大人の階段(作中時間:2022年4月)

 四月一日。俺達にとって新たな始まりの日となる朝。

 二時間後に控えた入学式のため、俺が自室の鏡の前で慣れないネクタイに悪戦苦闘していると、傍らのスマホが小さな振動を響かせた。

 続けて二度、三度……。この通知の届き方は、七瀬ななせとチカがグループラインで会話してるんだな、と当たりを付けつつ、俺はネクタイを結ぶのを一旦諦めてスマホを手に取る。

 三人だけのグループラインの画面には、下ろし立てらしいレディススーツに身を包み、インカメラに向かってピースサインを決める七瀬の自撮り写真が躍っていた。

 キラキラの絵文字とともに、『じゃーん、美少女JK作家あらため美人JD作家参上』と七瀬。すかさず『結婚してください!!!!』とチカ。人の彼女に勝手に求婚するなよ、と打とうとしたところで、今度は個人ラインに七瀬からのメッセージが届いた。

 出会った頃から変わらない「Nanase」のアイコンの横には、ジャケットを脱いで純白のブラウス姿を窓辺の陽光に晒した、美少女……もとい美人JD作家の写真。何やら大人びた流し目を作った彼女の姿に見惚れた直後、すかさず音声通話の着信通知が画面を占領した。


『おっはよー、れんくんっ。大人ナナセちゃんの感想は?』


 こっちが応答ボタンをタップする前から喋り始めているんじゃないかという勢いで、彼女の楽しそうな声が鼓膜を叩く。


「お、おはよ。とりあえず、オトナナナセってナが続いて言いづらくない?」

『新年度の第一声がそれー? じゃあ、色っぽイロハにしようかー』

「いや、大人ナナセでいいけど……。うん、なんか、めっちゃ大人っぽくてびっくりした」


 ドキドキを紛らすために突っ込みモードに頼ってるって分かってるんだろうか、と思いながら俺が答えると、作家先生はくすくすと笑って推敲を入れてくる。


『物書きとしては、もうちょっと表現力が欲しいねー』

「……俺の知らないキミをまた一つ知れたようで、正直、惚れ直した気持ちです」

『うむ、よろしい』


 満足げに頷く彼女の笑顔がスマホ越しにも見えるようで、俺も口元が緩むのは止められなかった。


『それでー、蓮くんのスーツ姿はなんで送られてこないのかな?』

「……ああ、ちょっと待って。ネクタイ結ぶのに四年くらい掛かりそうだから」

『それ待ってたら卒業しちゃうじゃん。私が毎朝結んであげましょうか、旦那さまー』

「へっ!? い、いやいや、いいって! 自分でなんとかするから!」


 七瀬の言葉に動転して、無意識に片手をぶんぶんと振ってしまう。これも多分、見えなくても見えているんだろうな……。


『もう、遠慮ばっかりだなぁ、蓮くんはー。でも、今夜は遠慮しちゃダメだからね?』

「え?」


 入学式の日の夕方以降は空けておいて――という先日の念押しを思い出して、俺がドキリとしたところで、スマホが再び震えた。


『画像見てー。今夜はここのスカイビューレストランでお祝いディナーだからっ』


 ラインの画面に送られてきたスクリーンショットは、俺でも名前を聞いたことのある都心の高級ホテルだった。

 何か企んでいるのは分かっていたけど、そんなプランだったとは……。そんなところで食事なんて、異世界ファンタジーより遠い世界に思えて、俺は思わず息を呑む。


「お、お高いんじゃないですか、センセ」

『お高いねー。地上二百メートルくらいあるかな』

「いや、じゃなくて、値段が」

『ふっふー、ナナセ先生に任せなさぁい。これでも普通の大学生よりお財布は豊かなのですっ』


 笑顔で胸を張る彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。確かにそれはそうだろうけど……。

 悪いって、と言ういとまも与えず、二冊目の出版を控えたJD作家は弾む声で続けてくる。


『だって、続刊が出せるのは蓮くんのおかげだもん。全国書店巡りの旅はまだまだ世の中的に厳しそうだし、このくらいは印税で振る舞わせてよ』

「……まあ、ナナセ先生がそう言うなら……」


 そのお金は彼女自身や家族のために使うべきだろうに……と思うけど、どの道、ここまできて彼女のプランを拒む選択肢なんて俺には与えられていないのだ。

 俺が断れないように当日までシークレットにしてたんだろうな、と、いつもながらその計算高さに感心していると、口ずさむような彼女の声が続いた。


『楽しみだねー。奮発してお高いワインとか開けちゃおっかー?』

「へ?」


 思わず素で首を傾げてしまう。ワインってアルコールだよな……。

 成人年齢が十八歳に引き下げられても、飲酒喫煙は従来通り二十歳から。高校でも繰り返し聞かされてきたことだ。


「いや、飲酒はダメじゃん」

『ウソウソ。ほら、今日は何の日でしょう?』

「……あぁ、エイプリルフールね。いや、七瀬の冗談って冗談に聞こえないんだって」

『裏表のない子とはよく言われますー』


 褒めてないのに嬉しそうに笑う声を聴いていると、あれっ、と一つの可能性に思い至った。


「あ、まさか高級ディナーの話もウソだった!?」

『それはホントだって。ナナセちゃん、こんなことでウソなんか言いませんっ』

「……まあ、それはよく知ってるよ」


 何しろ、誰が聞いてもウソだと思うような話が全部本当だったし……。俺の小説を読みたくて東京の高校に来たとか、デビュー作の主人公のモデルが出会ってもいない俺だとかさ……。


『ではではっ、夜をお楽しみにー』

「うん。楽しみにしてる」


 そんな会話を終えて、再びグループラインの画面を見ると、チカが素朴な疑問を差し挟んでいた。


『でも、ナナセさんの入学式って夕方からじゃなかったです?』


 そういえば、と記憶がよぎる。

 七瀬の進学先の名門私大は日本有数のマンモス校としても知られる。入学生の人数が多いため、ウイルス禍の情勢を鑑みて、入学式は学部ごとに時間帯を分けて行われると聞いていた。

 そして、彼女の学部の入学式は夕方なので、こんなに早くからスーツに袖を通す必要はないはずだったが……。


『チカちゃんはわかるでしょ?』

『ハイ、どっかの朴念仁以外はわかりますね^^』


 女性陣のメッセージが画面に飛び交う。いや、俺だって流石にわかるよ、彼女が大人モードの姿を誰に見せたかったのかは。

 ――本当、そういうところが可愛いんだって。



***



 俺のほうの入学式では、元陰キャ仲間の稲本いなもととも顔を合わせた。

 今後ともヨロシク、とお互い適当な挨拶も早々に、講堂のパイプ椅子に並んで腰掛けて式の開始を待つ。大学生になったからなのか、眼鏡の奥の彼の目は高校時代とは違った自信に満ちて見えた。

 いや、これは彼女が出来たからか。アニメ好きで結構可愛いとかいう……。


「あれからどうなの、例の彼女とは」


 マスク越しの小声で聞いてみると、彼は眉を寄せて変な表情を作った。


「ああ、うん……あの子とは別れた」

「えっ!?」

「ウソだって。エイプリルフールじゃん」

「お前なー、そういう悪趣味なウソはよくないって」

「悪い悪い」


 顔の前で片手を振りつつ、彼はこちらにも水を向けてくる。


「で、そっちは美少女作家とどうなの」

「まあ、普通だよ、普通。彼女の居候先で執筆デートとかしてる」

「へえ、さすが作家カップル」

「俺は作家じゃないけど……」


 今夜の高級ディナーの話は流石に出さない方がいいかな、なんて考えていると、稲本はおもむろにスマホを取り出し、「こっちはこんな感じ」とオタク系イベントでのツーショットを見せてきた。くだんの恋人は、量産型だか地雷系だか、何と呼ぶのかよく知らないが、フリルやリボンの目立つフェミニンな服装がよく似合っている。


「ほー……」


 素直に感嘆しながら、彼のスワイプで次々切り替わる画像を見ていると、ふいに写真の背景がイベント会場とは異なる屋内に変わった。あれ、と俺が声に出したところで、彼もしたり顔でスワイプを止める。

 先程と同じ服装のまま、大きなベッドの上に腰掛けるオタク女子……。暖色の照明に照らされたその室内が、いわゆるラブが付くホテルであることは、フィクションの中でしかその場所を知らない俺にも一目で察せられた。

 うっかり見せてしまった訳じゃないのは、喋りたくてたまらなそうな彼の目を見れば分かる。


「これってさ、見た通りの意味?」

「……まあ、そういうこと」

「おーおー、やるじゃないですか、稲本先生ぇ」


 彼の肩を叩いて俺が言うと、数ヶ月前まで非リアだった学友は、まんざらでもなさそうな目をして「まあね」と答えた。


「俺もようやく真のリア充ってやつになれたっていうか。なんか世界の全てが輝いて見えるよ、今は」

「詩人じゃん」

「それで、尾上おがみ先生は、ぶっちゃけどちらまで?」


 勢いのままに訊かれ、俺はうぐっと一瞬言葉に詰まった。いやまあ、誤魔化すことは何もないんだけど。


「まあ、その内だよ、その内。俺はほら、別にそういう一線越えなくたって、既に世界が輝いてるし?」

「そりゃなー、そうだよなー。お互い春が来てよかったですのう」

「左様でございますな」


 悪代官と越後屋のような笑みを向け合っていると、開式のアナウンスが聞こえた。

 ……入学式の後には、同じく元同級生の陽キャ女子達に捕まり、そこでも似たような会話をすることになったのはほんの余談である。



***



 そして、瞬く間に半日が過ぎ、その日の夜――。

 スーツ姿の七瀬と俺は、高級ホテルの高層階のレストランで、シャンパンに見立てた白葡萄ソーダで乾杯していた。お互いの大学入学と、彼女の続刊決定と……それから、交際約四ヶ月を祝って。

 ガラス張りの窓から見下ろす夜景に、七瀬はいつにもましてキラキラと目を輝かせている。


「都心の夜景だよ、スカイビューだよっ。いやぁ、私も東京の人になったなーって感じがしますねー」

「そういうこと言ってる内はイナカの子なんだって」


 俺だってこんな場所に来るのは初めてだから偉そうなことは言えないけど、ここは意地悪くそう言うのが正解だと思った。だって、案の定、ぷくっと頬を膨らませた彼女の顔はなんだか嬉しそうだし。

 しかし、前菜にスープにとコースが進むにつれて、完璧に堂に入った彼女のテーブルマナーを前に、目を丸くしてその真似をするのがやっとなのは俺の方なのだった。外国帰りのおばさんに仕込まれたのか知らないけど、これじゃどっちが都会生まれだか……。

 まあ、幸せそうに「美味しいっ」と言っている彼女の笑顔が見られれば、もうなんでもいいんだけど。


「お互い本を出すたびにさ、一緒にこういう贅沢しちゃうのもアリかもねー」


 メインの肉料理に舌鼓を打ちながら、彼女はご機嫌に声を弾ませた。


「お互いって……。俺なんかまだ、書籍化できるかどうかも分からないんだけど」

「大丈夫。もし今回のコンテストで受賞できなくても……アレン先生なら、いつか絶対、私よりずっと凄い作家になれるから」

「なに、その謎の確信」

「つまりねー、私は将来の大作家を青田買いしてるのだよ。頑張って年収八千万稼いでね?」

「いやいや……」


 ラノベ作家の平均年収が八千万円だとかいうのは、少し前にTwitterの創作界隈でバズったネタだった。もちろん、そんなのはごく一握りのトップ層だけの話で、普通はその十分の一だって難しいのは俺も話に聞いて知っている。まして、俺はまだそれ以前の問題なのに。


「キミってやっぱ、変な人だよ」

「その変な子と渡り合える時点で、蓮くんも割と変人かもよ?」

「えぇ……。そもそも俺ってキミと渡り合えてんの?」


 割といつも手玉に取られている記憶しかないんだけど……。まあ、物書きの時点で、みんな多かれ少なかれ変人の資質があるのは否定しないけども。


「私がキミを手玉に取ってる時、キミもまた私をとりこにしてるのだよ」

「いや、そんな、深淵を覗く時みたいな言い方されても」

「とどのつまり、キミが私を大好きになるたび、私の好きも大きくなるってことです」

「あ、はい……」


 真顔でそんなことを言われ、あまりの恥ずかしさに生返事しか返せない俺だった。


 ……そんなこんなで、デザートも終わって食後のコーヒーを味わい、一息ついていたとき。

 ゆったりとした余韻を静かに打ち切るように、七瀬は俺の目をじっと見て、「さて、蓮くん」と切り出してきた。


「私達は、今日から晴れて大学生です」

「うん?」


 俺は反射的に目をしばたかせる。

 外の夜景よりずっと輝く彼女の瞳は、何か決意のようなものを含んだ色をしているように見えた。


「お酒は飲めないけど、法的にはもう成人です。自分の行動に自分で責任を取れる年齢です」

「……はい」


 得体の知れない緊張に胸を押さえる俺の前で、一言一言をしっかり噛み締めるように彼女は続ける。


「ここで問題。……キミの大好きな彼女はどうして、今日のお祝いにホテルの中のレストランを選んだんでしょう」

「っ……」


 いくら俺が朴念仁でも、ここまでヒントを出されれば、彼女の仕掛けた伏線の意味は理解できる。

 おばさんとの約束事の期限がいつまでだったかも。本気の彼女の行動力がどれほどのものかも、俺はしっかり知っているのだから。


「……それって」


 言いかけた俺の言葉を、敢えて無言の上目遣いで遮って。

 答え合わせをするように、彼女はすっとテーブルの上にカードキーを出してきた。……フィクションでよく見るシチュエーションだ。部屋を取ってあります、という意味の。

 いつも余裕綽々の笑顔で俺を手玉に取っている彼女も、この時ばかりは少し恥ずかしそうで。

 緊張と僅かな期待が入り混じったような彼女の表情を見ると、その熱がうつったように、俺の顔面もたちまち熱くなるのを感じた。


「……それもエイプリルフールって言わないよね」

「エイプリルフールは午前中だけだよ?」


 くすっと微笑む七瀬の引力に、俺は吸い寄せられるように頷きを返していた。


 こうして、その日。

 大学一年生にしてはちょっと背伸びした、東京の夜景を見下ろすスイートルームの一室で――

 俺と七瀬は初めて、心以外も一つになった。

 まだ何も成し遂げてはいない、彼女と釣り合うには程遠い俺だけど、それでも。

 ……彼女と一緒に大人の階段を上れることが、今は何より幸せに思えた。

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【改稿】話題の美少女JK作家が、なぜか俺(の小説)を大好きと言ってくる 金時める @kintoki_meru

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