三章

第9話

十二の頃のある日。

私は母と父と一緒に、徒歩で出掛けていた。晴れた陽の下、弁当を持って森林浴…何でもない日常のひとつだった。

その帰路で、唐突に父が「家まで競争するぞ」と言い出したから、私はひどく昂奮して、ひとりで全力で走った。

そうして、遅れてくる母と父へ振り返り立ち止まったのは、まだ警報器も立っていない線路の上…愚かな私は、両親の目の前で、勢いよくやってきた列車に轢かれ、肉塊となって死んだ。

ああ、死んだのだ。

それは確かだ。

四肢がちぎられ、腹の中身が押し潰され、轟音が響く中で頭の中のものが溢れ出た…そんな感覚を覚えている。視界が暗くなり、例えようもない痛みがふっと消えるその瞬間に、母の吐くような悲鳴が聞こえ、途切れた。

死んだのだ。

十二という餓鬼でも理解できた。

しかしどうしてか、途切れたはずの母の悲鳴は、ものの数秒も経たずに続きが聞こえた。

失ったものの感覚が蘇り、消えたはずの痛みが再び襲うがまたすぐに消え…微かな喉の異物感は、思い切りすうっと息を吸ったと同時に失せる。

視界に光が戻り、自然とまばたきをしてみれば、青い空は美しく映った。

身体を起こせば何事もない景色が映った。

私の後ろで脱線し、横転した列車。投げ出された多くの乗客たち。放射状に飛び散った赤と、私を浮かべる真紅の水溜まり。

何事もない景色。

私は立ち上がり、呆然としている母と父へ手を振った。

私、泣かないよ。強いでしょう。

微笑みかければ、崩れ落ちた母は今度こそ嘔吐した。その隣の父が頭を抱え、化け物のような奇声を上げ、私を指差し、何かを言おうと吠えたくる。しかし言葉は一向に出て来ず。

私は単純に、公衆の面前なのに、ちぎれた衣服で半裸を晒していることを悍ましく思われているのかと思って慌てたが。

どこかから見ていた何者かの声が、侮蔑するように遠くから叫んだのを聞いた。

猫。

猫だ。

あの娘、猫だ。

化け猫が居るぞ。

すると父は発狂し、猫、猫、猫、猫、猫、と私を指差して喚き散らした。

よくわからなかった。

どこにも猫なんて居なかったのだから。


それから。

一週間食事すら貰えずに過ごした後、明朝に母と父は、私を都会の歓楽街へ連れ出した。

そこは清らかな朝でも、ひどく汚らしい場所だった。甘い香のにおいが漂い、酒と肴の反吐が道端にぶちまけられ、店の陰で、痣にまみれて死んだように眠っている男が何人も居た。

ここは両親が嫌う下卑た享楽街。

そのはずなのに、どうしてふたりはこんなところに訪れたのだろう…私を連れて。

自然と心臓が鼓動を速め、嫌な予感が胸を満たし…腕を引かれるまま歩き続けて、気がつけば周囲の光景が少し変わっていた。

並ぶ店は高級感が増し、漂う香の香りも上品なものになる。路は清潔に整えられ、くたばる男も居なければ、歩いているのは私たちだけ…静かだが、どこかから楽しげな女たちの声が聞こえた気がした。

その大通りの最奥に見えた大きな屋敷が、両親の目的地だった…屋敷の前には、猫の面を被った女が立っていた。

彩潰し。

父は言う…電話した者です、と。

母は言う…この子を譲渡します、と。

それだけ言って、両親は私の手を離し、すぐに去っていった。追いかけようとした私は、猫の面の女に捕まり、逆方向へ、屋敷の中へ連れて行かれた。


これが、私が色猫にされた時のこと。

十二で猫になった私のことだ。

でも、確かに私は、十二より以前…いや、このふた月前までは、正しく傷を負い、死ぬ危険もじゅうぶんにある、ただの人間だったはずなのだ。

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