8 まだまだ初心者

 台本を覚えたり、役の研究をしたり、部活動に打ち込んだりしていると、想像通り、時が経つのはあっという間だった。今まで生きてきた中でここまで熱中できたのは初めてだ。


 そんな中で、俺の勘違いじゃなければ、神崎は少しずつ心を開いてくれてきたと思う。日下部の話をしたときには、何か呆れられたみたいだったけど、その理由は結局わからない。宿題と言われたが、それは放置したままである。


 ともあれ、そんな呆れの感情だって、仲良くなった証でもあると思う。一切興味ないやつ相手に、決してあんな態度は取らないはずだ。嫌われてはいないようだし、ポジティブに考えるべし。


 神崎と『ロミオとジュリエット』の研究を二人でする機会も、あれからも度々あった。


 そうやって仲良くなっていくうちに、神崎とだったら主役として舞台に上がるのもアリだと、そう思うようになってきた。もちろん、神崎の意見は尊重する。


 厳しく、時には和気あいあいと部活動を過ごしていくと、GWも演劇三昧だったのは、それはそれで楽しくもあった。


 もっとも、部活動がないからといって、何か予定ができたわけでもないのだが。


 GWが終わり、舞台の予定日まであと一か月ちょっと。とうとう立ち稽古が始まった。


 衣装は部室のクローゼットに眠っている。まだ着ない。生地が簡単に洗えない素材なので、汚れたらクリーニングに出す必要がある。もしも練習で汚してしまっては問題だ。


 体操着やジャージとは勝手が違うだろうから着て練習をしてみたいが、こればかりは仕方がない。一応、サイズの確認はしてある。幸いにもピッタリではあった。


「まずは見た方が早い」


 観客席の中腹ほどで、峰岸先輩、神崎、俺、二宮先輩と並んで座っている。


 最序盤、サムソン(川嶋先輩)、グレゴリー(田中先輩)の二人が、バルサザー(菅原先輩)に喧嘩を吹っ掛けるシーンが終わったところである。


「どうだい」


 峰岸先輩が感想を促した。台本を持たずに動きをつけた一通りの演技を見て、頭の中で整理のつかぬまま思ったことをそのまま口にした。


「あんなに動いているのに、声がとても通っていました」

「そうだね。どうしてだと思う」

「声が大きいから……だけじゃない、ってことですよね」


 峰岸先輩が鷹揚に頷く。そのまま、続きを待つように黙りこくった。だが、俺も、神崎も、答えを持ち合わせてはいなかった。


「正解はね、身体の向きだ」

「身体の向き?」

「例えばすれ違うとき、三人とも身体を観客の方に向けているんだ」


 三人の演技を思い出す。

 舞台面――舞台の手前側をツラ、奥側をオクと呼ぶ――の菅原先輩は、下手から出てきて、すれ違うときに左足を軸にして、観客席に向かって身体を開いて振り返ったのだ。一度もこちらに背中を見せなかった。


「演出でない限り、お客さんに背中を向けるのはあまりよろしくない。表情が見えないし、声が届かないし、お尻を向けること自体が失礼というのもある。でも、舞台上では当然、役者同士が会話をする。全員が観客に向かってしゃべるのも、時に不自然になってしまうね。その塩梅が難しいんだ。役者同士が会話しながら、けれど身体の向きはなるべく観客席へ。これも慣れだ。今から身体で覚えてもらう」


 やってみて初めてわかることもある。

 難しい。非常に難しい。

 単に動けばいいってもんじゃないのだ。大きく動きながら話してしまうと、声がブレてしまう。音が飛んでしまう。メリハリをもって話す。身体の向きも意識する。


 次の台詞が頭に入っていないと、自分がどう動きながら喋るのかが曖昧になる。次の動きが頭に入っていないと、どこに向かって喋るのかが曖昧になる。


 アドリブというのは、基礎がしっかりしたうえで初めてできる、いわば計算された即興なのだ。


 まだ立ち稽古は始まったばかり。だからこそ先輩たちとの経験値の差が如実に出ている。


 もっと練習量を増やさないとな、と危機感が募っていくが、それが妙に楽しくもある。

 休憩中は、自然と笑みがこぼれている。

 それは神崎も同じだった。

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