第20話

猫からの評判は悪くとも、客からの評判が良ければそれでいい。猫は猫からの評価など要らない。猫は客に認められればそれでいい。

客に認められれば、主人に認められる。

それがいい。

猫の喜びは、客人に殺されることと、主人からの承認を得ること…主人からの承認を得るためには、客人に無残に殺されることだ。

幸福の永久機関。

それこそが色売り屋。

彩潰し。


「さあ、石黄くん。今日こそ口も聞けなくさせてあげるからなあ」

そう言ってやってきた客、渋紙は、指名された猫、石黄にとってはなんてこともない、程度な通いの客だった。

口先だけの脳足りんな暴力衝動。子供が権力を持っただけのような幼稚。他者を見下すことで自分を優位に立たせようとする、誇大妄想と劣等感の塊。

石黄は不敵に笑う。

「ええ。望むところです。お客様」

その名を覚えていながらも口には出さない…口に出す価値もない。

石黄の呼称に苛立ちを覚えたことを発端に、渋紙は針金の束を手に取り、掴みかかった。

「いい加減…渋紙様って呼べや、糞猫があ‼︎」

長身と筋肉の身体で、背の低い石黄を畳に叩き倒し、両膝で石黄の動きを封じる…その手が針金を引っ張り出そうとしたが、ごたごたともたつく。

この無様も見飽きた…笑う気力もわかず、石黄は呆れ顔で溜息をつく。

何をされるかも察してしまえばつまらない。暴力は不意であるからこそ恐ろしく、昂奮できるというのに。

畳に押さえつけられて数秒…あ、取れた、と間抜けにひとり呟き、渋紙は格好つけて針金を束から引き伸ばし、石黄に見せつける。

「へへ。これからこいつで、手前の首を絞めてやる。ただ絞めるだけじゃねえぞ。肉に食い込ませたり、ぶっ刺したりして、血みどろにしながら絞め殺してやるからな!」

「知ってますよ。何度同じことを仰っているのですか…」

恒例行事。お決まりの科白。

むしろ猫より演技に浸っているのは客の渋紙の方だ。それとも知能がなさすぎるのか。

石黄は小馬鹿にするように口角を上げ、目を閉じた。

「さあ。時間がありませんよ。お口を動かすよりお手々を」

「余裕こいて居られるのも今のうちだ‼︎」

馬鹿でかい怒号に対し、その手つきは不器用に、実にまったりとした動作で石黄の首に針金を巻きつける。

ぐるぐる、ぎゅっ。

ぐるぐる、ぎゅうっ。

ぬるい。

生ぬるい。

遅い。

焦ったい。

それから力が足りなくて、肉も気道も絞まらない。痛みも窒息感もない。

石黄は欠伸を堪えながら思考する…何と言えばこの客の暴力衝動を刺激できるだろう。もっと激しいことをしてくれるだろう。そうするにはどのような演技が適しているだろう。

そんなことを考える余裕が尽きない。

とりあえず馬鹿にしてみるか。

「…お客様ぁ。一体いつになったら猫殺しが上手になるのですか。僕を逝かせる気は、本当におありで?」

憎たらしく語尾を伸ばし、舌を突き出して笑って見せる。

かあっ、と渋紙の顔が真っ赤になる。

「糞猫‼︎ 手前、何て言った⁉︎」

「下手糞だと言っているのですよ。初夜ならまだしも…それで僕を服従させられるとでも。笑わせるなよ、不能が」

口調すら崩して罵倒すれば、渋紙は拳を振り上げる…石黄はむしろげらげらと笑った。

「殴るのか。ようやく殴るんだな! でもどこを殴るんだ。顔を打ったら、君に罰が下るぞ。残念だったな!」

「糞…糞…この糞猫‼︎」

振り上げた渋紙の拳は、石黄の顔面に当たる寸前で落下地点を変え、針金が巻かれた首の喉元に強く叩きつけられた。

ごぎゅ、と喉仏が押し潰され、石黄は奇声と反吐を吐き、全身を痙攣させる。ようやく息ができなくなった。ようやく視界が暗んできた。ようやく一度目の殺害だ。

石黄は悶え苦しみながらも、にたあと歓喜の笑みを浮かべて死に果てた。

しかしその顔を客は拝む余裕などない。

「いってえ‼︎ 針金‼︎ 俺の手があ‼︎」

石黄の首に、雑に巻かれた針金の先端が、渋紙の拳に深く突き刺さった…慌てて離しても針金は突き刺さったまま。渋紙はひいひいと喚き、手の甲深くまで入ったそれをゆっくりと引き抜く。

ずるりと肉の内側に感じた異様な感覚に、人間は醜く泣き声を上げる…そんな醜態の音と共に石黄は息を吹き返した。

悶えて転がり回る醜い人間が居る。

猫を放って、ひとりで喚いている。

とても楽しそうに。

…なんだか捨て猫にされている気分だ。

不快だ。

石黄は首の針金を丁寧に解き、立ち上がる…ぺたぺたと歩み寄る石黄を涙目で見上げた渋紙は、血を流す拳を押さえて縮こまりながら、口だけは達者に罵倒の言葉を並べ立てる。

「こ、この糞猫‼︎ て、手前のせいで、俺が怪我をしたじゃないか‼︎ 猫のくせに。糞猫のくせに、何してくれてんだよお‼︎」

「それ、痛いか。お客様」

「ああ⁉︎ 痛いに決まってるだろ。手前ら猫と違って、人間はすぐに治ったりしねえんだよ‼︎ 糞があ‼︎」

「羨ましいな。お客様」

にた。

石黄は澄ました笑みを浮かべ、渋紙の側に跪く…迫る黄の瞳に、びくりと渋紙は身体を強張らせる。

「どうして僕にその痛みをくれないんだ。それとも、君はそうやって痛みを知り、僕をどう傷つければどう苦しむのかを…学ぼうとしているのか?」

「は…な、何言ってんだ…」

「だったら教えてやるよ。どこを傷つけたらどれほど痛くて、どうやったらちゃんと死ぬのか…この僕が教えてやるよ。お客様ぁ」

石黄は伸ばした針金で渋紙を床へと追い詰め、首元にぴたりと当てる…渋紙は青ざめ、暴れようとしたが、身体は戦慄し力は入らない。

「て、手前…お、俺を殺すのか⁉︎ おい、俺を殺すのか⁉︎」

「さて、どういたしましょう…」

「猫が人間を殺してもいいと思っているのか⁉︎ 猫のくせに…そう、手前は猫だぞ。下等な猫が、人間様を殺しても…ぐえ⁉︎」

渋紙を全身で押さえつけた石黄は、針金を強く首に押し当て圧迫する…ぎりぎりと皮膚と肉にめり込み、細い針金と床に挟まれた渋紙の喉は異物感と微妙な窒息感を訴える。

「…そう言われれば、猫が人間を殺してはいけない、という規則は聞いたことがないな」

「は、が…ごほ…どけ…はなせ…げ…」

「怖いか、お客様…殺されるというのは、怖いか?」

拷問のような行為とは裏腹に、石黄の声は優しく、表情は慈悲深く穏やかに。

それが悍ましく見えるのは、襦袢の襟元に、血混じりの反吐が僅かに付着しているから…自分が確かに殺した猫が、今度は自分に暴力を…渋紙は怯える。

「…なあ、お客様。死よりも怖いものって、わかるか?」

「こ、こんなことして…手前…主人に、捨てられても…ぐげ…」

「そうだな。御主人様に捨てられるのはとても恐ろしい…でも、僕はそれよりも恐ろしいものを知っているんだ。知っているんだよ…」

ぐぐぐ。

針金が肉に食い込み、痛みが走る…渋紙は白目を剥き。

「ぎゃあああああ‼︎」

…奇声を上げて石黄を跳ね除けた。

そして一直線に出口へ向かい、外の仲居が戸を開けるや否や、奇声を上げたまま去っていった。

完全な捨て猫だ。

しかし石黄は満足げな笑みを浮かべた。あんな不能の客に付き合うのは、時間の無駄だ。


×


軽く身を清めた石黄は、同じ部屋での待機となった。特に汚れも少なく済んだ室内の清掃はすぐに済み、元通りの整った色部屋となっている。

次の客も石黄指名だ…届いた文に名前は書かれていなかった。身分を晒したくないのは、色売り屋通いの客にはよくある話だ。

仲居の声が聞こえたと同時、戸が開く。

入室した背の高い男は、今若の能面を被っていた…石黄は首を傾げる。顔こそ見えないものの、初めて迎えた客なのは明らかだ…それとも忘れているだけか。

素性を隠したがる客ならば、名の知れた貴族だろう。

猫には名乗る必要はない…店にさえ名を通せば客として受け入れる。そこに顔認証は必要ない。合法で猫を殺せるとは言え、世間に通いがばれてしまえば、人間の評価は落ちるものだ。

面を被る客も初めてではない。

お気の済むまで…と決まり文句を残し、仲居が戸を閉める。

ふたりだけになった室内で、まず口を開いたのは石黄。はやく殺されたくて、挑発してみる。

「その被り物は何ですか…世間に色通いと知られるのがそこまで恐ろしいのか。それとも、見た者が吐き気を催すほどの醜貌だとでも。あっはっは!」

けらけら…指を差して笑ってやるが、能面の客は無言のまま、戸の前から一歩も動かない。

演技を間違えたか、と萎えた顔をする石黄だったが…ふ、と得体の知れないものが頭の中を過った。

それはにおいか。それとも呼吸音か。その客の立ち姿か…一瞬、目の前の能面の男に既視感を覚える。

何だ。何かが変だ。思い出せ。変だ。

「…久しぶりだな、石黄」

「……は」

笑うような低い声。

久しぶり。

ぞく、と背筋に嫌な寒気が走る。

両手の指先が跳ねた。

何故だ。何だ。身体が勝手に動く。

心臓が強く脈打つ。おかしい。おかしい。思い出せ。何でこいつに嫌な予感を覚える。

男はゆったりと両手を顔へ運び、能面に手をかける…その優雅な動作に、石黄は後ずさった。

息ができない。何もされていないのに。殺されることは喜びのはずなのに。

怖い。

明らかに異変を現す石黄に、男はくつくつと喉を鳴らして笑う…厭らしく。粘つくように。

「…ああ、変わっていないな、石黄。その青い顔が愛らしい。その細い身体が愛らしい。だが痣と血にまみれさせたら、もっと上物になれるぞ。まるで芸術のように」

「…あの…ひ…お引き取りを…」

「お引き取り…僕は客だぞ。売り物の猫のお前が、客を捨てる権利があると思うか」

ひゅっ。ひゅっ。

石黄は必死に喘ぎ、思わず逃げ道を探す…出入り口などひとつしかない。男の後ろの共通口。それも仲居が答えなければ、鍵も開かない。

逃げたい。無理だ。この男は何だ。思い出せ。思い出せ。いや、思い出したくない。恐い。怖い。こわい。こわい。こわい。

「い……」

いやだ。

そう呟いたと同時、男は能面を剥がし、投げ捨てた。

「石黄。約束しただろう…何度だって殺してやるって。ずうっと探していた。そしてようやく…」


見ぃつけた。


猫は悲鳴を上げた。

心の奥底から、本物の恐怖を叫んだ。

母を壊した男が。自分を何度も殺した男が。

義父が。

どうして…───

「たすけ…御主人様、助けてください‼︎」

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