてみるとか。

 葉雪の肩を思いきり抱き寄せるとか。

 その時。

 背後でクラクションが鳴って、馨の心臓は今度こそ止まりそうなくらいに大きく跳ねた。

 馨は反射的に葉雪の腕を掴み道の端に引き寄せた。白いワンボックスカーが通り過ぎる。

「……馨」

「あっ、ごめん」

 あわてて手を離すと、葉雪の腕の意外な柔らかさが名残る。

 さりげないふりをして、馨は車道側に立った。

 二人は再び歩き出す。

 葉雪はぽつりと言った。

「久しぶりだよね、こうして二人でいるの」

 そういえばそうだ。

 互いの両親は馨たちが生まれる前から知り合いなくらい近所だし、同じクラスだから毎日顔を合わせている。だが、それぞれ同性で仲の良い友達がいる環境の中で、二人でつるむ理由はなかった。

 葉雪は傘の裾から落ちる水滴を眺めながら、

「昔一緒に遊んでた頃とは何か違うのかな? 馨と歩くの、なんか新鮮」

 そう言って、ふふっと笑う。

 口角の上がった唇がきれいだと思った。

 同級生の男子の中には葉雪に恋心を抱く者もいるという。幼い頃に、おねしょをして叱られていた彼女を知っている馨はそんな噂も鼻で笑っていたが、葉雪は確かに、昔とは違う。

 馨自身も、何か変わったかもしれない。

 葉雪が一歩踏み出して、傘の外に出た。

 くるりとこちらを向いて言う。

「雨、やんだよ」

 人なつこい、昔と同じ笑顔で。

 空の雲が薄くなって、湿り気を帯びた薄日が射し始めている。

 いつか理由がなくても葉雪の隣を歩ける日が来るだろうか。

 そんな想像を追い出すように、馨は勢いよく傘を閉じた。


                        了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

半夏雨 麦原穣 @Mugihara-Minoru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ