26段目 脱出

「――おかえりなさい、ロウ、イェルノ!」

『おかえりなさいませ、マイマスタ』


 駆け寄ってきたアマルテアを、イェルノが片手で抱き寄せる。


「ただいま……アマルテア」

「無事で良かったわ、イェルノ」


 再会を喜ぶ二人を邪魔する気はないが、今はそれどころではない。横を擦り抜けたロウは、いち早くパイロットシートに腰掛けた。


「二人とも両手でしっかりしがみついてろよ。惑星外射出装置マスドライバーを作動させるから――」


 言ってから、両手のない者の存在に思い当たる。

 少し悩んでから、イェルノの腰を引き膝の上に引きずり込んだ。

 足を上に投げ出して落ちてきたイェルノは、碧の瞳を驚きで見開いている。


「――っな……!?」

「一瞬だが加速がかかるからな。その腕じゃどっかに掴まっとくのも限度があるだろ」

「あなたね、こないだも言ったけど、唐突にこういうの止めてよ……!」


 金髪の向こうに見える白い額まで赤く染まっていて、右腕で必死に顔を隠している。

 そんな初心な様子で悶えられては、この体勢の続きを知りたくなってしまうのだが――


『惑星外射出装置操作室より、発射カウントダウンの通信がありました。三十秒後に発射します』


 アルキュミアの冷静な声が、ロウの昂りを落ち着かせた。

 イェルノが膝の上で姿勢を整えるのを横目にしながら、頭を整理したロウはそれぞれに向けて指示を出す。


「あー……アルキュミア、発射まで十秒になったらこっちもカウントダウン流せ。アマルテア、お前は壁につかまってろ」

「えー……二人だけ仲良しでずるい……」

「お前が傍にいると、酸素マスク着けなきゃいけないんだよ」

「だってアルミーが言ってたもの。親子以外にも『イップタサイセイ』っていうのなら、三人で仲良くすることも出来るって」

「おい、アルキュミア! なに教えてるんだ、あんたは!」

『残り十秒になりました。テンカウントを始めます、八、七――』


 ロウの非難をよそに、先行の指示を優先したアルキュミアのカウントが始まる。

 あと十秒。妖精セイレーン達が来さえしなければ、このまま飛べる。

 まさか生者の身で、貨物のようにぶっ飛ばされる経験をするとは思っても見なかったが。


『六、五――』

「皆が近くまで来てる。わたし、歌わなきゃ……!」


 気配を感じ取ったらしい。

 夢見るように紅い瞳を遠くに向けたアマルテアが、光る唇をゆったりと開いた。


――Hush-a-by baby, on the treetop――


 音は、アマルテアの唇からではなく、アルキュミアのスピーカーから流れてきている。

 人と人工知能の記憶を辿る、アマルテアの声。

 録音されていたリュドミーラの――マーチの声が、妖精セイレーン達の支配からアルキュミアを守っている。

 アルキュミアと――その中央に座る、ロウを。


 アマルテアは壁にしがみついたまま目を閉じ、『歌』を紡ぎ続ける。

 震えるトンネル壁から伝わる振動が、かすかに船体を揺らした。

 惑星外射出装置は問題なく動くのか。五年も前に遺棄された設備が、今も正常な機能を保っているのか。


 触れた肌ごしに何かを感じ取ったらしい。

 膝の上のイェルノが、背中を預け見上げてきた。

 真下から、碧の瞳が真っ直ぐにロウを映している。


 ざわめいた胸の中が、その色だけで少し緩んだ。


『二、一――』


――When the wind blows, the cradle will rock――


 ――ゼロ。


 ぐっと後ろに押されるような感触の後、すぐにアルキュミアの疑似重力がそれを打ち消す。

 シート全体が小刻みに揺れるのは、疑似重力の修正に追いつかない細かい振動が発生しているからだ。


『段階的に加速します。搭乗員はシートを離れず、体勢を維持してください』


 一人だけブレのないホログラムの通告の間にも、大きな揺れ細かい揺れが断続的に続く。


 ロウの脳裏に、外から見たあの長いトンネルの中を、加速されながら進むアルキュミアの船体が浮かんだ。

 今、自分はその中にいる。

 惑星テルクシピアに魅了され墜落したゆりかごごと、また宇宙そらへと羽ばたこうとしている。


――When the bough breaks, the cradle will fall――


『――射出トンネルを抜けました。磁性体ケースを内側より破棄、第二宇宙速度に推進力が足りません。不足分を本船アルキュミアのエンジン全開起動にて担保します』


 冷静なアルキュミアの声に重なって、スピーカーからアマルテアの『歌う』子守唄が流れている。

 不安を覚えるたびに繰り返し、かつて聞き慣れた低い声が耳に吹き込まれる。慰めるように、宥めるように。同じフレーズを繰り返すだけの録音のはずなのに、声だけ聞いていればまるで、そこにいるようで。


 生前は一度も歌ったことのないその歌――リュドミーラの声。


 振動が消えた。一つだけ残ったアルキュミアの外部カメラが外の景色をモニタに映す。

 一面の雲を突き抜けると、視界を遮るものはもう何もない。どこまでも広がる大気の青。

 青は徐々に深くなり、そして――夜が始まる。


 イェルノの左手が、ロウのシャツを握った。

 力のこもった手首に、ロウは自分の手のひらを重ねた。


 船体の軋む音が大きくなっていく。最後に大きく、ぎちり、と鳴って――


――Down will come Baby, cradle and all――


『――ただいまテルクシピアの重力圏を離脱しました』

「よしっ!」


 ついにアルキュミアは惑星テルクシピアの腕を抜け、宇宙へと羽ばたいた。

 安堵で力を抜いたロウの肩にイェルノの左手がかかり、そっと身体を寄せてくる。

 見上げる瞳に誘われるように、どちらからともなく唇を重ねた。


「……ずるいよ、ロウ!」


 耳元で突然叫んだのは、パイロットシートにしがみついたアマルテアだ。


「ちょ、お前……鱗粉――ッ!」


 気付いた時には近すぎた。この位置では鱗粉を吸い込まないようにするのは不可能だ。

 肺が酸素を取り込んだ瞬間に慌てて呼吸を止め、鱗粉のそれ以上の流入を防いた。


「あっ……ごめんなさい! 悪気はないのよ!」


 片手で口元を覆うロウの動作を見て、アマルテアも気付いたらしい。

 膝の上のイェルノが立ち上がる前に、自分からパイロットシートを離れていった。


『拮抗剤を投薬します』


 すぐにアルキュミアがロボットアームを操作してロウの腕を取り、極微細針による注射を行う。

 拮抗剤はあっという間に全身に周り、多少頭がぐらぐらしてはいても……とりあえず、意識を失うのは免れた。

 鱗粉の作用で少しばかり気持ちよくなっている感はあるが、なんとか瞼は開けていられる。


「……へ、へへ……っざけんな。対策済みなんだよ。んな、何回も同じ攻撃くらってたまるか、ちくしょーが、へへへ……」

「……あの、ロウ、大丈夫?」


 太ももをまたいで対面するように座り直したイェルノが、恐る恐る瞳を覗き込んできた。ロウの笑い方が怪しかったからだろう。

 寄せられた眉は、心配よりも不審げだ。


 その開いた唇から舌先が覗いているのを見て、無性に密着感が欲しくなった。

 腰を抱き寄せたら、怯えたような反応が返ってきた。


「ちょっと、ロウ! ――どさくさに紛れてどこ触ってるんだよ!」

「紛れてねーよ。正々堂々正面から触ってるって。へへ……」

「アルキュミア! ロウがおかしいんだけど!?」

『拮抗剤と合わせて投薬した中枢神経刺激剤の作用でしょうか。打ち消しきれない鱗粉の作用かも知れません。私の作った拮抗剤は完璧ですが、分量についてもう少し事例研究が必要であるという可能性もあります』

「原因なんかどうでもいいけど、今現在おかしいんだよ」


 アルキュミアに食ってかかるイェルノの声を、外部から通信を求めることを示すピルピルという呼び出し音が遮った。


「ああもう、ロウ、へらへらしてないで、しゃきっとして! 通信が入ってるよ、全宇宙間通信回線スペース・ワイド・ウェブの領域に戻ったみたいだ」

『過去に履歴のない相手からの直接通信要求ですが――通信を繋ぎますか?』

「あれ? ねえ、イェルノ。お顔が真っ赤だね?」

「違……っ、この人、変な触り方するし……そもそもこの身体ボディ、もとから感覚が鋭すぎるんだ!」


 ロウの頭はふわふわしているが、会話を聞いていない訳ではない。

 全宇宙間通信回線に繋がったのも、通信が入っているのも聞こえている。

 いらいらとロウの手を引き剥がしていたイェルノが、膝の上から降りようと後ずさりした。


「っもう。俺が出るから、ちょっと手を離して――っぎゃー!? 服の中に手を入れるな!」

「なんだよ、敏感なんじゃねぇのかよ、色気ねぇ声出すなよ、へへ……」

「あなたに色気の云々を言われたくないっ! あっ、アマルテア、なにしてるの――」

「――だってこの呼び出し音、耳障りでうるさいんだもの。早く止めちゃおう。えっと、こっちのボタンを押せばいいのね?」


 ぽちり。

 アマルテアの操作によって、繋がった通信相手の顔がモニタに大映しになった。

 もちろん、相手のモニタにも現在のコントロールルームの状態が映っているだろう。


 つまり、これがロウとの初対面である相手側からすれば、宇宙船アルキュミアのパイロットはセクサロイドとのあれこれを電波に乗せて人目に晒すことが大好きな、一風変わった性癖を持っているという誤解が生まれるのは当然のことだ。


 モニタに映った瞳に理解と共感の色が浮かぶのを、腕の中のイェルノはなにやら絶望的な表情で眺めていたが、今のロウには――少なくとも今だけは、そんなことはどうでもいいことなのであった。

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