第8話

戌の刻を過ぎれば店は開き、色売り屋には客が集い出した。猫を殺しに来た客人たちは待合室にて、猫殺しという同じ趣味を持つ者同士、下卑た会話で盛り上がる。

ここに通うのは今日で二十を超える。今日はあの猫を指名するのだ。あの猫は良く啼くからお薦めしよう。指を圧し折るのが好きでね。成程、そんな殺し方もあるのか。一時間で何度逝かせられる。

…ひとりの若い客が肥えた男に声をかけられた。

「今日は石黄という猫を指名するんだよ。あれは今際の際まで饒舌でね、逝く時に声が途切れる一瞬の断末魔が、どうにも癖になるんだ」

若い客は、そうですか、と笑った。表情はぎこちなく、すぐにその男から目を逸らす。肥えた男は下品に笑い。

「そう、饒舌と言えば…柳という猫もなかなかだ。正直、心底腹の立つ文句を吐かしてくるが、そんな猫を惨たらしく殺せた時の達成感や征服感は、堪らんもんだよ。いつかその心も磨り潰してやりたいなあ!」

…男の言葉を聞くと、客はぎゅっと衣服の裾を握り、唇を噛む。俯き目を見開いて、顔面を蒼白にする。

喧騒の中…顔を猫の面で隠した仲居が番号を呼び出した。

九番の札を持ち、若い客は立ち上がった。


×


「ご指名いただき有難うございます」

吊り上がった目でにたりと笑み、猫は皮肉っぽく言葉を述べて頭を下げる。外面だけの丁寧な動作で正座する猫に、若者はごくりと生唾を飲み込んだ。

「ど、どうも…わ、私は、若竹わかたけと言います…」

「……」

若者、若竹が名乗ると、猫はあからさまにしらけた表情を浮かべる。片目を引き攣らせ、僅かに首を傾げる。不愉快そうに。理解できないとでも言うように。

若竹は呻く。

「あ、そ、その…何か、私は…」

「いえ、失礼。紙面で名乗る方は居られるのですが、面と向かい名乗られるのは稀でして…如何されたのです?」

「いや、その…な、名前は、大切だと思いまして…」

「この場に置いて名を名乗ることに意味などありませぬ。ここは猫を殺す場所。素性は晒さぬ方が得だと思いますよ」

溜息混じりに答えた猫は、気怠げに立ち上がり…部屋の隅の戸棚の前に立つ。

若竹が呆然と動かずにいると、猫の緑の瞳がぎらりと振り返る…それからふ、と緩やかに微笑み、引き出しをひとつ開けて見せた。

中にはあらゆる種類の包丁が並んでいる。

「…さあ。時間は限られております。どうぞこのわたしを、お気の済むまで、お気に召すままに、惨たらしく殺してくださいませ」

「……っ」

若竹は呼吸を喉に詰まらせた。

猫が笑う。ついさっきまで皮肉に、または不本意な、偽物のいびつな笑みを浮かべていたのに…殺害を望んだ瞬間、穏やかに、心底からの無垢な笑みへと変わる。

幼子が遊びに誘うように。

おとなに甘えるように。

「玩具なら幾らでもご用意しております。まずは何から楽しみましょうか」

その清らかな笑みで、自らの死を望む。

悍ましい顔だった。

若竹は首を横に振る。

「…や、やめ」

「こちらをお手に」

無理矢理に持たされる出刃包丁…猫は若竹の手を握り、その刃を己の首元へ持っていく。

「もしや…猫殺しに慣れておられないのですか?」

「わ、私は…」

「でしたら、すべてこのわたしにお任せを。猫のわたしに身を委ねて…わたしが猫の殺し方を、猫殺しの快楽をお教えいたします」

猫は耳元で囁き、研ぎ澄まされた刃を深く首元に当て、ぐっと若竹の手を寄せる。

「そう…もっと強く。そこに良い所がありますよ」

「だめだ…そんなことをしたら、君は…」

「ええ。果ててしまいますね…ですから、もっと強く、深く、そうして」

「ちがう…私は…!」

「そう、そこで…思い切り引いて‼︎」

首筋に深く刃が減り込んだ状態で、猫は若竹の手を思い切り押し退けた。

すると。

ざりり、ずぱっ!

奇怪な手応えと音を鳴らし、若竹の手に握られた包丁は、猫の首を引き裂いた。

じわりとその首筋に赤い線が滲み、それは濃さを増し、太さを増し、数秒遅れてから…びしゃあっと噴水のように血液を噴き出した。

「あ、ああっ‼︎」

若竹は顔面を蒼白にし、片手の包丁を投げ捨てる…その間にも、猫の首からは、脈打つように鮮血が噴出し、壁を汚し、床に真紅の池を作り、若竹の顔面から胸元、足元へと降り注ぐ。

「ああっ、あああっ⁉︎」

突っ立っていた猫はぐらりとその場に崩れる…若竹は慌てて受け止め、止めどなく血を噴射する傷口を素手で押さえるが既に遅い。

猫は口から血のあぶくを吐き、白目をむいて脱力した…真っ白な顔に愉悦の笑みを浮かべ、満足そうに失血死した。

若竹は悲鳴を上げ、死んだ猫をゆさぶる。

「ああ、ああっ、ちがう、ちがう‼︎ 私はこんなことをしに来たんじゃないんだ‼︎ ごめんよ猫くん。起きておくれ、柳くん‼︎」

「……そんなに慌てなさるな、お客様」

泣き叫ぶ若竹の腕の中で、猫、柳は息を吹き返す…既に生気を取り戻した眼で若竹を見上げ、ひたりと血まみれの手を頬に当てる。

「…猫は傷を負いませぬ。猫は死ぬことはありませぬ。故に猫。化け猫です。この程度では快楽とも程遠い。鳴けもしません」

「や…柳、くん…」

動脈を裂いた傷も塞がり、ただ大量の出血の汚れだけが残る…一度死んだ証は確かにある。真紅は酸化し、褐色に乾いていく。

柳はするりと若竹の腕の中から抜け出し、次の殺害遊戯のために引き出しを漁る。

「…何故、名を呼ぶのです」

「…名前は、大切なものだと」

「わたしの名は真の名ではございません。貴方の信仰には含まれない」

「な、ならば、君の本当の名前は…」

「やはり素人ですか。猫は捨て子またはみなしご…名など貰えぬか捨てている。わたしは名付けてさえもらえなかった捨て子です」

…柳は深くため息をつく。

表情こそ歪んだ笑みだが、呆れ果て、苛立ちを露わにする…取り出した柳刃包丁を手に取り刃をなぞり、すうっと自らの指を切る。しかしそれは血を滲ませる間も無く、跡形もなく塞がった。

「…だったら私が、貴方に名を付けます」


「…は?」

若竹の掠れ声に、柳は眉を吊り上げる。

「今、何と」

「……私は…」

若竹はぐっと拳を握り、顔を上げた。

「俺は、君を殺しに来たんじゃない。君たちを、君を助けに来たんだ、柳くん」

「…はい。ですから、何なのですか、一体」

柳は首を傾げる。

笑みを消し、無表情に…理解できないとはっきり顔に表す。

若竹はふらりと立ち上がり、しかし眼差しは強く、柳を見据え、胸元に手を当てる。

「俺は君を助けたい。君のような小さなこどもが、こんな所で殺され続けるなんて、あってはならない。君たちは猫になってはいけないんだ!」

「あの…何を申しているのか。少し落ち着かれては。ほら、次は心臓をひと突き…如何です?」

「そんなことを言ってはいけない!」

感情を昂らせた若竹は柳へと駆け寄り、刃物を持つ方の手首を掴む。

「死は売り物ではない。いいかい、柳くん。命というものは、本当はひとつしかないんだよ。君は猫と呼ばれていても、俺たちと何も変わりない。同じ人間なんだ!」

「わたしは猫でございます。人間ではありませぬ。猫は死ぬものです。死を売るのが猫商売でございます」

「ちがう、ちがう。猫なんてものは、本当は居ないんだよ、柳くん!」

「どうか落ち着いて、お客様…彩潰しの猫は身請けをお断りしております。わたしどもは猫故、外界では生きてゆけませぬ。所詮は色売り屋に飼われた、家猫なのでございます」

「頼むよ、柳くん。自分を猫と呼ばないでくれ。君たちは猫ではない。猫が存在するのだとしても…君は、猫ではないんだよ!」

「夢を語るのがお上手で…お客様のようなお方は好きですよ」

「その刃物を放すんだ。危ないだろう」

「ではわたしを殺してくださりますか?」

くくっ、くくっ…柳は喉を鳴らして笑い、柳刃包丁を片手に若竹と距離をとり、ふらりふらり、ひらりひらりと舞い踊ってみせる。

振り回す刃で自らを切り刻みながら、血の飛沫を畳へ撒き散らしながら、愉しげに踊る…くるりと回転する度に、灯りを反射した緑の瞳がぎらりと光り、若竹を睨みつける。

真紅の雫は若竹の顔面や衣服、肌、全身に跳ね返り、斑模様に汚していく…目の前の猫は、傷が塞がった矢先に新たに自らを傷つけ、くつくつと、次第にけらけらと笑い、猫のように音もなく優雅に舞う。

「やめてくれ…柳くん…」

若竹は頭を抱え呻く。

ちらり、きらり、ぎらりと灯りを反射する緑の眼光から目を背ける。

猫の目だ。

色売り猫の下卑た眼だ。

己を殺せと誘う欲望の眼差し。

何故殺さぬと尋ねる失望の眼差し。

この無様を楽しめと見せつける。

人間を狂気へ陥れる邪悪な眼と声で、血潮で、舞い踊って見せる…猫が踊る。猫が笑う。猫が誘う。

どれだけ否定しようとも、どれだけ見ないようにしても、認めざるを得ない。

目の前に居るのは、下品に死を売る肉細工。

色猫だ。

「やめろおおお‼︎」


しかし若竹は惑わされない。

猫の目に睨まれようと、猫の声に誘われようと、それでも真っ直ぐ前を見つめ、猫を見つめ、その腕を伸ばす。

「君のそれは呪縛だ。君は惑わされているだけなんだ。どうか俺を見てくれ。この人間の目を見てくれ。俺は君たちを助けに来たんだ。どうか信じてくれ!」

踊る猫を抱きしめ、動きを封じ…心を閉ざした捨て猫を宥めるように、心の底から愛を伝える。

「この世は優しいんだよ、柳くん。人の世でも猫は生きていける。俺が君を守るから。大丈夫だから!」

愛を伝え、強く抱きしめ…子猫にそうするように、優しく頭を撫で、声を届ける。

正しいことを教え、安心を与える。

大丈夫。大丈夫。大丈夫。

「柳くん…一緒にお家に帰ろう。一緒に生きよう。俺が、君たちを、君を、本当に幸せにしてあげるから。だから!」

「煩い」


ざく、ずぶ…ぐじゅり。

猫はよくわかっていた。どこに何をしたならば命がすぐに途切れるのか…その身に何度も受けた狂人の技で、しっかりと学んでいた。

だから。

己を傷つけるための刃物で。

己に使われるはずだった玩具で。

猫は、人間を殺した。

「………ぎ…ぐ…」

吐瀉物混じりの血反吐を吐いた若竹が崩れ落ちる。

死へ抗い、白目を剥きながら、それでも柳を抱きしめようと、柳の襦袢に掌を這わせ…しかし次第に断末魔となり、窒息と出血に恐慌し、ばりばりと柳を引っ掻き、布を毟り、醜く暴れ狂って。

ようやく。

ぬちゃりと汚らしい水音を立て、若竹は血溜まりに倒れ伏し、息絶えた。

心臓に深く刺さった柳刃包丁が垂直に立つ。

柳は冷めた目で、死に絶えた人間を見下ろす。

「自己陶酔も大概にしていただきたい」

見下す。

「ではお尋ねしますが…本当の幸せとは、一体どのようなものなのです」

気持ち悪い。

「死なぬ身体で死ぬこと以外に、猫にどのような価値があると仰るのです」

気持ち悪い。

「貴方がわたしのために、何ができると言うのです」

愛など知らない。

愛など受けてはならない。

ましてや人間などに。

「貴方はわたしの何を知っているのです」

何も知らないくせに。

顔も知らん、名も知らん、ただのいち客が。一見如きが。

所詮は狂人のひとりが。

所詮猫の、一体何を知った気で。

「貴方は何者なのです」

語るな。人間風情が。


「良い子だ。柳」

いつの間にやら部屋に現れた主人が嗤う。

出血と返り血にまみれた飼い猫の名を呼び、振り返った猫の頭をふわりと撫でる。

「それでこそ私の猫だ。可愛い柳」

くしゃ、と…冷たい掌で、乾いた血で固まる髪を解きほぐされ、柳はごろごろと喉を鳴らす。

「有難うございます。ご主人様」

光の差さない真黒の瞳に見下ろされ、柳はこどものように、ふわりと笑った。

愛のない言葉に、猫は心の底から喜んだ。


猫に愛など要らん。猫は愛など要らん。

猫は死ぬのみ。死を売るのみなのです。

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