第37話 緋羽

11月22日 火曜日 16時50分

私立祐久高等学校裏 農業用水ため池


#Voice :野入のいり 槻尾つきお


 裏門へ回るのさえもどかしかった。

 生垣を突っ切り、フェンスを越えた。


 裏山と学校内では呼ばれている小高い丘を登り、直線でため池に向かった。

 何かの無線鉄塔が立っている丘のてっぺんを走り抜けて、一気にため池に向かい駆け降りた。


 ため池のフェンスのほころびは、白昼夢で緋羽が潜ったものと完全に一致した。しかし、俺の体格では潜り抜けは無理だ。よじ登って超えた。

 赤錆びた鋼製の管理橋へ辿り着き、俺は目を見張った。


 驚いた。

 まさかと思いたかった。


 砂で汚れた黒いソックスと、ブレザー制服の上着が脱ぎ捨てられていた。

 制服を拾いあげると、まだ、温かみが残っていた。

 胸ポケットに残る生徒手帳は……


 ――飯野 緋羽!


 俺は、制服を投げ捨てて、管理橋の欄干に駆け寄った。見回す。夕暮れ時。ため池の水面には、周囲の丘が夕日を遮った影が落ちている。


「緋羽っ! いるのか? 返事しろ!」

 叫んだ。

 そのときだった。


 ……ぷかり


 ちいさな水音が、真下でした。

 見下ろした。


 白いブラウスの背中が、水面に漂っていた。


 スマホに怒鳴りつけるように、救急車を呼んだ。

 ため池の場所、溺れている緋羽の状況、いまから飛び込んで助けると、叫んだ。

 繋いだままのスマホを管理橋の赤錆びた床においた。

 ため池に身を躍らせた。



 ◇  ◇



 緋羽を抱いて岸まで泳いだ。

 11月も末に近い夕暮れ。ため池の水は氷る寸前のように冷たい。


 岸にたどり着くと、コンクリートの護岸に緋羽を仰向けにした。

 細い首筋を探り、口元、胸元を確かめた。

 もう、緋羽は、息をしていない。



 ◇  ◇



11月22日 火曜日 17時50分

祐久市民病院 救急センター


#Voice :野入のいり 槻尾つきお


 救急車を呼んだスマホは、管理橋に残して、回線はつなぎっぱなしにしていた。


 全身ずぶ濡れで、管理橋へ走り、スマホを掴んだ。回線はまだ繋がっていた。

 緋羽を助け上げたこと、心肺停止状態に陥っていることを伝えた。


 救急車の到着を待つわずかな間も、消防から電話越しに指導を受けて、心肺蘇生を何とか試みた。薄紫色に変わった緋羽の唇を奪うことになった。激しい罪悪感を感じた。緋羽を絶望に落としたのは、俺だ。謝罪するためにも、緋羽を絶対に助けたいと願った。


 サイレンが聞こえてきたのは、約10分後だった。

 付き添いで救急車に同乗した。搬送中も緋羽は救急隊員から心肺蘇生を受けていた。しかし、緋羽は壊れた人形のようにぐったりしたままだ。


 手術室の前まで緋羽を追いかけた。ステンレス製の大扉が緋羽を呑み込むと、その前で立ち尽くした。


 ただ立ち尽くして祈るだけの時間は、信じられないほどに長く感じられた。

 ふいに思い出して、学校の職員室に電話連絡を入れた。担任の姫川先生は、不在にしていた。何か他にもトラブルがあったらしく、祐久駅に行ったと伝えられた。

 鹿乗にもLINEで連絡した。



 ◇  ◇



 鉄扉を開いたとたんに、お線香の匂いがした。

 病院の地下安置室に、俺は立ち尽くしていた。

 狭くて寒くて暗い部屋の中央に、真っ白なシーツを掛けられたベッドが置かれていた。扉を閉じた。ゆっくりと歩み寄った。

 シーツの胸元には、白い花束が置かれている。花の名前なんて知らない。


 またか。

 俺は、目を瞑りたかった。しかし、夢の中ではそれすら許されない。

 これは、白昼夢だと、見えたとたんに理解していた。

 しかし、あまりにも悪趣味に過ぎる。

 これが―― 呪いなのか? これから起きる最悪の未来を俺に見せているのか?


 白昼夢の中で、俺はゆっくりと歩んだ。

 顔に掛けられた白い布に手を伸ばす。


 緋羽が眠っている。

 蒼白になった幼げな寝顔が、俺の犯した罪を静かに暴き立てる。


 やめてくれ。

 こんな未来は嫌だ。


 りーん と、鈴の音が聞こえた気がした。



 ◇  ◇



11月22日 火曜日 18時20分

祐久市民病院 救急センター


#Voice :野入のいり 槻尾つきお


「野入、緋羽は?」


 鹿乗の声が呼んだ。

 視界に光が戻ってくる。不条理な白昼夢から解放されたと気づいた。

 リノリウムの床をいくつかの足音が駆けてきた。

 

 振り向くと、鹿乗と、星崎先輩が息を切らせていた。

 心臓が早鐘を打っていた。声を詰まらせ気味に答えた。

「――さきほど手術室に入った」

 ふたりの目線が、閉ざされたステンレス製の大扉の上に灯る「手術中」のライトに向けられた。


 俺は、体中の勇気を掻き集めた。

 緋羽の死という最悪の未来を、いま白昼夢で見せつけられた。俺のメンタルは折れる寸前だった。


「俺がため池で見つけたときには、すでに息をしていなかった。俺と救急隊で心肺蘇生をしたが…… まだ……」

 掻き集めたはずの勇気が、パンクしたように抜けていく。


「……すまない」

 俺は、声を絞り出した。ただ詫びたいという気持ちしかなかった。


 星崎先輩が駆け寄って、俺の手を取った。

「えっ!?」

 俺の手を、星崎先輩の両手が包んで、何かを握らせてくる。


「キミにもお守り鈴をあげます。この鈴は、野入槻尾くんのもの。絶対、悪いモノから遠ざけてくれるから、いつも持っていて」

 えっ?

 驚いた。

「キミも、あの呪いのアプリを見てしまったのでしょう。だから、私から、鈴守神社からお守りをあげます」

「あ、ああ…… ありがとうございます。先輩」

 俺は、不思議と救われた気がした。もしも運命に分岐点があるとしたら、こんな瞬間なのかも知れない。


「それと、緋羽ちゃんの分も、キミが持っていて」

 もうひとつ小さな鈴が俺の手に渡された。

「あ、ああ……」

 俺は、もう言葉が出なかった。だが、恐怖のどん底で救われた気がした。


 そのあと、担任の姫川先生に続いて、緋羽のご両親が駆けつけてきた。緋羽のご両親は、こんな俺に感謝の言葉をかけてくれた。俺は、恐縮するしかなかった。



 ◇  ◇



11月22日 火曜日 18時40分

祐久市民病院 救急センター


#Voice :野入のいり 槻尾つきお


 そして、「手術中」のランプが消えた。

 ステンレス製の大扉が開き、移動ベッドが運び出されてきた。

 

 祈るように、ふたつのお守り鈴を握りしめた。


 緋羽は、目を開けていた。

 潤んだ瞳が、俺を見あげた。


 淡いピンク色に戻った緋羽の唇が、「ありがとう」と、動いた…… と思う。

 

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